労働法制見直し。厚生労働省案

 長い間、ブロガーとしてお休みしてしまいました。スペインにいた期間、帰国してからの半年、日本についてすっかり勉強不足になりましたので、新聞や放送などが新鮮にさえ思えます。多少とも、健康を回復してきましたので、これまで同様、毎日のニュースを中心にデータを蓄積するつもりで、毎日少しでも文章を書いておきたいと思います。勿論、ニュースというものは、ある出来事を、ある視点、ある枠組みから評価的に認知し、時に「付加価値」をつけて販売する商品とされたり、或いは、ある認知的価値標準そのものを伝達するための素材として利用することを目的として生産されていたりして、情報であって出来事そのものでないことはいうまでもありません。私達がそれを読んで「記録」したり、ブログに引用したりする場合も、ニュースは更に私によって「歪められる」ことになります。この歪みをブロガーの個性の表現として「楽しむ」という書き方も読み方もあり得るでしょう。私の場合、こうした個性を重視するブログのあり方とはちょっと異なり、私の持つ枠組みを絶えず再検討しつつ、その枠組みから一貫して「事実」として報道されるものをどのように「理解」するか、或いは、こうした「事実」の「理解」を進めていくと、自分自身の枠組みにどんな矛盾が生じてくるか、どう考え方を修正していかなければならないか、などを記録しておきたい、と願い、ブログを書いています。
 正直に言って、現在、病後の私はどれほど「惚けてきたか?」不安です。記録しておきたいことは沢山でてくるのですが、分かり易い、きちんとした文章を書くためには何度も書き直さなければなりません。ブログの回数は少なくなるでしょう。それだけでなく、ピン惚けで幼稚になっていることに気付いてないかもしれません。

労働関係の様々な労働法改正案が一気にこの年末までに作り上げられ、来年国会に持ち込まれようとしていると報道されています。それは、労働契約のルールの明確化として、「労働契約法」を新設するということだそうで、その一つの柱は、従来の労働法のホワイトカラーの労働に対する企業の義務規定を免除しようという「ホワイトカラーへの企業義務免除法」white color exemptionであり、もう一つの柱は、いわゆる「勝ち組み、負け組み」の格差拡大、working poor構造化に関してのものと称する幾つかの「改正」案のようです。(厚生労働省案については12月9日新聞に詳細報道されました。)これは私にとっても重大関心事で、どんな改正案が検討されているのか記録しておかなければなりません。
小泉政権時の「構造改革」で、決定的に後戻り不可能な形で進んだ最も大きな法制的な「改革」の一つに、パート労働による正規労働の置き換えを正当化する改正がありました。もともとこの時期の企業が行った労働組織の「合理化」は、終身雇用・企業別組合の労働関係にもとづく日本的経営様式を廃棄して、新自由主義労働市場方式へと移行して行くことだったといえるでしょう。いいかえれば、正規社員をできるだけ減らしていき、これをその企業の1日の営業時間構造上で必要な労働時間量だけ時間給制度によって使える労働力、つまりアルバイト・パート労働・派遣労働に置き換えていくという方式にしていったのでした。こうすると、「マクドナルド方式」ともいわれるように、忙しくない時間に同じ給料を払って同じ人数だけ人を雇っておく必要がないという方式になり、人件費はこれ以上ないほどの節約を行うことが出来ました。しかし、もっと重要な目的は、こうした置き換えによって、正規労働について企業が一部負担すべき年金、退職金、健康保険などの費用や、住宅手当、扶養手当、ボーナス、残業手当などの各手当という形態をとっていた賃金部分を全て支払う必要をなくそうということでした。従来は、社会全体として、生活者の方は、きめの細かい賃金項目の生活給賃金の体系によって、例えば残業手当等の調整を通して、日本経済の景気変動にそれなりに適応させられつつ、生涯働くことを通して自分の各ライフ・ステージのニーズを確保していくことが出来ると確信していたのでしたが、こうした「中流社会」は、この「合理化」によって解体されたのだ、と思います。こうした仕組みのもとで、一度正規労働のコースを外されてしまった人は、そのままでは、年金も、健康保険の制度からも排除されて、生涯、working poorの階層に組み込まれることになるかもしれないという結果は自明ではないでしょうか?企業の残された究極のコスト節約として行われたこのような日本的経営方式の解体は、日本の各階層の生活構造を根本から解体しました。しかし、現に大企業・公務員として生き残って働くことのできた少数の人には、日本的経営方式は、あたかも維持されたかに思われました。正規労働削減はかなり前から行われていましたが、定年後の人員の補充無し、定年近い中高年の解雇、自主的退職への色々な方法での勧奨、そして新卒者の正規労働の採用無し、という形で出来るだけ一般に見えないような形で行われ、やがていつの間にか100%新自由主義労働市場に置き換えられるように進められてきた、と言えるように思います。そして、ここまでは、正規社員から排除されるのはその人の能力がないからだという「能力主義」への改革が主張され、「自助努力」さえすれば新しい正規労働の職場が見つかるかのように説得され、学歴社会の幻想も維持されました。しかし、新規採用無し、ということは、現在の15~24才の世代だけとってみれば、2人に1人、50%が非正規労働においやられているということで、この世代は大学を出ても、正規労働にさえつけないかもしれないということを事実として否定しようもないものとして知っています。つまり、この世代の人の多くは、「学歴社会」の幻想を抱きつつ、下手をすると健康保険も年金も公的制度からも排除されてしまい、自分で100%賄いなさいとされる社会に出ていったのだということを、今苦痛を持って体験しているのではないでしょうか?。こうした「改革」にもかかわらず、正規労働市場と職安・ハローワーク市場が2分されているという日本型労働市場は維持され、新卒時にどちらかの市場に配分されたかが最後、この2つの型の市場を自由移動出来ないという構造は放置されています。「何処の学校を出ているかが決定的に生涯の運命を握っている」という学歴社会の枠組みを人々が捨てきれないのは、この限りで理由があると思います。(外資系会社に就職し、順調に給与もポジションも上昇移動していったが、仕事が面白くなく、能力主義社会への転換を歌い上げる日本企業・政府の考え方をうっかり現実と思い違えて、もっと自分に適したやりがいのある仕事を求めて退職し、ハローワークに行き、自分のキャリアと能力を売り込んだ人が、行く先々で給与が下がり、機会を奪われて、今では生活も出来にくい状態になっている事例を新聞は紹介していました。)つまり、新自由主義労働市場英米と同じではなく、きわめて日本型新自由主義と言えるでしょう。しかし、日本的経営主義といわれた管理方式とは原理的に異なった「規制緩和」をした点で、明らかに新自由主義労働市場になったというべきでしょう。
