労働法制見直し。厚生労働省案

 長い間、ブロガーとしてお休みしてしまいました。スペインにいた期間、帰国してからの半年、日本についてすっかり勉強不足になりましたので、新聞や放送などが新鮮にさえ思えます。多少とも、健康を回復してきましたので、これまで同様、毎日のニュースを中心にデータを蓄積するつもりで、毎日少しでも文章を書いておきたいと思います。勿論、ニュースというものは、ある出来事を、ある視点、ある枠組みから評価的に認知し、時に「付加価値」をつけて販売する商品とされたり、或いは、ある認知的価値標準そのものを伝達するための素材として利用することを目的として生産されていたりして、情報であって出来事そのものでないことはいうまでもありません。私達がそれを読んで「記録」したり、ブログに引用したりする場合も、ニュースは更に私によって「歪められる」ことになります。この歪みをブロガーの個性の表現として「楽しむ」という書き方も読み方もあり得るでしょう。私の場合、こうした個性を重視するブログのあり方とはちょっと異なり、私の持つ枠組みを絶えず再検討しつつ、その枠組みから一貫して「事実」として報道されるものをどのように「理解」するか、或いは、こうした「事実」の「理解」を進めていくと、自分自身の枠組みにどんな矛盾が生じてくるか、どう考え方を修正していかなければならないか、などを記録しておきたい、と願い、ブログを書いています。
 正直に言って、現在、病後の私はどれほど「惚けてきたか?」不安です。記録しておきたいことは沢山でてくるのですが、分かり易い、きちんとした文章を書くためには何度も書き直さなければなりません。ブログの回数は少なくなるでしょう。それだけでなく、ピン惚けで幼稚になっていることに気付いてないかもしれません。

労働関係の様々な労働法改正案が一気にこの年末までに作り上げられ、来年国会に持ち込まれようとしていると報道されています。それは、労働契約のルールの明確化として、「労働契約法」を新設するということだそうで、その一つの柱は、従来の労働法のホワイトカラーの労働に対する企業の義務規定を免除しようという「ホワイトカラーへの企業義務免除法」white color exemptionであり、もう一つの柱は、いわゆる「勝ち組み、負け組み」の格差拡大、working poor構造化に関してのものと称する幾つかの「改正」案のようです。(厚生労働省案については12月9日新聞に詳細報道されました。)これは私にとっても重大関心事で、どんな改正案が検討されているのか記録しておかなければなりません。
小泉政権時の「構造改革」で、決定的に後戻り不可能な形で進んだ最も大きな法制的な「改革」の一つに、パート労働による正規労働の置き換えを正当化する改正がありました。もともとこの時期の企業が行った労働組織の「合理化」は、終身雇用・企業別組合の労働関係にもとづく日本的経営様式を廃棄して、新自由主義労働市場方式へと移行して行くことだったといえるでしょう。いいかえれば、正規社員をできるだけ減らしていき、これをその企業の1日の営業時間構造上で必要な労働時間量だけ時間給制度によって使える労働力、つまりアルバイト・パート労働・派遣労働に置き換えていくという方式にしていったのでした。こうすると、「マクドナルド方式」ともいわれるように、忙しくない時間に同じ給料を払って同じ人数だけ人を雇っておく必要がないという方式になり、人件費はこれ以上ないほどの節約を行うことが出来ました。しかし、もっと重要な目的は、こうした置き換えによって、正規労働について企業が一部負担すべき年金、退職金、健康保険などの費用や、住宅手当、扶養手当、ボーナス、残業手当などの各手当という形態をとっていた賃金部分を全て支払う必要をなくそうということでした。従来は、社会全体として、生活者の方は、きめの細かい賃金項目の生活給賃金の体系によって、例えば残業手当等の調整を通して、日本経済の景気変動にそれなりに適応させられつつ、生涯働くことを通して自分の各ライフ・ステージのニーズを確保していくことが出来ると確信していたのでしたが、こうした「中流社会」は、この「合理化」によって解体されたのだ、と思います。こうした仕組みのもとで、一度正規労働のコースを外されてしまった人は、そのままでは、年金も、健康保険の制度からも排除されて、生涯、working poorの階層に組み込まれることになるかもしれないという結果は自明ではないでしょうか?