桜の植樹ー在世を感謝して

Sbunaka2006-04-28

 今日は私の定期健康検査の日です。地方中心都市まで2ヶ月に1度、主治医の検査を仰ぎに行き、持病の薬などをいただいてきます。今月の検査結果は余り望ましいものではなく、今まで自信を持っていた血圧が、いつの間にか、高血圧になっていて、薬を服用するようにといわれました。ここ3年近く生ハム・チーズなどの塩分の多い保存食を毎日食べていましたので、高血圧になったのかもしれません。新しいことを記憶することが大変難しくなっていて、その日に見た情報を昔から身につけている枠組みで処理することは、それなりに出来るように思いますが、それを記憶のファイルに収納して、随時検索することが非常に困難になってきていることを感じます。また、目的を達成するように計画して継続的に行い、或るプロジェクトを達成するまで行う、ということが、数年前までの生活時間の枠組みの中で行いにくくなっていることも明らかです。これは軽い認知症といって良いかもしれない、とも思ったりしています。とにかく、これからどう自立し、最後はどのような形であれ、そこまで自立しながらも朽ちていけるか、ということがそろそろ気になり始めてきた、というのが正直なところです。
さて、朝日新聞生活欄に「ミドル+」という中高年の生活に関する欄があることに気付きました。そこに既成の制度的宗教の信仰をもたなかったり、商業化された儀式によらず「自分らしく眠る」ことを考える多くの人による、ある形式の墓の記事がありました。それは、東京都町田市にある「桜葬墓地」と銘打たれたもので、桜の木を墓碑に、遺骨を土に埋め、自然に帰すというものでした。実は、最近、私は京都のある寺の五重塔の傍に、桜の若木を植える事業に賛同させてもらい、「在世を感謝して」と題して、寄付者の札をたてさせてもらうことになったばかりでしたので、この記事に目が留まったわけです。これまで既にこのお寺の桜植樹事業に賛同されたいろいろな方が、それぞれの思いを込めて、結婚記念等、おめでたいことを記念する植樹を行っておられます。私たちは、秘かに、私達がこの世に生きていることを感謝して、ハイキングコースの多い京都を楽しむことを兼ねて、時々この木を見に来るつもりで植樹をお願いしました。20万円の寄付は私どもにとって決してどうでも良い金額ではありませんが、それでも賛同させてもらったのは、死後、この桜が生長していってくれることは、「生命体」として生まれ朽ちていくことを信条として、死を考えている我々にとって相応しい記念樹となるだろうと考えてのことです。私たちは、そこに骨を埋めるということは考えていませんので、いわゆる墓というものではありませんが、誰も気付かない、私たちの生きていたことの記念樹が、ひっそりとどこかにあることは、悪い気持ちではありません。私のハンドルネームもそこに記しておきましたので、気付いてくれる「見知らぬ」人も或いはいるかもしれません。(写真は実際は12月に行われた植樹祭の1場面です。)

塀に囲まれた地域社会 gated community

平成18年3月6日(月)
朝、またまたボルネオのオランーウータンの人類学的観察記録のテレビを見てしまいました。私は正直なところ、NHKの衛星テレビしか見ていないので、TVの現状を語る資格はありませんが、日本のテレビは、私のような偏屈人間の目さえ奪うような、見ていて楽しく、しかも一つの主張を持って取材したり、制作したりしていて、考えたり議論してみたくなるような番組が一杯だから、うっかりすると貴重な時間をマスコミにどんどん奪われてしまいます。しかし、自然科学の教養のない私には、特にこうした人類学とか生物学などの現地取材番組には、ただただ敬服するばかりです。