 最近、国民年金制度や国民健康保険制度の加入者が、年金給付では最低生活保障水準の生活を営めなくなっているとか、健康保険費用が払えなくて医療にかかることが出来ないということが報道されています。人並みの生活が出来ていた人たちが、自らの労働では自立できなくなってしまい、国民年金制度や国民健康保険制度の中に落ち込んできた結果、ここに社会的弱者が集中し、その上、現在の制度改正によって「自立」を求められて保険給付、生活保障給付も拒否されるという現実が、最近非常に目立ってきたようです。それを報道するNHKのアナウンサーでさえ、思わず怒りの感情を抑えることが出来ない様子は、極めて印象的でした。
こうした現実の元で、最近、弱者救済の方法としていろいろな意見が出されているようですね。「自分たち公務員の共済組合の年金制度や企業の厚生年金制度の中にこうした人々を受け入れ、給付や負担を国民として一体化して引き受けていこう。」というのは、確かに有力な提案の一つでしょう。しかし、私はホンの一昔、私達を含めて、盛んだった同じ議論を思い出します。1960-70年代、「福祉国家」の理念を全ての政党がそのマニフェストの中で声高に公約して競った時期に、すべて、大・中・小企業の従業員や、家族労働従業者、国家・地方公務員として働く人々、その主婦を含め、社会のそれぞれの仕事の関係の中に位置を占める「正規労働」として、年金や保険給付の保障の一元化された仕組みの中に全ての人が参加していかなければならない、という議論があったはずでした。社会保障制度の一元化は福祉国家の理念からは自明のことであったとおもいます。しかし、国民諸層の掛金の自己負担分以外に、企業者・政府が負担すべき部分を理由に、大企業・政府は反対し、こうした一元化は実現できませんでした。 そればかりではなく、政府・大企業は、前記のように、「正規労働」者の社会保険費用をもっぱら企業・政府のコストとみなして、正社員・定員ポストを削減することによって、この「企業福祉」部分「負担」をカットしてきたのです。従って、「国民保険・年金制度と厚生年金・国家公務員共済を一括一つの制度にして、国民が全体として負担を共におい、給付の減少や負担の増大を共に負うべきだ」という提案は、福祉社会理念として自明ながら、今日異なった文脈から緊急性を持って復活してきた議論だというべきでしょう。私もこの提案に賛成しないわけに行かないと思います。しかし、こうした現実の中での、「一元化」に対して、尚難色を示しているのは、大企業や政府です。現在の地位を守る確信を失った企業の従業員や公務員が、自分の特権を守ろうとして反対しているのではないでしょう。 
 さて、ここで労働法制の改正案を見てみる限り、日本の大企業も現行政府も日本国民の雇用と生活の保障をしっかり行おうとは考えていないことは、今のところ明らかなように思われます。
 例えば「パート労働法改正」は、「職務や責任が正社員と同じで、無期限で雇われているようなパートには、正社員との「待遇での差別的な取り扱い」を禁ずることなどが柱だ」ということです。但し、この法案は、差別禁止の対象は職務や責任で4段階に分けた内の最も正社員に近い人だけで、それ以外は企業の「努力目標」にとどめているということです。かつて私の務めていた国家機関で、毎日限りなく正規職員と同じ仕事を、同じ列の机を並べて、同じ時間していた人の内、何人かがパート職員であるということを知ったのは、何年もたってからであったことを思い出します。そういわれてみれば、これらパートの人たちは、たしか週の最終日を1時間だけ早く早退させられていました。つまり、雇い主にとっては、現に雇用しているパート職員の正規職員化が「努力目標」になるようにするのはわけもないことです。生活保護基準より低くなっている最低賃金を引き上げる最低賃金法改正とか、就職氷河期にあった若者の積極的採用を求める雇用対策法改正というようなものが提案されるようですが、全体としてこれら改正法は規制力が無く、企業への「お願い法」だということです。
 しかし、もっと実効性があり、意図も明確で具体性を持っているのは、ホワイトカラーエグゼンプションという横文字でいわれる改正で、8時間労働を超える労働時間は残業と規定し、残業手当を払わなければならないという規制を、ホワイトカラーについて外そうというもののようです。今でも、1日睡眠時間4〜6時間で、休日も自主的に働かなければならない実態があることが広く知られているホワイトカラーについて、地獄がまっているような法改正だと、私自身思わないわけにはいきません。経営者層によると、日本のホワイトカラーの労働時間あたり生産性の低さは、ヨーロッパなどと比較して極めて顕著なのだといいます。私もそういう話はよく聞きます。「日本の社員は、いつも雑談していて、だらだら徒に長い時間会社にいるだけで、勤務時間内の仕事の能率が悪い」という外国人の一つの極まり文句があります。、これに対して、日本の経営者自身、決まりきって日本の企業文化の違いを反論としてあげています。誰でも知っているように、ヨーロッパでは9時から5時までの勤務時間が終わると、上司から平まで一斉に勤務場所を離れる風景を思い出してください。そして、この勤務時間内の仕事の集中ぶりは、日本の勤務状況と同じ価値基準では比較することができないほど密なものであることもよく知られています。しかし、丸ごと1日の労働日からみると、どちらが事実上負担の多い仕事をしているかといえば、遙かに日本のホワイトカラーだということは、日本人自身極めてよく知っているのではないでしょうか?
この改正が、欧米の8時間労働のライフスタイルを伴うような、単位時間あたりの集中・生産効率を求めるものではないことは明らかです。労働時間の現状を前提にして、超過勤務手当てなどの「規制を緩和」しようと言うものでしょう。何故、こうした非人道的な法改正が提案され、おそらく何の障碍もなく国会を通過していくのでしょうか? 私にとっては、これこそ真剣に考えたい問題の一つのように思われます。

