「愛」「慈悲」について思うこと。

「愛」「慈悲」について思うこと。
朝日,9.13,06年に、 本田哲郎神父と釈徹宗浄土真宗僧侶の対談 下 「宗教と社会活動」という記事があった。
本田氏:教会は神が人間の姿をとってこの世に降りたとしているが、聖書によると、イエスは自分を神の子と自覚していない。イエスは、底辺の差別をされていた職業に生まれた石切職人だ。その弟子も皆、最下層のなかで生き、その説く隣人愛とは社会で最も弱い立場にある人に対して徹底して寄り添うことだ、という。教団組織となり、制度化された宗教では人は救えないのではないか?という。ブッシュの背景にある原理的福音主義は、神話的要素も含めて聖書全てを歴史的事実とし、自分の宗教を相対化できる自由をもたない。
釈氏は、「仏教の慈悲の実践にも、寄り添うということが強調されている。教義や信条は大事ですが、それに縛られ、立ちすくんでは何もならない。人と人、人と場所のつながり、関係性を大事にして、目の前の現実に関わっていく姿勢が肝要です。困難な道ですが、宗教者にとって非常に重要なことです。」

この座談記事の関して、マクロなこととミクロなことに関して、2つの感想を持った。

ここでいわれている自己の信条を相対化する自由な精神をもち、眼前にある「救いを必要とする人」により添って立つという、「愛」「慈悲」こそは、さまざまな宗教的信念の中にあるuniversal なvalue-standardではないか。この点については、宗教だけではなくて、生き方や社会の枠組みの究極的な価値体系的信念を追求する哲学、文学、芸術、イデオロギー等全てについても妥当する、と私は思う。
10数年前のことだった。オーストラリアの高校にSpiritualityという科目があった。講師は客員として、アボリジニーの人や、アジア人、欧米人、いろいろな宗教の人を含んでいた。シュタイナー教育で知られるこの学校の先生方が、 諸宗教を原点に返って捉え直そうという動きと結びついたSpirituality精神性と言う用語を科目名にしていたことが思い出される。そこで私は、偶々その学校の友人となった先生に奨められて、100分授業2コマに亘って、「私の戦争・戦後体験」と「私のうけた軍国主義教育・戦後民主教育体験」について語らせられた。

現在も国家間の戦争は続き、毎日沢山の人が死んでいる。エルサレムを「聖地」とするユダヤ教キリスト教イスラム教が、その「聖地」の「奪還」を目指して戦ってきた戦争の歴史は、今日でも続けられている。こうしたことを声高に叫び続ける宗教原理主義的な極右勢力が、政治的にそれぞれの国家の権力を握ったとき、十字軍の昔から現代のイスラエル=米国とパレスチナ=中東アラブ諸国との紛争にいたるまで、双方が宗教的大義名分に基づく「聖戦」と称する殺し合いを続けることになっている。しかし、同時にそれぞれの宗教的信仰を共にする多くの人たちの間で、人間としての普遍的価値基準から宗教的信念を捉え返して、諸民族、諸国民、諸世界宗教信者などの多様な信念の人が自らの原点に返り、自らの宗教信念などを相対化し自由になって、単に多様な宗教に寛容であるだけではなく、自ら共同性をもった世界社会を構想していかなければならないglobalizationの時代がきたことを世界各地で感じ、それを求めていろいろな努力をしているように私は思った。
 多くの植民地は独立し、帝国主義植民地主義の時代は第2次世界大戦後に終わったかと思われたが、いまなお、世界各地の戦争や武力紛争のもう一つの大義名分として、ナショナリズムが無視できない要素となっている。自民族が領土をもたないとか、他民族によって征服され自国家によって差別を受けているとか、或いは形式的に民族が国家として独立しても他国の武力介入、経済的な支配によって民族的尊厳を奪われているとか、形式的には充分に自立・独立しているが、その信ずる充分な国民ないし民族としての威信を侵されているとか、それらによって触発されながら、民族的自立と尊厳を何よりも優先して、究極的目標として求めるべきだ、とする考え方が、ナショナリズムと呼ばれるものだといって良いだろう。しかし、今日、世界の各社会で、どこでも人々は自らの社会的帰属・アイデンティティを自民族や民族国家に求めているとは限らない。むしろ、多くの現代の独立諸国民国家では、人種差別を排し、内包する多民族の国民社会への統合や、他国民国家と構成する地域共同体への社会的統合の問題に腐心している、ないしは遠くにある理念として追求していると言えよう。
 日本でも、ここ20年間、globalizationの進行した時代にあたって、国際化された能力・人格を養成する教育システムづくりが急がれるとされてきた。しかし、その成果は低いものと自己評価せざるを得ない。そのため、小学校から英語教育を導入するということが中教審によって提案され、既に「先進的な」地域の公教育で行われているそうだ。精神性についても、globalizationに関連して最近とみに強調されますが、精神性についての日本の公教育問題とは、もっぱら日本人・日本文化を理解し日本人としてのアイデンティティを明確にもち愛すること、すなわち、「愛国」教育を如何に押し進め、国際社会で「強い日本であり続ける」ための人材を如何に育成するかということだとされているようですね。こうした事実を、皆様はどのように考えられますか? 


