塀に囲まれた地域社会 gated community

平成18年3月6日(月)
朝、またまたボルネオのオランーウータンの人類学的観察記録のテレビを見てしまいました。私は正直なところ、NHKの衛星テレビしか見ていないので、TVの現状を語る資格はありませんが、日本のテレビは、私のような偏屈人間の目さえ奪うような、見ていて楽しく、しかも一つの主張を持って取材したり、制作したりしていて、考えたり議論してみたくなるような番組が一杯だから、うっかりすると貴重な時間をマスコミにどんどん奪われてしまいます。しかし、自然科学の教養のない私には、特にこうした人類学とか生物学などの現地取材番組には、ただただ敬服するばかりです。7日の朝のメキシコの洞窟調査の番組も見てしまいましたが、マグマにバクテリアが一杯いて、それが地球の割れ目から硫黄のガスとともに吹き出され、石灰石を溶かして洞窟になっているここには、ここにだけしかいない生物が沢山観察されたということ、これが地球上の生命の誕生の秘密をとく鍵となるだろうという話でした。世界で始めてのこの洞窟の取材には、2ヶ月を要したそうですが、こうした豊かな資金・優れた技術を要する番組の制作は、明らかに少数の豊かな国の情報産業の担い手しかできないことですが、同時に単なる「面白い」「消費だけのための」商品だけになりがちな、コストと利潤だけの経済合理性だけを原理とする情報産業に民活化しては出来ない仕事でもあることで、こうした番組を作れる極めて少数の国である日本は、大きな貢献を世界にしているように思います。外国のテレビをいろいろ見ている経験からすると、日本のNHK自主制作のTV番組の情報の質の高さ、量的な情報の豊富さは目を見張るものがあると思っています。日本のこうした番組がもっと世界の放送に利用されれば、非常に強くなっている日本アニメの影響力などとともに、もっともっと日本の存在感をアッピールすることになるでしょう。日本の存在感を文化的に高めることを「伝統的な日本文化」の「理解」を高めることと思っている向きもあるのではないかと思いますが、こうした現代の科学や思想、芸術への日本人の文化的な貢献そのものに軸足を置くことの方が大きな「理解」を相互形成できるのではないか、と思います。
 さて、朝日新聞「時流自論」で、渡辺靖慶応大助教授(アメリカ研究・文化人類学)は「安全求め、分断進む米社会」と題して、ロスアンゼルス郊外100キロにある準郊外exsurbとよばれるサバーブのもう1廻り外に高所得・高学歴者が集中的に住むためのgated community、広大な東京の1区に該当するほどの敷地を高いfenceで囲ったコミュニティがあること、こうしたコミュニティが従来からある郊外の外にますます発展していっていることを紹介していました。私も滞在したことのあるペルーのリマのような大都会は、都市の中心部にこうした趣旨のコミュニティが集中的に存在することを思い出します。貧しい農村部にはこうしたコミュニティは存在しませんが、大都市リマでは生活の豊かな安定した中産階級と上層の富裕層が住む中心部の住宅地と、人口の過半が占める一般勤労者の住む郊外住宅地は截然と区別されています。都市内の中産階級以上の住む住宅街区には、幾つかの、鉄のfenceに囲まれた住宅と緑豊かな私的な広場からなるコミュニティがあります。周辺からの出入りは、頑丈な男たちによってガードされていて、この中にある私的広場が唯一安全を確保できる「これら富裕層だけの公共的広場」として外から厳重に遮断されて存在しています。何物もとられる心配の全くない庶民の住宅地は、この国の「都市化」と共に、食と職を求めて都市に向かって移住した人々が砂漠の中にスラムを形成していった住宅地であって、ここはここで独自なコミュニティを形成して、相互に生活扶助をしているといって良いのですが、同時に貧窮・困窮層が階層化して貧困の再生産を強いられ、犯罪を余儀なくくり返す人たちをも含むことになっています。ピストルを携帯したビヒランテによりこうした一般市民から24時間の警護で身を守るgated communityが恒常化して、地域街区が階層別にsegregateされていったのでしょう。自由社会といっても、社会の内部に金持ちおよび少数の新中間層と、暮らしていくこと自体が困難な大多数の人々との大きなギャップを形成していく構造を持ち、国家はこうした構造を保持する機能を持つだけで、自由社会を擁護し、その秩序を絶対化する宗教を原理主義的に市民に教育するだけということになると、持てるものだけの自由主義であり、持てるものだけの「公正」な社会となって、その果てにはこうした持てるもののgated communityと、「飢えた狼たち」がその日その日の糧を求めて機会をうかがう「危険」な社会という信じがたい状況が生まれたのではないかと想像します。今やアメリカはそうした地区を、南米との国境地帯の西海岸部で創り出している、ということのように推測されます。徹底的に「みんな生活の心配のない」普通の人たちの階層を解体させていくと、その先に待っている社会の一つの形態は、こうした南米型・旧スペイン植民地型のモデルの現代版であるかのように空想してしまいます。 これは古典的な自由市場ないしは新古典主義的な自由主義とか、神様やご先祖様の手に委ねたままの社会の一つの古典的な典型的な姿を代表するように思われるのですが、いかがでしょうか?世界にはこうした社会が実は非常に広域に存在している事実に目を向けておきたいと思っています。そしてこうした社会が何時までも存続して変化しない時代は既に終わったという気がします。 最近のボリビアの国民が選挙で選択した道は、非常にラディカルな、国民の資源を北アメリの合衆国から取り返す所有構造の革命の道であるようですが、それ以外の道はあり得ないのかどうか、非常に気になるところです。