寝たきりの入退院をくり返しました。

「K,M様
先日、お会いしましたOさんの葬儀後、お変わりなくお過ごしのことと思います。人口動脈手術の退院の数日後というような、無茶な日程でしたが、あれからしばらくの間、人工動脈のインプラント後の痛みに耐えながら、リハビリなどに務めましたが、実はおおかぜをひいて、何となく命の危険を感じてかかりつけの総合病院に行きましたところ、肺炎という診断でそのまま緊急入院ということになり、11月末、漸く退院ということになりました。殆ど10月半ばの手術から11月末まで入院生活を送り、私たちの世代が積み立てることが出来た保険制度のおかげで高額な医療費も支払い可能でしたが、2度に亘って入退院ということで、それぞれが支給限度額内に収まったということもあったのではないかと思います。私は、初めて、他の個人や社会の助けを借りなければ、生命として、文字通り生きていけないという事態に陥りました。今現在、盛んに多くの普通の人によって「誰でもが介護や生活援助を受けなければならない」必要があり得ること、こうした生活の社会的国家的保障が「国民の基本的人権」として、我々は憲法によって意志決定されているということが、改めて自分に即して緊急事態として事実認知されるようになり、どうすればよいか議論されるようになっているように思います。私自身、お恥ずかしい話ですが、友人の中に何人も事例があるにもかかわらず、たとえば、「障害」を持つ人やその家族の人と、第2期高齢者やその家族が、生きていくために「他者」や「社会」の助けが必要なのだという、同じ必要にさらされているのだという実感は、今回の病気の体験をするまでは、本当の実感として共有出来ていたとは言えませんでした。保険料が払えなくなった国民健康保険制度内の沢山の人たちが、医療費が払えなくなり、保険料を払い込んで保険証を手に入れる「自立努力」につとめながら、病院にも行けずに苦しんでいる事態が進行しているようです。私よりもう少しばかり年齢が若かったりすると、厚生年金・公務員年金だけでは生活が難しい人が数多くでてくると思われます。家族・親族の一員が失業したり、病気をしたり、子供を抱えて離婚したりすると、これらの家族の一員として夫婦の年金だけでは生活が成り立ちにくくなるということは、現状の新自由主義労働市場の元では、誰にでも容易に起こりえることです。また、私のような年齢になると、全ての人が、いつかは必ず病院の医療・看護によって助けてもらわなければならない、その時、医療サービスに対して何らかの高額な医療費を払わなければならないが、その3割自己負担できるような人は人口部分のどれだけの比率であるのだろう? 誰でもいつかは、人の介護を受けなければならない事態に必ず到達することを知らなければなりませんが、今後、通常いう「自立する」条件、労働市場の制度からはじき出された人たち、低年金収入の定年者、病人、障害者、働き収入を得ることのできない人たち、国民健康保険料や介護保険料の支払いが難しい人たちも数多くなることだろうと思います。一方で医療技術の進歩は著しいようですが、医療費も高額化し、医療制度の改正がどんどん進行中のことでもあり、実態がどうなっているか、私自身勉強してみなければなりません。病院側の医療報酬の制度の改正があって、患者は一定の措置が終わると、出来るだけ早く退院させられるようになったようですね。こうしたことも、2つの異なった大きな病院に入院して、それぞれの病院の医療・看護体制に大きな影響を与えているように思いました。
個人的には、今回、初めて、本格的に妻の介護を受ける経験をしたのですが、いよいよ彼女に持病を持つ私の老後介護生活を送らせることになったこの経験を、しっかりと今後の生活にいかして、もしかしたら私もこれから彼女の介護をしなければならないとも限らず、病気に伴い、否応なく夫婦の人生の新しい段階に入っていかなければならないことを考えざるを得ませんでした。どのように「自立」して全身のどこかに異常を持ちつつ「枯れていく段階」を、幸福にすごしていくことができるのか、こうした課題を見出さざる得ない経験でした。
 幸い、肺炎はほぼ完治したようで、今はもう元気です。2ヶ月たって動脈ももう痛みが無くなりましたし、いちいちその存在を意識しなくても体を動かすことが出来るようになれるだろうと、確信し出しました。脚の血流も快適になってきましたので、手術の甲斐はあったのではないかと思います。但し、それによって、血栓を防ぐための幾種類かの薬が、インスリン注射の他に加わり、新たな薬漬けの市場ネットに絡みとられた、という想いがあることも正直なところです。
入院中、糖尿病の治療も行われ、他のより重大な病気に対応して、今まで予想もしていなかった大量のインスリン投与というような処置が行われて、新しい経験をいたしました。糖尿病についての自己管理も、こうした病気の経験の中で、2ヶ月に1度の検査の医者任せでは、これからは自立困難が早まる危険に通ずるかもしれないと思い、もっと「きめの細かい」自己管理の必要を感じています。これも+の方向に活かしたい経験でした。
私の働いていた時期(60年代~2000年)の社会体制は、日本国憲法を前提にして、国家は、全ての国民に基本的人権、生活権を社会的に保障する平和な福祉社会を目的にしていることは国民的合意を得ており、従って、こうした価値基準で国家を論ずることは、「護憲論者」として、非常に少数派の「革新」的な逸脱者の議論扱いされることはなかったように思います。たとえ、戦後一貫して、それが「押しつけ憲法」で、明治国家体制以来の日本近代社会の「日本らしさ、日本人らしさ」にそぐわない憲法であり、戦前からの日本政治システムの存続、復古を諮るべきであるという政治勢力の「憲法改正」議論が執拗に続けられてきたとしても、私は、まだ、国民の多数派が、まさか、2000年代に入って憲法改正をまたずに、事実上憲法は改正されてしまったかの如く、「企業が国際的に競争力を持てば、個人の福祉は、巡り巡って個人の福祉を向上させる」という、決して事実上証明されたことのない新市場主義のイデオロギーにすっかり染まってしまうまでに変化するとは思ってもみませんでした。主権者たる国民の人権を守るという憲法の目標設定を放棄して、国家は社会福祉制度を解体し、安定雇用・完全雇用の企業責任を放棄するよう制度「改革」に狂奔し、雇用機会は保障されず、イスラエルパレスチナ戦争を中軸に世界戦争を勝ち進む幻想に陥るブッシュ軍事体制にべったりと協力して、全ては個人の自立能力の責任であって、国家の責任はない、国家は小さな政府が望ましく、地方自治体、諸個人が自立責任を持つべきだと、国家責任を市場メカニズムに丸投げ放棄してしまう政府を支持しているという信じがたい状態になっています。来年は、こうした小泉・安部の親米政権の日本的右翼の流れを押し進める先で、「ラムズフェルドの戦争」(NHKスペシャルのタイトル)戦略の破綻が、さすがのアメリカ人の多数派である「ナショナリスト」にも明白なものとなり、世界の世論は反米の色合いを明示化し、原理的右翼の政権は雪崩を打って崩壊し、日本国民もまた、如何に世界世論に背を向けて孤立化の道を歩んで来たのかを知ることになることを、私は日本人のためにも切に期待しています。元民主党アメリカ大統領カーターのような、膨大な資金と圧倒的な軍事力を直接行使してパレスチナの植民地化をすすめているイスラエルの戦争と、それを助けるアメリカの世界政策こそが、パレスチナ・アラブ諸民族の「テロ」、反米的抵抗を生み、イスラエルアメリカのこうした軍事行動を放置している限り、世界は親米―反米の2極化をすすめ、やがて国際社会は、反米で統合されていきかねない状況が進行しているとし、イスラエルパレスチナの共存の仕組みを国際的に保障していく方向をアメリカは追求しなければならない、と説く極めて少数派の意見にも、耳を傾けるアメリカ人は少しずつ増えていくのではないでしょうか? 
個人的な私の病気について、話す相手として、医療・薬産業に詳しい君が私にとって一番何かを上手に受け止めてくれそうに思われます。まだ、漸く定年を迎えたばかりの、ずっと先の長い若さをもっているお二人ですので、こうした話は迷惑でしょうが、近況、聞いていただきました。あなたは何も語りませんが、あなたの家族にも、上記の日本企業社会の激変にともない、心配な問題を抱えていること、そのために大奮闘していることも知っています。その中で、元気で定年後生活第1段階を楽しんでくださることを切に願っています。地域の同一の趣味の集団活動や、合唱とか農作業とか、青春切符の徒歩旅行など、限られた予算で沢山の人が、この段階の元気な体力を楽しんでおられるようですね。 私の住む地方に来られることがありましたら、お二人揃って、ぜひ気軽に寄って下さい。    千兵衛・K」

「愛」「慈悲」について思うこと。

「愛」「慈悲」について思うこと。
朝日,9.13,06年に、 本田哲郎神父と釈徹宗浄土真宗僧侶の対談 下 「宗教と社会活動」という記事があった。
本田氏:教会は神が人間の姿をとってこの世に降りたとしているが、聖書によると、イエスは自分を神の子と自覚していない。イエスは、底辺の差別をされていた職業に生まれた石切職人だ。その弟子も皆、最下層のなかで生き、その説く隣人愛とは社会で最も弱い立場にある人に対して徹底して寄り添うことだ、という。教団組織となり、制度化された宗教では人は救えないのではないか?という。ブッシュの背景にある原理的福音主義は、神話的要素も含めて聖書全てを歴史的事実とし、自分の宗教を相対化できる自由をもたない。
釈氏は、「仏教の慈悲の実践にも、寄り添うということが強調されている。教義や信条は大事ですが、それに縛られ、立ちすくんでは何もならない。人と人、人と場所のつながり、関係性を大事にして、目の前の現実に関わっていく姿勢が肝要です。困難な道ですが、宗教者にとって非常に重要なことです。」

この座談記事の関して、マクロなこととミクロなことに関して、2つの感想を持った。

ここでいわれている自己の信条を相対化する自由な精神をもち、眼前にある「救いを必要とする人」により添って立つという、「愛」「慈悲」こそは、さまざまな宗教的信念の中にあるuniversal なvalue-standardではないか。この点については、宗教だけではなくて、生き方や社会の枠組みの究極的な価値体系的信念を追求する哲学、文学、芸術、イデオロギー等全てについても妥当する、と私は思う。
10数年前のことだった。オーストラリアの高校にSpiritualityという科目があった。講師は客員として、アボリジニーの人や、アジア人、欧米人、いろいろな宗教の人を含んでいた。シュタイナー教育で知られるこの学校の先生方が、 諸宗教を原点に返って捉え直そうという動きと結びついたSpirituality精神性と言う用語を科目名にしていたことが思い出される。そこで私は、偶々その学校の友人となった先生に奨められて、100分授業2コマに亘って、「私の戦争・戦後体験」と「私のうけた軍国主義教育・戦後民主教育体験」について語らせられた。