企業の残された究極のコスト節約として行われたこのような日本的経営方式の解体は、日本の各階層の生活構造を根本から解体しました。しかし、現に大企業・公務員として生き残って働くことのできた少数の人には、日本的経営方式は、あたかも維持されたかに思われました。正規労働削減はかなり前から行われていましたが、定年後の人員の補充無し、定年近い中高年の解雇、自主的退職への色々な方法での勧奨、そして新卒者の正規労働の採用無し、という形で出来るだけ一般に見えないような形で行われ、やがていつの間にか100%新自由主義労働市場に置き換えられるように進められてきた、と言えるように思います。そして、ここまでは、正規社員から排除されるのはその人の能力がないからだという「能力主義」への改革が主張され、「自助努力」さえすれば新しい正規労働の職場が見つかるかのように説得され、学歴社会の幻想も維持されました。しかし、新規採用無し、ということは、現在の15~24才の世代だけとってみれば、2人に1人、50%が非正規労働においやられているということで、この世代は大学を出ても、正規労働にさえつけないかもしれないということを事実として否定しようもないものとして知っています。つまり、この世代の人の多くは、「学歴社会」の幻想を抱きつつ、下手をすると健康保険も年金も公的制度からも排除されてしまい、自分で100%賄いなさいとされる社会に出ていったのだということを、今苦痛を持って体験しているのではないでしょうか?。こうした「改革」にもかかわらず、正規労働市場と職安・ハローワーク市場が2分されているという日本型労働市場は維持され、新卒時にどちらかの市場に配分されたかが最後、この2つの型の市場を自由移動出来ないという構造は放置されています。「何処の学校を出ているかが決定的に生涯の運命を握っている」という学歴社会の枠組みを人々が捨てきれないのは、この限りで理由があると思います。(外資系会社に就職し、順調に給与もポジションも上昇移動していったが、仕事が面白くなく、能力主義社会への転換を歌い上げる日本企業・政府の考え方をうっかり現実と思い違えて、もっと自分に適したやりがいのある仕事を求めて退職し、ハローワークに行き、自分のキャリアと能力を売り込んだ人が、行く先々で給与が下がり、機会を奪われて、今では生活も出来にくい状態になっている事例を新聞は紹介していました。)つまり、新自由主義労働市場英米と同じではなく、きわめて日本型新自由主義と言えるでしょう。しかし、日本的経営主義といわれた管理方式とは原理的に異なった「規制緩和」をした点で、明らかに新自由主義労働市場になったというべきでしょう。
 最近、国民年金制度や国民健康保険制度の加入者が、年金給付では最低生活保障水準の生活を営めなくなっているとか、健康保険費用が払えなくて医療にかかることが出来ないということが報道されています。人並みの生活が出来ていた人たちが、自らの労働では自立できなくなってしまい、国民年金制度や国民健康保険制度の中に落ち込んできた結果、ここに社会的弱者が集中し、その上、現在の制度改正によって「自立」を求められて保険給付、生活保障給付も拒否されるという現実が、最近非常に目立ってきたようです。それを報道するNHKのアナウンサーでさえ、思わず怒りの感情を抑えることが出来ない様子は、極めて印象的でした。
こうした現実の元で、最近、弱者救済の方法としていろいろな意見が出されているようですね。「自分たち公務員の共済組合の年金制度や企業の厚生年金制度の中にこうした人々を受け入れ、給付や負担を国民として一体化して引き受けていこう。」というのは、確かに有力な提案の一つでしょう。しかし、私はホンの一昔、私達を含めて、盛んだった同じ議論を思い出します。1960-70年代、「福祉国家」の理念を全ての政党がそのマニフェストの中で声高に公約して競った時期に、すべて、大・中・小企業の従業員や、家族労働従業者、国家・地方公務員として働く人々、その主婦を含め、社会のそれぞれの仕事の関係の中に位置を占める「正規労働」として、年金や保険給付の保障の一元化された仕組みの中に全ての人が参加していかなければならない、という議論があったはずでした。社会保障制度の一元化は福祉国家の理念からは自明のことであったとおもいます。