7日の朝のメキシコの洞窟調査の番組も見てしまいましたが、マグマにバクテリアが一杯いて、それが地球の割れ目から硫黄のガスとともに吹き出され、石灰石を溶かして洞窟になっているここには、ここにだけしかいない生物が沢山観察されたということ、これが地球上の生命の誕生の秘密をとく鍵となるだろうという話でした。世界で始めてのこの洞窟の取材には、2ヶ月を要したそうですが、こうした豊かな資金・優れた技術を要する番組の制作は、明らかに少数の豊かな国の情報産業の担い手しかできないことですが、同時に単なる「面白い」「消費だけのための」商品だけになりがちな、コストと利潤だけの経済合理性だけを原理とする情報産業に民活化しては出来ない仕事でもあることで、こうした番組を作れる極めて少数の国である日本は、大きな貢献を世界にしているように思います。外国のテレビをいろいろ見ている経験からすると、日本のNHK自主制作のTV番組の情報の質の高さ、量的な情報の豊富さは目を見張るものがあると思っています。日本のこうした番組がもっと世界の放送に利用されれば、非常に強くなっている日本アニメの影響力などとともに、もっともっと日本の存在感をアッピールすることになるでしょう。日本の存在感を文化的に高めることを「伝統的な日本文化」の「理解」を高めることと思っている向きもあるのではないかと思いますが、こうした現代の科学や思想、芸術への日本人の文化的な貢献そのものに軸足を置くことの方が大きな「理解」を相互形成できるのではないか、と思います。
 さて、朝日新聞「時流自論」で、渡辺靖慶応大助教授(アメリカ研究・文化人類学)は「安全求め、分断進む米社会」と題して、ロスアンゼルス郊外100キロにある準郊外exsurbとよばれるサバーブのもう1廻り外に高所得・高学歴者が集中的に住むためのgated community、広大な東京の1区に該当するほどの敷地を高いfenceで囲ったコミュニティがあること、こうしたコミュニティが従来からある郊外の外にますます発展していっていることを紹介していました。私も滞在したことのあるペルーのリマのような大都会は、都市の中心部にこうした趣旨のコミュニティが集中的に存在することを思い出します。貧しい農村部にはこうしたコミュニティは存在しませんが、大都市リマでは生活の豊かな安定した中産階級と上層の富裕層が住む中心部の住宅地と、人口の過半が占める一般勤労者の住む郊外住宅地は截然と区別されています。都市内の中産階級以上の住む住宅街区には、幾つかの、鉄のfenceに囲まれた住宅と緑豊かな私的な広場からなるコミュニティがあります。周辺からの出入りは、頑丈な男たちによってガードされていて、この中にある私的広場が唯一安全を確保できる「これら富裕層だけの公共的広場」として外から厳重に遮断されて存在しています。何物もとられる心配の全くない庶民の住宅地は、この国の「都市化」と共に、食と職を求めて都市に向かって移住した人々が砂漠の中にスラムを形成していった住宅地であって、ここはここで独自なコミュニティを形成して、相互に生活扶助をしているといって良いのですが、同時に貧窮・困窮層が階層化して貧困の再生産を強いられ、犯罪を余儀なくくり返す人たちをも含むことになっています。ピストルを携帯したビヒランテによりこうした一般市民から24時間の警護で身を守るgated communityが恒常化して、地域街区が階層別にsegregateされていったのでしょう。自由社会といっても、社会の内部に金持ちおよび少数の新中間層と、暮らしていくこと自体が困難な大多数の人々との大きなギャップを形成していく構造を持ち、国家はこうした構造を保持する機能を持つだけで、自由社会を擁護し、その秩序を絶対化する宗教を原理主義的に市民に教育するだけということになると、持てるものだけの自由主義であり、持てるものだけの「公正」な社会となって、その果てにはこうした持てるもののgated communityと、「飢えた狼たち」がその日その日の糧を求めて機会をうかがう「危険」な社会という信じがたい状況が生まれたのではないかと想像します。