現在も国家間の戦争は続き、毎日沢山の人が死んでいる。エルサレムを「聖地」とするユダヤ教キリスト教イスラム教が、その「聖地」の「奪還」を目指して戦ってきた戦争の歴史は、今日でも続けられている。こうしたことを声高に叫び続ける宗教原理主義的な極右勢力が、政治的にそれぞれの国家の権力を握ったとき、十字軍の昔から現代のイスラエル=米国とパレスチナ=中東アラブ諸国との紛争にいたるまで、双方が宗教的大義名分に基づく「聖戦」と称する殺し合いを続けることになっている。しかし、同時にそれぞれの宗教的信仰を共にする多くの人たちの間で、人間としての普遍的価値基準から宗教的信念を捉え返して、諸民族、諸国民、諸世界宗教信者などの多様な信念の人が自らの原点に返り、自らの宗教信念などを相対化し自由になって、単に多様な宗教に寛容であるだけではなく、自ら共同性をもった世界社会を構想していかなければならないglobalizationの時代がきたことを世界各地で感じ、それを求めていろいろな努力をしているように私は思った。
 多くの植民地は独立し、帝国主義植民地主義の時代は第2次世界大戦後に終わったかと思われたが、いまなお、世界各地の戦争や武力紛争のもう一つの大義名分として、ナショナリズムが無視できない要素となっている。自民族が領土をもたないとか、他民族によって征服され自国家によって差別を受けているとか、或いは形式的に民族が国家として独立しても他国の武力介入、経済的な支配によって民族的尊厳を奪われているとか、形式的には充分に自立・独立しているが、その信ずる充分な国民ないし民族としての威信を侵されているとか、それらによって触発されながら、民族的自立と尊厳を何よりも優先して、究極的目標として求めるべきだ、とする考え方が、ナショナリズムと呼ばれるものだといって良いだろう。しかし、今日、世界の各社会で、どこでも人々は自らの社会的帰属・アイデンティティを自民族や民族国家に求めているとは限らない。むしろ、多くの現代の独立諸国民国家では、人種差別を排し、内包する多民族の国民社会への統合や、他国民国家と構成する地域共同体への社会的統合の問題に腐心している、ないしは遠くにある理念として追求していると言えよう。
 日本でも、ここ20年間、globalizationの進行した時代にあたって、国際化された能力・人格を養成する教育システムづくりが急がれるとされてきた。しかし、その成果は低いものと自己評価せざるを得ない。そのため、小学校から英語教育を導入するということが中教審によって提案され、既に「先進的な」地域の公教育で行われているそうだ。精神性についても、globalizationに関連して最近とみに強調されますが、精神性についての日本の公教育問題とは、もっぱら日本人・日本文化を理解し日本人としてのアイデンティティを明確にもち愛すること、すなわち、「愛国」教育を如何に押し進め、国際社会で「強い日本であり続ける」ための人材を如何に育成するかということだとされているようですね。こうした事実を、皆様はどのように考えられますか? 


 救いを必要とする人は多い。生涯ある「悩み」に囚われて、常に谷底へと引き込まれていく力に抵抗して生きなければならない。多くの人が、そうした暗い力、悩みに抵抗して、救いを得ていくことに成功している。しかし、そのような悩みは決して未だ解決されないままに、人を奈落の底に落とし込んでいく強い力に苦しんでいるようなケースも、私どもの周辺にさえ、枚挙にいとまがないように思う。
最近次のようなtvのドキュメント番組を見た。「その男の子」は幼い時期に両親を失ってしまった。そして祖父母の手で育てられてきたが、祖父母の家に同居する家族数は多く、現時点で同居する子供、孫の数も多くて生活は厳しいことは一目で明らかであった。現在もこの子にとっては、この家族に身を置くことは不本意なことのようだし、夕食を家族と共にするのも遠慮がちであるかのようにみえた。現在、その子は高校3年生で、甲子園高校野球大会にでることが出来て、全国で名が知られるほどの活躍をすることが出来、まもなく社会人となるが、それは待ちに待った彼の「未来」の「始まり」であるように思われた。しかし、「プロ野球選手になる」と言う目標は、高校生スターでさえ、容易なことでは達成できない。ドキュメントは、ある硬式の子ども野球のチーム監督であり、今、高校野球の監督である人と、小学生の時期から高校生の今までを監督に導かれてきた子ども達の10有余年の関わりと、甲子園高校野球での活躍に関するものであった。「その男の子」は、小学校時代、体格にも恵まれ、スポーツの能力に恵まれていたことから、この監督の目に留まり、選手として育てられつつ、小学校から高校まで、厳しいトレーニングを課せられ、またそれなりの輝かしい結果をも出しつつ成長し、全国高校野球でも知られる有名選手になっていった。しかし、監督の目からすると、「この子」は、絶えず苦しいトレーニングに背を向け、自己を目的に向けて集中し鍛えることが難しくて、街の同年のチンピラ達とバイクを乗り回し、不良行為に流されそうになりがちで、監督が口を酸っぱくして、「心の弱さを克服しろ」と言うことさえ、理解できない日々をくり返してきたようだ。そのたびに監督は、手に入れることのできない運動具を回してやったり、遠征の費用を援助してやったり、野球仲間と出来るだけ合宿生活を共にする機会を作ってやったり、いわゆる親代わりの面倒を見て、寄り添ってきたようだ。この子自身「僕の親父のような人」と語っている。この監督自身、収入の少ない人であるが、「誰でも、努力すれば、たとえこの辺境にある貧しい小さな島の土地の子供でも、日本全国の晴れ舞台でその力を示すことが出来るんだということを事実として教えたい。それが俺の仕事であり、任務なのだ」という思いで献身的な労働と、時に身銭を切って、その仕事に結果を出していった。男の子の「心の弱さ」は、親が居ないという悩みに発していることは明らかであったように思えた。傍にとことん寄り添う人がいないことの悩みは、彼の「心の弱さ」「暗い深みへと引きずり込もうとする力」であることは、子供を育てた年齢の人間なら誰でも一目瞭然のことであったろう。一度、齟齬をきたした親子関係の修復は困難なものであるし、齟齬をきたした親子関係に育った「悩める子」は、自分自身の子供を育てる際にも、その「悩みを引きずって」、子供に「悩み」を受け渡す場合が多い。私たちはこのドキュメントを見て、この子の「暗い力」に対する闘いと、この監督のこの子達に「寄り添ってきた」「偉さ」に感動する。その意味では、この人の「慈悲」の心の深さに心打たれる。しかし、この監督を突き動かしているものは何だったのだろう、ということも気になった。この監督にも、「救い」を求めて戦わねばならなかった「悩み」「弱さ」があったのかもしれない。若い頃、この監督は、野球に情熱を傾けていた高校生ぐらいの「息子」を失っていたのであった。
 それぞれの人間が抱える「人により添う」「愛」と「家族」「地域」のドラマに含まれる「普遍的な意味」を考えると、人間の持つ「精神性」の問題に思い至らざるを得ない。私は、人間主義的であることと、「人を押しのけ、うち倒し、抹殺する」力を誇示することを意味として肯定することは、決して両立することの出来ないものではないか、とおもいたい。
 (Spiritualityとか、「霊性」とかいわれている議論があるようですが、私自身は、そうした論者の方向で、この概念を理論的に精緻化する努力をしたいという気になれません。また、シュタイナーの宗教的哲学についても、その難解な議論を学ぶ根気がありません。生命をもっているもの,生活するものliving systemの「心」「精神」の問題ぐらいの程度で充分のように思っています。しかし、そうした必要性をもつ方々が払っている真摯な努力や行動には尊敬を感じています。)

