ゴヤの魔女の絵

今朝のNHK新日曜美術館」は、ゴヤの魔女の絵について話題にしていました。今、プラド美術館の展覧会(東京都立美術館)にゴヤが若い頃に描いた3人の魔女の絵が展示されていることにちなんでのことであったのでしょうか、早稲田大学ゴヤ研究者と、有名絵画を自分で扮装して写真に撮っている作家の2人で解説していました。ゴヤは沢山の魔女の絵やエッチングを描いているということが話されていました。彼はバスクからマドリッドに出てきて、貴族のパトロンによって有名になっていく頃に、一連の魔女の登場するエッチングの画集を出版しているのだそうです。それは啓蒙主義の立場からの社会風刺であって、異端裁判の記録などからモチーフをえた魔女の話を描いたものだそうですが、迷信や非理性的な慣習的な行動が醜悪な社会現象を生み出している現実を、魔女の姿を通して批判的な目でリアルに描いているかのような内容となっているという理解が示されました。解説によると、ゴヤはフランス啓蒙主義の知識人と交流があり、そうした目から因習的な社会や異端裁判のカトリックに批判的な目を向けていましたが、批判が許されない非寛容な社会を慎重に配慮して、異端裁判の目から現実の人間を見ているかのように、いわば題材を魔女に求めていた、ということでした。それはこのエッチング集のための準備スケッチを見ると、テーマがもっとはっきりと直接的に描かれていて、魔女の話ではなくなっているとのことでした。テレビに映された魔女の絵は、若い元気な啓蒙主義者の啓蒙主義的理性による社会批判らしく、明晰に「確信に満ち」、異端裁判によって排除される魔女は、当時のスペインの人々の批判されるべき蒙昧な姿として理解され、その意味で迷いのない明るさがこの若い頃の魔女の絵には見て取れるように思えました。
ところでプラド美術館ゴヤ最晩年の「黒の部屋」という特別室があり、そこに彼自身の住居に描かれていた黒を基調とする暗澹たる絵が展示されていることはよく知られているし、プラド美術館を訪れる人は必ずこれをみていると思います。黒い山羊によって司会される魔女の集会、棍棒をふるって殺すまで殴り合う2人の男、自分の息子を喰うサンタウロス、愚かな年老いた犬、などなど、有名なギョッとするような、自分や自分たちの現実の暗闇を思わず思わざるをえないような絵を見た方は多いでしょう。私も、しばらくの間、ここで買った「犬」のT-シャツを着古すまで着て、自分の姿を描いたものであるかのような思いで歩いていました。 しかし、同時に、今なお、基本的に人民を無知な存在と捉え、おどろおどろしい様々な視覚的なイメージにうったえてこの世界の「物語」をその人々に聞かせ、それ以外の認識や感性を異端として権力的に迷信を維持しようとする側面の残存を感じる現代スペイン社会の一面に触れることがあり、国民党に代表されるそういうスペインの政治の一方の太い流れの中で、ゴヤを見るとき、率直に啓蒙主義的批判はさぞできにくかっただろうな、という想いが起こります。 近代社会の夜明けにあったゴヤは本当にこうした目で絵を描く人だったとすると、彼の晩年に起こったナポレオン侵略に対して人民蜂起してフランス軍や、おそらくフランスに何らかの共感を抱いてきた人たちに対して、壮絶な闘いを演じたスペイン社会のさなかに生きて、暗愚な「ナショナリズム」 対 侵略主義的「啓蒙主義十字軍」の蒙昧に満ちた殺し合い、人間の暗闇に暗澹となったのだろうかと想い、高齢期にある者としても、ある種の深い共感をおぼえました。
 現在のスペインでは、PSOE社会党政権交代して2年を過ぎ、その評価が語られ始めています。基本的に挫折した「近代」を復権し、global化した現代社会の環境の元での戦略基盤として、アメリカとの連合よりもヨーロッパ共同体への強い連合を追求しようとしているPSOEの人気は、国民の半分を動員できる「ETAのテロ犠牲者連盟」の「国益主義・国家主義ナショナリズム」社会運動やカトリック教会の強い「伝統主義」文化・宗教運動などの、強力な保守政治の文化社会運動にもかかわらず、徐々に、次の選挙を戦えるに充分な評価を得つつあるかのように思えます。ゴヤの時代の中の暗黒の部分は、地下水の所では綿々と続きながら、しかし、国民が、一方の流れから他方の流れに平和裡に政治的方向性を選択可能であれば、社会は、かなり変化できるものだということを、良い方向であれ、悪い方向であれ、私は実感しています。それは日本に於いても、ここのところの最近の選挙による国民の右への方向転換の選択によってですが、方向性の流れの明確な変化として実感できるのではないでしょうか? 次の選挙までに、今までの選択の結果が冷静に事実分析され、それぞれの立場からの評価基準から評価が確定されることがつぎの選択をより間違いのないものにするためには必要でしょう。今までの国民の選択の方向性に対して、負の評価をする立場からは、「対抗的な」軸からの選択肢が国民の意識の中に明示的に認識できるように示されるであれば、私たちの描く自己認識、自画像もより明確になることでしょう。 いずれにしても、ゴヤの死ぬまで棍棒で殴り合っている二人の男の絵のように、自らを見失ったものどうしの暗澹たる暗黒の世界の争いが決め手になる社会ではありたくないものです。私個人としては、例えば、この現代世界で、中国とそれと連帯していく諸国民の「アジア共同体」と死ぬまで殴り合う自分たちを想像するのは愉快なことではありません。