今やアメリカはそうした地区を、南米との国境地帯の西海岸部で創り出している、ということのように推測されます。徹底的に「みんな生活の心配のない」普通の人たちの階層を解体させていくと、その先に待っている社会の一つの形態は、こうした南米型・旧スペイン植民地型のモデルの現代版であるかのように空想してしまいます。 これは古典的な自由市場ないしは新古典主義的な自由主義とか、神様やご先祖様の手に委ねたままの社会の一つの古典的な典型的な姿を代表するように思われるのですが、いかがでしょうか?世界にはこうした社会が実は非常に広域に存在している事実に目を向けておきたいと思っています。そしてこうした社会が何時までも存続して変化しない時代は既に終わったという気がします。 最近のボリビアの国民が選挙で選択した道は、非常にラディカルな、国民の資源を北アメリの合衆国から取り返す所有構造の革命の道であるようですが、それ以外の道はあり得ないのかどうか、非常に気になるところです。

日本に帰ってきました。食住雑感から

2月も終わりになって、漸く帰ってきた日本に再適応しかかったかなと言う感じです。このホームページの日記もなかなか書く時間も気持ちの余裕も無く、最近になって、自然に書けるものを書きたくなったら書けばよい、という気持ちに戻れるようになりました。そこで、しばらくは、単に書いてメモっておいた自分の手帳にちょっと手を入れて、ここに出してみようと思います。外国から帰ってきたものの常で、どうしても比較して感想をもちますし、また比較の意味や方法などについても、つい反省したくなります。そうしたことも含めて、正直な雑感から、また文章を書き始めたいと思うようになりました。2月2日の感想です。

「この1月末に日本に帰国いたしました。それから数日後の2月2日、日本の我が家の窓から、牡丹雪の大粒が音もなく降り続けている風景をみました。日本南西部の太平洋側にある私の地方では、かつて見たこともない本格的な雪景色です。最近日本への里帰りからスペインに帰ったばかりの友人が言っていましたように、日本は家の中にいても本当に寒さが身に凍みるように冷たい気がいたしました。基本的に石で出来ているスペインの家は、家の中では冬暖かく、夏は涼しいと言えましょう。石の壁と、2重ガラスの窓、仕切ると部屋が真っ暗になる頑丈なシャッターがこちらの特徴と言えましょうか。最近の都市のアパートは、冷房無し、どこも大体集中暖房となっています。夏冬共に、昼寝の時間はシャッターと2重のガラス窓を閉め切り、ぐっすり30分ほど寝るのが私の習慣となっていました。
さて、さしたる深い理由もなかったのですが、スペインで暮らすようになって2年半となってしまいました。この間毎日、健康のため散歩し、新聞を読み、それなりの家事をし、そして、余暇活動として市民の余暇活動に参加するという極月並みな定年生活者の生活を送ってきました。これを如何に規則正しく、どれも手を抜かずにして過ごすか、それが人に迷惑をかけないで、健康に、経済的に、それなりの意味を見いだせて生きていく唯一の極意だ、と信じ切っているかのようにして暮らしていました。こうした定年生活者としての、ひっそりと息を潜めた生き方は、日本で暮らそうと、地球上の何処で暮らそうと、多分変わることはなかったでしょう。年金の範囲内で、自立して暮らしたいと言うことになれば、私の場合、守備範囲を少しずつ限定して行かざるを得ないからです。その結果、どんな生き方になったかは、この「文赤千兵衛の日記」を読んで下さった皆さんはもうおわかりになっていることでしょう。