しかし、国民諸層の掛金の自己負担分以外に、企業者・政府が負担すべき部分を理由に、大企業・政府は反対し、こうした一元化は実現できませんでした。 そればかりではなく、政府・大企業は、前記のように、「正規労働」者の社会保険費用をもっぱら企業・政府のコストとみなして、正社員・定員ポストを削減することによって、この「企業福祉」部分「負担」をカットしてきたのです。従って、「国民保険・年金制度と厚生年金・国家公務員共済を一括一つの制度にして、国民が全体として負担を共におい、給付の減少や負担の増大を共に負うべきだ」という提案は、福祉社会理念として自明ながら、今日異なった文脈から緊急性を持って復活してきた議論だというべきでしょう。私もこの提案に賛成しないわけに行かないと思います。しかし、こうした現実の中での、「一元化」に対して、尚難色を示しているのは、大企業や政府です。現在の地位を守る確信を失った企業の従業員や公務員が、自分の特権を守ろうとして反対しているのではないでしょう。 
 さて、ここで労働法制の改正案を見てみる限り、日本の大企業も現行政府も日本国民の雇用と生活の保障をしっかり行おうとは考えていないことは、今のところ明らかなように思われます。
 例えば「パート労働法改正」は、「職務や責任が正社員と同じで、無期限で雇われているようなパートには、正社員との「待遇での差別的な取り扱い」を禁ずることなどが柱だ」ということです。但し、この法案は、差別禁止の対象は職務や責任で4段階に分けた内の最も正社員に近い人だけで、それ以外は企業の「努力目標」にとどめているということです。かつて私の務めていた国家機関で、毎日限りなく正規職員と同じ仕事を、同じ列の机を並べて、同じ時間していた人の内、何人かがパート職員であるということを知ったのは、何年もたってからであったことを思い出します。そういわれてみれば、これらパートの人たちは、たしか週の最終日を1時間だけ早く早退させられていました。つまり、雇い主にとっては、現に雇用しているパート職員の正規職員化が「努力目標」になるようにするのはわけもないことです。生活保護基準より低くなっている最低賃金を引き上げる最低賃金法改正とか、就職氷河期にあった若者の積極的採用を求める雇用対策法改正というようなものが提案されるようですが、全体としてこれら改正法は規制力が無く、企業への「お願い法」だということです。
 しかし、もっと実効性があり、意図も明確で具体性を持っているのは、ホワイトカラーエグゼンプションという横文字でいわれる改正で、8時間労働を超える労働時間は残業と規定し、残業手当を払わなければならないという規制を、ホワイトカラーについて外そうというもののようです。今でも、1日睡眠時間4〜6時間で、休日も自主的に働かなければならない実態があることが広く知られているホワイトカラーについて、地獄がまっているような法改正だと、私自身思わないわけにはいきません。経営者層によると、日本のホワイトカラーの労働時間あたり生産性の低さは、ヨーロッパなどと比較して極めて顕著なのだといいます。私もそういう話はよく聞きます。「日本の社員は、いつも雑談していて、だらだら徒に長い時間会社にいるだけで、勤務時間内の仕事の能率が悪い」という外国人の一つの極まり文句があります。、これに対して、日本の経営者自身、決まりきって日本の企業文化の違いを反論としてあげています。誰でも知っているように、ヨーロッパでは9時から5時までの勤務時間が終わると、上司から平まで一斉に勤務場所を離れる風景を思い出してください。そして、この勤務時間内の仕事の集中ぶりは、日本の勤務状況と同じ価値基準では比較することができないほど密なものであることもよく知られています。しかし、丸ごと1日の労働日からみると、どちらが事実上負担の多い仕事をしているかといえば、遙かに日本のホワイトカラーだということは、日本人自身極めてよく知っているのではないでしょうか?
この改正が、欧米の8時間労働のライフスタイルを伴うような、単位時間あたりの集中・生産効率を求めるものではないことは明らかです。労働時間の現状を前提にして、超過勤務手当てなどの「規制を緩和」しようと言うものでしょう。何故、こうした非人道的な法改正が提案され、おそらく何の障碍もなく国会を通過していくのでしょうか? 私にとっては、これこそ真剣に考えたい問題の一つのように思われます。