 救いを必要とする人は多い。生涯ある「悩み」に囚われて、常に谷底へと引き込まれていく力に抵抗して生きなければならない。多くの人が、そうした暗い力、悩みに抵抗して、救いを得ていくことに成功している。しかし、そのような悩みは決して未だ解決されないままに、人を奈落の底に落とし込んでいく強い力に苦しんでいるようなケースも、私どもの周辺にさえ、枚挙にいとまがないように思う。
最近次のようなtvのドキュメント番組を見た。「その男の子」は幼い時期に両親を失ってしまった。そして祖父母の手で育てられてきたが、祖父母の家に同居する家族数は多く、現時点で同居する子供、孫の数も多くて生活は厳しいことは一目で明らかであった。現在もこの子にとっては、この家族に身を置くことは不本意なことのようだし、夕食を家族と共にするのも遠慮がちであるかのようにみえた。現在、その子は高校3年生で、甲子園高校野球大会にでることが出来て、全国で名が知られるほどの活躍をすることが出来、まもなく社会人となるが、それは待ちに待った彼の「未来」の「始まり」であるように思われた。しかし、「プロ野球選手になる」と言う目標は、高校生スターでさえ、容易なことでは達成できない。ドキュメントは、ある硬式の子ども野球のチーム監督であり、今、高校野球の監督である人と、小学生の時期から高校生の今までを監督に導かれてきた子ども達の10有余年の関わりと、甲子園高校野球での活躍に関するものであった。「その男の子」は、小学校時代、体格にも恵まれ、スポーツの能力に恵まれていたことから、この監督の目に留まり、選手として育てられつつ、小学校から高校まで、厳しいトレーニングを課せられ、またそれなりの輝かしい結果をも出しつつ成長し、全国高校野球でも知られる有名選手になっていった。しかし、監督の目からすると、「この子」は、絶えず苦しいトレーニングに背を向け、自己を目的に向けて集中し鍛えることが難しくて、街の同年のチンピラ達とバイクを乗り回し、不良行為に流されそうになりがちで、監督が口を酸っぱくして、「心の弱さを克服しろ」と言うことさえ、理解できない日々をくり返してきたようだ。そのたびに監督は、手に入れることのできない運動具を回してやったり、遠征の費用を援助してやったり、野球仲間と出来るだけ合宿生活を共にする機会を作ってやったり、いわゆる親代わりの面倒を見て、寄り添ってきたようだ。この子自身「僕の親父のような人」と語っている。この監督自身、収入の少ない人であるが、「誰でも、努力すれば、たとえこの辺境にある貧しい小さな島の土地の子供でも、日本全国の晴れ舞台でその力を示すことが出来るんだということを事実として教えたい。それが俺の仕事であり、任務なのだ」という思いで献身的な労働と、時に身銭を切って、その仕事に結果を出していった。男の子の「心の弱さ」は、親が居ないという悩みに発していることは明らかであったように思えた。傍にとことん寄り添う人がいないことの悩みは、彼の「心の弱さ」「暗い深みへと引きずり込もうとする力」であることは、子供を育てた年齢の人間なら誰でも一目瞭然のことであったろう。一度、齟齬をきたした親子関係の修復は困難なものであるし、齟齬をきたした親子関係に育った「悩める子」は、自分自身の子供を育てる際にも、その「悩みを引きずって」、子供に「悩み」を受け渡す場合が多い。私たちはこのドキュメントを見て、この子の「暗い力」に対する闘いと、この監督のこの子達に「寄り添ってきた」「偉さ」に感動する。その意味では、この人の「慈悲」の心の深さに心打たれる。しかし、この監督を突き動かしているものは何だったのだろう、ということも気になった。この監督にも、「救い」を求めて戦わねばならなかった「悩み」「弱さ」があったのかもしれない。若い頃、この監督は、野球に情熱を傾けていた高校生ぐらいの「息子」を失っていたのであった。
 それぞれの人間が抱える「人により添う」「愛」と「家族」「地域」のドラマに含まれる「普遍的な意味」を考えると、人間の持つ「精神性」の問題に思い至らざるを得ない。私は、人間主義的であることと、「人を押しのけ、うち倒し、抹殺する」力を誇示することを意味として肯定することは、決して両立することの出来ないものではないか、とおもいたい。
 (Spiritualityとか、「霊性」とかいわれている議論があるようですが、私自身は、そうした論者の方向で、この概念を理論的に精緻化する努力をしたいという気になれません。また、シュタイナーの宗教的哲学についても、その難解な議論を学ぶ根気がありません。生命をもっているもの,生活するものliving systemの「心」「精神」の問題ぐらいの程度で充分のように思っています。しかし、そうした必要性をもつ方々が払っている真摯な努力や行動には尊敬を感じています。)