 さて、高々2年半の本当に僅かの間とはいえ、最小限の家具の付いた借家の、狭い小さなアパ−トに住んで、最小限の買い物で過ごしてきたとはいえ、滞在が長くなるにつれ、つき合いのわるい私でさえ、何時までも旅行者の姿のままで、リュックにジーパンという出で立ちは許されなくなり、少しずつ洋服も増え、お客さん用の皿や、こちらの料理用の鍋なども増えてくるし、小さな庭に球根や多年草の株も増えて来るというようになって、帰国の際の引っ越しは、かなりのものを捨ててきたのですが、捨てがたいものが30kgのダンボール6個にもなり、飛行機への持ち込み荷物をパソコン・プリンターは勿論、非常に便利にしていた買い物用の挽き車に到るまで持ち込んで帰る羽目となりました。
 余暇活動の合唱練習のために買った楽器などは、大きくて未練なくおいてくることが出来ましたが、本や新聞はぜったい捨てて来るのだと勢い込んでいましたが、結局捨てきれず、かなり持って帰ることになりました。楽器は、すぐにもらってくれる方が決まりましたが、日本語の本などは、置いてくることを半ば以上の目的にして持っていったのですが、寄付したい日本語・日本文化コースを持つ大學などでは受け入れ手続が面倒で、簡単には喜んでもらってくれないとことがわかりましたし、上げたいお世話になった日本語の読める方などに対しては、私の興味で集めた本が役立つか、不快の念を起こさせるか、何とも言い難い気がしたということもあり、失礼にならないように書物を贈ることはやめました。高価な本以外の、2000円以下ぐらいの本は、運送料が高価なので文字通り紙専用の分別用のゴミ箱に外から見えるようにして捨てましたが、幸いにしてかなりのものがゴミ収集車行きではなく、すぐ消えていました。どんな形であれ、もう一度誰かによって利用されたら幸いです。
 合唱団から戴いた楽譜は、まだ数えたことはありませんが数百曲は下りませんでしたので、意外に多く、日本では決して手に入らないだろうと思うスペインの教会音楽を多数含み、ちょっとした財産ですので、これは全て持って帰ることにいたしました。
 もう一つは、毎日読んでいた新聞の中のちょっとしたスクラップで、最小限にしたとはいえ、もう1回日本で系統的に分類し直して読み直したい、という気がおさえきれず、これも持って帰ることになったのは予定外のことでした。これからどんな風にスペインでの生活への興味が展開することになるのでしょうか?私自身にも予想が付きませんでした。
 さて、帰ってから何を措いてもとりあえずしたことは、身体のオーバーホールです。乾燥しきったスペインで鼻や喉がカラカラに渇ききるような風邪をひいて日本に帰りましたが、風邪はすぐ治りましたが、飛行機中で中耳炎を起こしたようで、先ず耳鼻科に通いました。スペインは冬でも、洗濯したジーパンのようなものでさえ、暖房の側に置いておけば、確実に、半日でバリバリという音をたてるほど乾燥してしまいますが、日本では、3日ほどたっても乾いたような気がしません。だから、人間の身体も同様で、何とも不思議な戸惑いを覚えているようでした。おまけに、長年ごまかしながら長持ちさせてきた奥歯のブリッジが遂に支柱となる歯を抜く羽目となり、入れ歯にしなければなりません。これはちょっとした憂鬱な気分です。また、読書用の眼鏡を失ったものですから、これも作らなければなりませんが、すぐ疲労感を覚える眼球そのものの衰えはどうにもならないことでしょう。とりあえず、幾つかの病院に通い始めました。そして、最後は日本にいた頃続けていた月に1度の日常的定期検診の再開です。高齢者の病気ですから、とにかく現状を維持できればよい、というモノで、スペインにいた間は、必要な薬だけの投与でずっと過ごしてきました。ずぼらをしないでスペインの病院に通う気になっていたら、きっと必死になってスペイン語会話をすることになったかもしれませんのに----!?