基幹動脈の手術−全く個人的な近況の報告

Y様、I様
 皆様ご夫婦揃って御元気なことと推察いたします。時々、6人で毎日曜日散歩し、目に馴染み焼き付いているサラマンカのあちこちの風景が思い出され、また夜には軽く食事したあちこちのBarの風景が思い浮かび、今、皆様が何をしておられるだろうか想像したりしています。日本も、子ども達の夏休みも終わり、漸く、さすがに夜など涼しくなり始めました。イベリア半島の今年も、非常に暑く、山火事も相次いだようにニュースなどで聞いていますが、もう落ち着きましたでしょうか? 帰国後、長い間、変わりばえもしない私個人の近況をお知らせすることもあるまいと思っていましたが、今日は少し近況についてお知らせしたいと思います。
 帰国後もう半年以上が過ぎました。その後、たいしたことも出来ませんでしたが、その間継続的に行ってきた一番の出来事の一つは、歯医者を手始めの医者通いでした。歯については、奥歯3本を結局失いまして、部分的に入れ歯を作ることになりましたが、使ってみると入れ歯というのは非常に煩わしいもので、はずして使わないことの方が多いくらいです。最近流行っているらしいのは歯茎に人口の歯をインプラントする手術で、歯一本につき30万円の費用がかかり、医療保険の対象外となっています。通常入れ歯が必要となるのは、支柱として使う歯のない部分を含む、並んでいる3本以上の歯がない場合ですから、最低90万以上必要で、わたしの場合、3本を失っていますし、またもう3本を近い将来失うでしょうから、「新車1台分ぐらいの値段だが、インプラントしましょうか?」といわれました。もし、入れてみて使い勝手がやはりうまくいかないということになると、今度は直しようもなくなりますし、暫くいろいろな事例について様子を見てから考えようと思い、さしあたって国民健康保険のきく、従来から見慣れた入れ歯ですましました。車をもたない私としては、「冗談じゃないよ!車一台口になんか入れられるかい!」とどこかで叫んでいる声も聞こえます。しかし、よいとなれば小金を残している老人達の間で流行となるでしょうし、もう既に飛びつく人も多いようです。今日の日本のニュースでは、保険の利かないこの手術のために民間保険会社がインプラント医療保険みたいな商品をつくり、売り出しはじめたということです。
 日本に帰って、食事カロリー制限、塩分・糖分・動物脂肪控え目の食事をし易いためでしょうか、持病の糖尿病は、このところ非常にうまくコントロールできています。散歩、猫の額ばかりの畑仕事などもしています。(今年は毎日暑くて、農家の野菜のできは例年になく悪かったということです。地球上全てで、こうしたニュースが聞こえますね。)
 しかし、帰国直後は、今まで問題なかった血圧がいつのまにか高血圧になっていましたし、血液の検査や、その他、長い間していなかった合併症の精密検査を受けているうちに、動脈硬化がひどく進行しているということがはっきりしました。基幹動脈のある部分が硬化して血液が肝臓・腎臓他の器官に流れず、最近の橋本龍太郎氏の死因の事例のように、腸への血液の流れがつまった場合などは、即、死に至るという懼れが高いというようなことを告げられ、医師に手術を勧められました。わたしの場合、つまっている基幹動脈は両足に血液を流す分岐点の前の部分でした。散歩しただけでお尻の部分に疲労感が残るのはそのためでしよう。幸いにして、私の住む地方都市には、日本にまだ普及していない最新鋭の検査機や専門医がいる全国的に評価の高い心臓専門医院がありますので、今までの総合病院から紹介状をいただいて、そこに通うことになりました。そこでまた検査のための入院をし、結局、基幹動脈のつまった部分から、まだ多少流れる部分を選んでそこから足の動脈に人工血管のバイパスを造るという方式をとることに今の時点ではなりましました。これから更に手術の技術的な視点から血管の詳細を入院検査して、両足に流れる動脈へとつなぐ人工血管のつなぎ場所、人工血管の身体内の経路の決定、心臓の負担のチェックなど、更に手術用の輸血の血液を自分自身で預貯するなど、更に検査していきます。撮った身体中の血管の映像は素晴らしく鮮明で、コンピューター上で3次元の立体として映像を回転しながら小さな部分部分の太い血管から細い血管に到るまで、全ての方向を詳細鮮明に観察することが出来ます。自覚症状は全くないのですが、つまり最新のこの検査機器がなければ分からず仕舞いだったことは明らかですし、何の措置も執らないままで過ごしたでしょうが、それによると、怖ろしいくらい動脈硬化が進行していることを見ることが出来ました。こうしたことを更にあと一月近くかけて全てすませ、10月はじめに手術入院することになりました。10月はほとんど1ヶ月近い入院生活が言い渡されました。この手術入院の時、ポリープや腫瘍が発見されたりして、そうしたついでの手術を済ましたあとで連続して最終的な動脈手術をすることもかなり多くあるのだ、という話でした。手術のリスクはないとは言えないが、1%程度で、硬化した血管を縫い合わせることが出来ない場合、重大な結果を免れない場合もある、といわれました。動脈硬化とは文字通り動脈が針も通らないくらいに硬化して、そうした場合は縫い合わせることが出来なくなるのだそうです。しかし、この病院では、まだ重大な結果に到ったケースは1件もない、ということです。年齢のこともあり、もっと簡単な皮膚下を使った長い人工血管のつなぎ方もあるのだが、この方式は手術の身体への負担は軽いというメリットはあるのですが、外見上のデメリットもあり、長い人工血管はつまりやすく、血液を流動しやすい薬を飲み続ける必要が出てくるし、あと10年以上は健康に生活できそうな人には、機能的な結果も優れている直接の基幹動脈手術の方式を選び奨めているという話でしたので、やや勇気を必要としましたが、あえて長生きできる方式の方を選択することにいたしました。今漸くこうした動脈手術を多くの人が受けるような時代になったようです。費用もインプラントの歯のように誰でもうけるわけには行かないのとは異なり、個室代以外の大半が国民健康保険で支払えますので、助かっています。心臓動脈手術をやったばかりの友人の話では、肋骨を開く大がかりな手術ですが、その割には早く回復できて、その後、運動しても問題なく元気になった、と喜んで奨めてくれました。私の場合、腹腔だけの開腹手術のようで、まだ幸運でした。

        • 、というわけで、娯楽の方も、今年はこうした健康上の日程を縫うようにして、夜遅い合唱練習を避け、昼間だけ月2回ぐらいの合唱の練習ですますことのできる1回きりの公募合唱団にしぼって練習参加し、今まで練習させてもらってきた合唱団を脱落することとなってしまいました。K市の主催で、2月開演を目指し、曲目はモーツアルトRequiemです。また、オーケストラ付きの合唱を楽しめると期待していますが、入院中には練習が出来ませんので、基本的には、しっかりと自習していかなければならないでしょう。