さて、 帰ったばかりの現在、逆カルチャーショックというほど大げさではないと思っていますが、幾つかの違和感を感じています。3日もたてば、勝手知ったる何とかで、すぐ環境順応してしまうことは明らかですが。
 帰国後の日本に異文化感触を感じた最初のものは、住宅についてでした。普通の日本のサラリーマンの狭い住宅ですが、それでも、スペインのアパートよりも倍以上ある私の家ですが、我が家の住宅の家具や道具の小ささ、狭さはどうしたことでしょう。家具の小ささ、種類の少なさ、一つで何でも賄うという方式などは、日本技術の特徴で、既によく承知しているつもりが、気が付いて見てあらためていささか釈然としない気持ちがいたしております。スペインの借家では、備え付けられている家具や道具は極めて安物・粗末なものでしたが、最近の機械製品のようなものでも30年ほどは飽きずにそのままの揃いで使えそうな食器類、最近の安物家具備え付けの台所、風呂場にしても流し、洗面台などの幅も奥行きも一回りほど大きい。煮炊きの電気ヒーターも、我が家は半分以下の大きさでしかなかったのにはショックを受けました。「こんな狭いもの、2カ所しかないヒーターでどうしていたのだろう?」日本に帰ってきて我が家の電気レンジ、トースターなど使ってみると、おなじ電気を使うものであるにもかかわらず、火力が弱く、倍ほど時間がかかるなど、予想外のことでビックリしました。こんなこと考えてみたこともありませんでしたが、ワット数が違うのですから、当たり前のことですが、ちょっとショックです。イベリア半島はかつての60年代、70年代の日本のような開発ブームに沸き返り、都市開発も進行し、小さな核家族用サラリーマンのためのアパートが次々に建っていて、同様に兎小屋といっても良いものが大半ですが、中味は日本の伝統的住宅文化の元にあったアパートとはかなり異なって、おなじ外見の高層・中層アパート群も、すんでみるとやはり随所に構造が異なっています。面白いものです。
 
次ぎにやはり毎日気になるのは、先ずお決まりの物価です。「高い!!、これからどうして生きていけばよいのだろう!?」実際、大まかな感じで言えば、全てが倍!です。(スペインに行かれる観光客の皆さんが言う「わっ、やすい---!!!」の反対です。そうした喜びの余り、時に、2ユーロのものに20ユーロという大金を請求されて、おかしいなと感じつつも平気で支払う方も多くおられる日本人です。お分かりになりますよね。) 分量を計算に入れて厳密に量れば、きっと倍以上だろう、というのがいい加減な感覚的な知覚です。特に毎食の食品でそういう感覚ですから、これからは、本当に高いものをほんの僅かだけ買って、少しだけ食べるというのが通常の食生活の感覚だろうな、と半ばひねくれて思いました。特に、生鮮食品の高いことには、覚悟して帰ってきたとは云え、ショックを通り越してしまいます。肉で言えば、「細切れ」というような商品名に対応する肉の売り方を肉の文化の国では見たことがありません。ですから、それをみて思いだしてから、ショックを受けました。大体、動物の身体の大きな部分は、臓物だったり、血液だったり、脂肪皮質の部分であったり、骨の間にあったり、腱のように堅い肉の部分だったり、頭や尻尾や骨だったりしているわけで、実はこうした部分の全てが食べられるわけですが、日本の肉屋さんの店頭に見る限りでは、こうしたことが形の上で全く見えてこないのはどうしてなのでしょうか? 捨てているわけがありませんから不思議です。肉文化の国では何処でも、肉の部分が明示されていて、部分に応じて値段が付いていて、全ての部分を家庭料理でも食べていると言っても良いでしょう。最近の急速な都市化で成長してきた大型スーパーではともかく、その町の伝統的な歴史的な食料のメルカド(市場)では誰でも肉をその部分の名前を言って買います。料理屋のメニュウでもそうしたことが言え、例えば、「牛の頬肉の煮込み、これこれののソース味」というような副題付きでメニュウに載っています。こうした料理名が分からない人は少ないようで、わたしたちにはわからないそうした料理を誰でもすぐ説明してくれます。例えば、この頬の部分は脂肪が少なくて健康的なのだというようなことを皆さんが言います。安いものを庶民はよく買い求めるという点はいうまでもないでしょう。