サラマンカの青く澄み切った秋空を思いだしています。 そして、皆様のご健康を祈っています。

スペインのレバノン派兵と国際的コミュニティ

スペイン政府は、1100人のスペイン兵士のレバノンへの国連軍派兵を、仏・イタリー・ベルギー・フィンランドポーランドポルトガルと共に引き受けることにして議会に提案、了承を得ることになっている。これに先だって先頃、反国連主義者であり、戦争を先導する軍国主義ボルトンなどによる米・英陣営の影響力に対抗できない現在の国連が提案するイラン核問題の方向付けに対して、イランが合意しないときには制裁を加えるという時間切れの寸前、PSOEのフェリペ・ゴンザレス (元首相1982-1996)は、イラン政府の招待を受け、政府や外相の支持のもとに、個人の立場でイラン大統領や核問題についての国際交渉担当のトップなどと会談したことが報じられている。この会談は何らの国家間の交渉ではないこと、両国間の情報の交換の開かれたチャネルとして機能してもらったことが強調されていたが、政府はこれに感謝の念を表明している。いうまでもなく、サパテロ首相と与党の立場はゴンザレスの考え方に色濃く反映されていると考えることが出来よう。その元首相ゴンザレスFelipe Gonzarezは,新聞El Paisに次のような「事態はますます悪化している」という論説を載せている。その趣旨はアメリカの支持の裏付けをもって行われたイスラエルレバノン侵攻は、震央地パレスチナ問題の副産物で、強権的軍事的にイスラエルパレスチナ問題を解決しようという試みであるが、事態はますます悪化していくばかりだと述べている。彼は、軍事的にパレスチナ国民をこの地から完全駆逐することが出来ないこと、選挙によってハマスが政権をとったからといって自衛権を主張してこれに武力攻撃を仕掛け、駆逐することは、サステイナブルな解決を結果することにはならないと考えている。次々に起こるあれこれの事態を、その場当たりの武力的恐喝によって解決策を模索してみても、問題はを悪化するばかりである。実際双方によって目指されているように、イスラエルパレスチナに対する全面戦争による弾圧、地域からの駆逐は、問題を解決できるだろうか? 或いは、逆に、パレスチナは武力によってイスラエルを駆逐し、国家を回復することが出来るだろうか? いずれも殆ど不可能だといわざるを得ない。そうした泥沼の状況のなかでは、今、国際的なcommunityが介入して、強力によるのでなく、両者の合意によって問題の全面的恒久的解決を諮っていかなければならない。即ち、イスラエルは1967年の国境に戻り、パレスチナは自身の国家をもつということ以外に、話し合いの決着点はありえない。如何に困難に見えようとも、こうして、初めて両者の恒久的合意が形成可能であろう。それについては、国際コミュニティは、米英のリーダーシップによるのでなく、ヨーロッパが中心的役割を果たしていく以外ない。「パッチワークのような解決模索では、危機が次々と起こり事態は悪化するばかりである。全面的解決はもはや先送りすることは出来ない。」これがゴンザレスの意見であり、おそらくはスペイン政府の意見であろう。

野党となっている国民党PPは、これに対して、「かつて、アフガニスタンイラクへ軍隊を派遣していたことに反対し撤兵させたサパテロは、今度は逆に派兵を決定しようとしているのは一貫していない。」と批判している。米英の立場からのイスラエルの軍事行動を支持したり、いまや「正当な理由がない」という知見が世界世論の常識となっているイラクなどへの侵攻を支持して派兵することは、上記の立場からの派兵方針とまったく意味が違ってくるだろうから、この批判はおそらくスペイン国民の多数派に受け入れられるものではないだろう。
 ゴンザレスの全面的解決というのは、単に領土問題にとりあえず限定して構想されているのだろうが、その先については定かではない。しかし、あえてスペイン政府の国際政策のとっている傾向から、その方向性を推測することは可能であろう。そうした方向性に従って解決を模索すると、イスラエル人にとって非常に不利な状態が生まれるだろうか? 勿論、領土の現物、おむすびを諦めて、柿の種を取り、汗をかいて働かなければならない。しかし、もし、恒久的な平和をイスラエルパレスチナ人・中東諸国家間の間に形成する方策として、イスラエルパレスチナその他のイスラム圏諸国との間に平和条約を積み上げ、相互に武力行使、軍事的自衛権を放棄した「中東地域共同体」を作っていくことが出来れば、そこには平和的な中東地域経済共同体を形成していく基盤も整備でき、世界有数の超金融大国イスラエル、豊かな産油国アラブ諸国が、共同体に投資を続け、豊かな産業地域共同体となることが可能となるだろう。おそらくイスラエル人は土地も購入できるだろうし、イスラム圏のなかで宗教的寛容を相互に保障し合って、一つの共同体として共存繁栄していく道をとれるはずである。宗教や政治的文化の民族的・国民的差異を見せかけの「紛争の大義名分」として「ナショナリズム」戦争をしている限り、文化圏としての対抗の様相がますます激化し、戦争のグローバリゼーションの事態はますます悪化していくに違いない。共同体形成の経験を持つヨーロッパがその経験を活かしてモデルとなれば、ことは両者によって良い参考となるだろう。
 EU諸国、スペインの派兵は、こうした理念を明確に掲げて行われるのだとすると、同じように国連主義、国際的コミュニティの立場に従うとして、米英の立場を支持し、その立場からの秩序形成のために「人道的な援助」を行う軍隊派遣と似たような反応を受けることになるのだろうか? 特に、パレスチナレバノンイラク・イランのみならず、さらには南アジア、東南アジアのモスレムの国民たちの反応を見つめていきたい。日本の「平和憲法」は、EU共同体のモデルを参考にした未来を想定するとき、これからの21世紀の国際社会の一つの選択肢、その意味でのいわばサステイナブルな平和的「アジア共同体」形成にとっての極めて説得的な有利な前提条件となるものである。「日米軍事一体化」を決定し、日本に「対潜在的アジアテロ勢力」の米国主導の軍事大本営を置くとし、そのためにも平和憲法を抜本的に改正しようという選択は、21世紀のどのような問題解決を目指すものなのだろうか? 自民党総裁選挙が自動的な政権選挙だとして動いているかに見える日本国民も、今、重要な国際社会の方向選択をしていることを自覚すべきであろう。

朝日新聞 日本の「新戦略をもとめて」から

 「アメリカ主導の元に日本の国際関係を有利にリードしよう」という現在の日本国家の世界戦略が、どんな国際社会を追究していることなのかが、私ども日本の国民には大変わかりにくいことになっているように思えます。日米の緊密な連盟関係を自己謳歌するだけで、どんな話し合いを進めながら協定を結んでいるのやら、はっきりと情報公開しないまま、或いは国民的な討論を充分に経ないまま、戦後日米関係を進展させてきたからだと言えるからかもしれませんし、我々の「上にお任せ」してついていくことを善しとする文化もこのことに関係があるかもしれません。したがって、我々市民としては、そのことを自覚したとき、直ちに我々個人としても、日本の世界戦略とはどのようなものなのか、知るべき事実を知り、他者の反応を解明して、関係がどのようなものとなっているのか、またなっていく可能性があるのかを解明していく必要があるでしょう。中東・イスラム諸国、中国・東・東南・南アジア諸国とのどんな国際関係を形成しようとしていることになるのか、また、ヨーロッパ共同体社会や、国連中心の世界社会や世界政治システムに期待する「軍事的・経済的に弱い安保理事国以外の国」とのどんな関係を作ろうとしているのか、そうしたことを解明していきたいものです。また、日本人自身がどんな自己認識と戦略選択をしているか、解明しておくことも必要です。Globalizationは、近代産業諸国の覇権的優位を世界の隅々に波及し、そうした近代世界に収斂させるという面の進展を押し進める時代から、「発展途上国」がこれら覇権的帝国主義的諸国家に対抗的な社会勢力をnationとして統合していく可能性が、世界のいたるところにほの見えてきた時代に入ったという徴候を示しているように思います。そして、今やこうした諸国が参加・形成しようとする「地域共同体」や「世界社会」の形成の方向は、大国の覇権主義的連合を許さない力を蓄えつつあるように思います。こうした世界を認識したいという思いを、現在多くの人が切実に感じているのではないでしょうか? 最近始めた朝日新聞の連載記事は、この関心を共にしているかのようです。

4月27日、朝日新聞「新戦略を求めて」chap.1 世界の中の日本 「アジア・中東とどう付き合うか」で、インタビューにより各国のいわば世界戦略担当者の意見を聞いています。そこにはそれぞれの国家権力担当者が「国益」としているもの、目的の追求の違いが明確に出ていて参考になりました。 中東の中でも対米関係での良好さを保つ道を進む国という視点から選ばれたと思われますが、エジプトの駐米大使はいっています。「エジプトは自国の武力行使について、自衛権の行使は当然としても、自国より強い国の侵略に対しては国連の安保理に依存し、対米1国に依存する日本と異なる。対外武力行使は国連安保理武力行使決議のない限り武力行使は行わない。」「1極支配の体制の世界で積極性を発揮するために、超大国と協力する政策はとらない。」対イスラエルとの友好関係の推進についての日本の立場については、批判的に立ち入ることを避けながらも、「そこでの良好な友好関係を維持するために善悪や政治的妥協を犠牲にしてすすめるべきではない」と述べています。しかし、「文化の衝突」問題については、八百万の神々の存在とそれへの信仰を伝統的宗教観の中に持つ日本人は、「エジプト、スペインのように他者に対して寛容で歴史文化に深い敬意を持っており、文明観の対話で重要な役割を持てるはず、」とのべています。日本の世界戦略の将来については「先ず、異なる地域の世界に関与することに対して、自国民からの支持をどう取り付けるか、」だろうと含みの多い発言で締めくくっていました。日本に対しては、日本が対米依存一辺倒の戦略から、自立した世界戦略へという変換をしていく必要があろうという期待を持っていると思われますが、そうした戦略は対外システム全体の変更を意味しているので、国民の意識改革自体の課題を含み、自立的世界戦略への社会的合意形成の道は非常に重い課題を抱えての道のりということだろう、と判断しているように思います。
 この記事はまた、アジアと途上国の代表として、パリにある国連貿易開発会議(UNCTAD)事務局長をしているタイの方にインタビュウしています。途上国から見て、globalizationは、プラス・マイナス差し引きで+とみていますが、しかし、そうであるためには、特定産品市場に偏るのでなく、世界市場にバランスよく参入できなければならない。良い統治、適切柔軟な経済政策、教育・技能水準の向上が必要。生産コストを下げ、農業でも多様化を進めること。中国・インドの発展に伴う「棚ぼた特需」の恩恵を教育・保健衛生、インフラ整備、健全持続的な自国民的投資へと回していくこと、国外資本に支配され、税制、経営決定権で外国の投資国に譲り過ぎてきたことをあらため、南南協力に熱心な中国・インドとの関係を利用し、投資受け入れ国の利益を守っていく仕組みを作っていく必要がある、としています。アジアでのこうした経済社会統合の進行は、既にアジア企業が主導する域内貿易で深い洗練された相互依存関係が出来上がっていて、特に日本が主導できる立場にはない、と自信を持っていることが表明されています。つまり日本のいう日米が主導する「アジア経済共同体」に対しては拒否の姿勢を示しています。しかし、それは全面的排除の姿勢というものではない、日本の姿勢の一定の変化を前提出来るのなら、大いに歓迎されるものがあるということでしょう。日本が今果たせるアジア共同体への役割は何か、といえば、アジア通貨基金構想に参加し、アジアで金融調整機能を担うべきだろう。この能力を持つのは日本だけだ、と忠告しています。多国間の枠組みでなければ解決できない問題が緊急性を帯びており、途上国と産業化先進国の間の環境問題処理の課題など、日本への期待も示されています。Globalizationのもとで、日本の姿勢が問われているように思います。
 これに対して、日本の同盟国とされるアメリ戦略国際問題研究所日本部長の中東・アジア戦略からみたインタビューでの発言は、中東世界に戦争を挑んでいるアメリカの戦略担当者の見方がどのようなものかが語られ、興味あるものとなっています。それは、次のようなものでした。アメリカ戦略担当者である彼の目からすると、国際社会システムの安定を損なう変数として2つあるといいます。1.反西欧イスラム過激主義を育てることになるイスラム世界の「心と知性」の問題。これは近代化を破壊し、中世社会へ回帰することを目標としているもので抑止することも思いとどまらせることも出来ないから、つかまえて撲滅する以外にない。2 イラク「民主主義」政府の成立を妨げる問題は部族間の武力紛争だ。これは民主主義社会を築く過程を経た日本やアメリカでは経験したことの無いイラク独特の民族特性の問題だ。だから、普遍主義的な規範による議論で説得できるような問題ではない。武力行使を続けて「民主主義」に反対する勢力を撲滅して行く以外にない、といいます。
では、彼によると、アメリカの目から見るアジア問題、特に中国問題とはいかなる意味で問題だと捉えているのか。
1.中国が武力を増強していること。簡単に脅しの利かない裏付けを持ちつつあると言うことでしょう。それを中国は「偶発的な紛争」の可能性がある国と表現している。その意味では、冷戦を継続する戦略を採るということでしょう。したがって、アメリカは、武力の独占的優位を維持することや日本などとの軍事的包囲網のより厳しい締め付けの形成など進めていくということであるから、そこに「偶発的な紛争」「偶発的な接触による武力行使の反応」などの可能性があるということになるでしょう。こうした可能性をふまえて、日本の軍隊との一体化を含めて、アメリカの軍備強化は世界戦略上重要な事項となる、ということのようでした。
2. 中国は、エネルギー問題という背景から、産油国の「好ましくない政権」を支援していること。つまり、石油利害に関連して、アメリカ石油資本と競争的に国益を進めようとしている対米協力的でない国との関係をもち、これを支援していることが問題だ、といいます。
国際関係の上で、石油資源の確保と利害紛争が、「世界社会」の平和的形成を妨げる動機であることが明確に語られているように思われます。アメリカにとっての中東戦争とは、石油資源の独占を目指したアメリカの軍事行為によるものではないのかが一部によって疑われていますが、石油資源の稀少化がますます明らかになるにつれ、アメリカのとるこの認識と戦略があるかぎり、世界戦争の可能性はより切実となるだろう、といえるように思います。
3.中国は、他国に干渉しない「アジア・コミュニティ」を形成することによって自国を防衛しようという戦略を採っていること。これに対しては知的所有権問題、透明性の要求などを捉えて積極的に干渉していく、と戦略を語っています。日米の強力な覇権による「アジア共同体」の支配、「中国主導のアジア共同体」の進行ストップの試みが、率直に語られているように思います。
 上記の視点は明らかに、「仮想敵」として中国ないしは中国との連合を望む国家を見るということでしょう。そうした認識の上に、アメリカの世界戦略が設計されているということになります。

4月30日(土)朝日に、シンポジューム{この国のいくえを探る}がありました。日本の元外務大臣町村信孝山崎正和五百旗頭真(いおきべ)の諸氏が意見を述べておられましたが、いずれもが外交上の目標とそのための手段についての明確な認識と政策提案を持たないのではないか、或いは率直に語っておられないのではないかという印象を持ちました。先ず、グローバリゼーションの時代での国際社会に対する戦略の問題とは何か、が問われなければなりませんが、戦後六十年にいたって、日本は余りにも豊かになりすぎた、近年格差が生じた事態も悪いことではない、「戦後の行き過ぎた社会」を「普通の社会」に戻さないといけない、という議論をしておられ、「格差社会」を有効なものだとする議論を三人ともとっておられました。私には、こうした現状認識、問題設定は、一体、日本の世界戦略の何をどう理解する論理なのかさっぱり分からない、気分的な雰囲気だけの発言でしかないように思えます。中国や韓国などとのコミュニケーション過程の問題点を、日本のナショナリズムの問題としてのみ理解し、アジア情勢を余りにもナショナリスティックにお互いがなるのは好ましくない、という山崎、五百旗頭に対して、愛国心や開かれたナショナリズムがなくなったことこそが問題だという町村のズレがあるにしろ、議論としてみるべきものは何もない、というのは驚くべきシンポジュームであったと私には思われました。アジア社会や日米連合の現状をこんな議論で行っているのが現実なのだというように理解しなければならないとすると、悲観的な気分になりがちですが、そんなことは決してないでしょう。
 例えば、むしろ、同じ 四月二十九日(土)朝日「私の視点」で、野中広務は、「在日米軍再編の交渉決着」について極めて批判的な意見を述べています。安保条約のみで平和友好協約のない現状の元で、米陸軍第一軍団軍司令部を神奈川座間に置くことは極めて危険。自衛隊と米軍を一体化して、アメリカ戦略の一翼を担うこと、沖縄基地移転交渉で沖縄県民との間で、歴史的に積み上げてきた合意を一気に反古にしてしまったこと、一切の交渉過程についての情報を秘匿していること、こうしたことに怒りを覚えるといっていることに、目が惹かれました。 今後、いろいろな議論が紹介されるでしょうし、日本の世論についても、各界の実務家の意見だけでなく、学者達を含めた議論をも注目してみていきたいと思います。

ゴヤの魔女の絵

今朝のNHK新日曜美術館」は、ゴヤの魔女の絵について話題にしていました。今、プラド美術館の展覧会(東京都立美術館)にゴヤが若い頃に描いた3人の魔女の絵が展示されていることにちなんでのことであったのでしょうか、早稲田大学ゴヤ研究者と、有名絵画を自分で扮装して写真に撮っている作家の2人で解説していました。ゴヤは沢山の魔女の絵やエッチングを描いているということが話されていました。彼はバスクからマドリッドに出てきて、貴族のパトロンによって有名になっていく頃に、一連の魔女の登場するエッチングの画集を出版しているのだそうです。それは啓蒙主義の立場からの社会風刺であって、異端裁判の記録などからモチーフをえた魔女の話を描いたものだそうですが、迷信や非理性的な慣習的な行動が醜悪な社会現象を生み出している現実を、魔女の姿を通して批判的な目でリアルに描いているかのような内容となっているという理解が示されました。解説によると、ゴヤはフランス啓蒙主義の知識人と交流があり、そうした目から因習的な社会や異端裁判のカトリックに批判的な目を向けていましたが、批判が許されない非寛容な社会を慎重に配慮して、異端裁判の目から現実の人間を見ているかのように、いわば題材を魔女に求めていた、ということでした。それはこのエッチング集のための準備スケッチを見ると、テーマがもっとはっきりと直接的に描かれていて、魔女の話ではなくなっているとのことでした。テレビに映された魔女の絵は、若い元気な啓蒙主義者の啓蒙主義的理性による社会批判らしく、明晰に「確信に満ち」、異端裁判によって排除される魔女は、当時のスペインの人々の批判されるべき蒙昧な姿として理解され、その意味で迷いのない明るさがこの若い頃の魔女の絵には見て取れるように思えました。
ところでプラド美術館ゴヤ最晩年の「黒の部屋」という特別室があり、そこに彼自身の住居に描かれていた黒を基調とする暗澹たる絵が展示されていることはよく知られているし、プラド美術館を訪れる人は必ずこれをみていると思います。黒い山羊によって司会される魔女の集会、棍棒をふるって殺すまで殴り合う2人の男、自分の息子を喰うサンタウロス、愚かな年老いた犬、などなど、有名なギョッとするような、自分や自分たちの現実の暗闇を思わず思わざるをえないような絵を見た方は多いでしょう。私も、しばらくの間、ここで買った「犬」のT-シャツを着古すまで着て、自分の姿を描いたものであるかのような思いで歩いていました。 しかし、同時に、今なお、基本的に人民を無知な存在と捉え、おどろおどろしい様々な視覚的なイメージにうったえてこの世界の「物語」をその人々に聞かせ、それ以外の認識や感性を異端として権力的に迷信を維持しようとする側面の残存を感じる現代スペイン社会の一面に触れることがあり、国民党に代表されるそういうスペインの政治の一方の太い流れの中で、ゴヤを見るとき、率直に啓蒙主義的批判はさぞできにくかっただろうな、という想いが起こります。 近代社会の夜明けにあったゴヤは本当にこうした目で絵を描く人だったとすると、彼の晩年に起こったナポレオン侵略に対して人民蜂起してフランス軍や、おそらくフランスに何らかの共感を抱いてきた人たちに対して、壮絶な闘いを演じたスペイン社会のさなかに生きて、暗愚な「ナショナリズム」 対 侵略主義的「啓蒙主義十字軍」の蒙昧に満ちた殺し合い、人間の暗闇に暗澹となったのだろうかと想い、高齢期にある者としても、ある種の深い共感をおぼえました。
 現在のスペインでは、PSOE社会党政権交代して2年を過ぎ、その評価が語られ始めています。基本的に挫折した「近代」を復権し、global化した現代社会の環境の元での戦略基盤として、アメリカとの連合よりもヨーロッパ共同体への強い連合を追求しようとしているPSOEの人気は、国民の半分を動員できる「ETAのテロ犠牲者連盟」の「国益主義・国家主義ナショナリズム」社会運動やカトリック教会の強い「伝統主義」文化・宗教運動などの、強力な保守政治の文化社会運動にもかかわらず、徐々に、次の選挙を戦えるに充分な評価を得つつあるかのように思えます。ゴヤの時代の中の暗黒の部分は、地下水の所では綿々と続きながら、しかし、国民が、一方の流れから他方の流れに平和裡に政治的方向性を選択可能であれば、社会は、かなり変化できるものだということを、良い方向であれ、悪い方向であれ、私は実感しています。それは日本に於いても、ここのところの最近の選挙による国民の右への方向転換の選択によってですが、方向性の流れの明確な変化として実感できるのではないでしょうか? 次の選挙までに、今までの選択の結果が冷静に事実分析され、それぞれの立場からの評価基準から評価が確定されることがつぎの選択をより間違いのないものにするためには必要でしょう。今までの国民の選択の方向性に対して、負の評価をする立場からは、「対抗的な」軸からの選択肢が国民の意識の中に明示的に認識できるように示されるであれば、私たちの描く自己認識、自画像もより明確になることでしょう。 いずれにしても、ゴヤの死ぬまで棍棒で殴り合っている二人の男の絵のように、自らを見失ったものどうしの暗澹たる暗黒の世界の争いが決め手になる社会ではありたくないものです。私個人としては、例えば、この現代世界で、中国とそれと連帯していく諸国民の「アジア共同体」と死ぬまで殴り合う自分たちを想像するのは愉快なことではありません。