そうしたところの食文化を見慣れてくると、日本での肉などの販売のあり方は、何か非常に詐欺にあっているような感じをつい持ちましたが、どこかが不合理であるに違いないとは思いますが、そんな感覚はすぐなくなるでしょう。実際、TVの日曜読書案内で推賞された書物の解説で聞きましたが、そうした業界の専門家の書いた「真面目な建設的な書物」に、日本の加工肉食品には、肉の味がするように入れる化学物質があり、特に「細切れ」やハムやソーセージの全てがそういうものだそうですが、これが発達していて、今日の日本に特徴的な様々な肉商品があるのだそうです。この本によると如何にこれを健康的で無害なものにするかという方向で、研究が進んでいるのだそうでした。そこへいくと、伝統的なメルカドで、小さな一つ一つの店が、いろいろな肉屋に分化していて、立派な生ハムやチョリッソのような保存食に特化する店のみならず、耳とか尻尾とか内臓のような極めて安いものを専門にする店とか、豚の乳幼児の丸ごとだけを並べている店が、スーパーなどで見慣れたいわゆる肉屋さんと並んであり、それも牛と豚、羊の肉屋さんも別々に特化しているし、トリ肉、鶏とそれ以外のトリの店が特化し、それ以外のトリにはウズラ、七面鳥は勿論、兎、野鳥も含まれ、そこで庶民が、鉈のような包丁で切ってもらい、骨付き肉を大胆にキロ単位で買い物している風景が、目に馴染んだ日常的な風景でした。勿論、そうした風景には化学物質が肉味を風味付けをしている高級な「細切れ」とか、100グラム単位で表示され、数1000円する洗練されきった「霜降り」肉という脂肪たっぷりの肉などは、決して見いだすことは出来ないのでした。かつて慣れ親しんだこうした日本の肉販売の風景は、やはり私にとってはあらためてショッキングに見えて、当分気になってしようがないことでしょう。それにしてもチーズなども、熟成させたチーズなど日本の生産者は何故作らないのだろう?日本の風土の中では不可能なのだろうか?得意の技術で、機械的にチーズ造りの風土を創り出すことも出来るのではないだろうか?いわゆるチーズ文化の社会で言うチーズの殆ど全てが輸入品であり、それにも気が狂ったように高い値段が付けられているのは何故なのだろう?という疑問につきまとわれます。
それにしても、野菜も良く言われるように、無意味なくらい形の良いものが少量単位で、非常に高価に売られているのは、余程の金持ちでなければ出来ないようなことを庶民がしているという感じで、日本人はつくづく「金持ちなんだ!!」と実感してしまいます。但し、1食あたりでみると、ほんの僅かしか食べないらしいことにもつくづく感心いたします。私は高齢者病のせいで、食事節制をして少量だけバランスよくとる食事スタイルには慣れていますが、先にもいいましたように1日に1回とはいえ、外食などでみると、欧米人が一回でとることのできる分量は驚嘆すべきものです。1日1600-1800カロリーなどという健康維持に相応しい食事量などといったら、みんな気が遠くなってしまうのではないかと想像したくなります。しかし、日本で食生活しているかぎり、そんな「食事制限」などは、1食の分量だけで見る限り、みんな毎日しているから「屁の河童」、自ずと長生き!!ということだなーと感心いたします。但し、3食合計すると、日本人の食事の内容は健康的と言えても、カロリーは想像するほど違わないのかもしれません。 肉食は満腹感は少なくても、本当に腹持ちのする食事だと、いつも思っていました。だから、1人150グラム程度の肉の1食でも、私には基本的に1日のエネルギ−は充分だと感じていました。主食のこうした違い以外にも、お茶についても大きな違いがあります。例えば、日本で言うビスケットの類やケーキのカロリーの高さは非常に大きなものでしょう。例えば、大人の片方の拳ほどのラードの大きな固まりに、同じく同量以上のビックリするほどの砂糖を入れ、強い酒とこね合わせ、そこに小麦粉ではなくナッツの粉を少量ずつ付け加えつつ入れてこね混ぜ、パン種のように堅くなるまでこの作業を続けて型に抜いてビスケットにします。日本のビスケットの4〜5倍あるものを1枚食べても、カロリーは軽食に相当するだろうと思います。ケーキの通常の常識の大きさも日本のケーキの3−4個分ぐらいはあるでしょうから、お茶だけで一食すませても何ともないのもよく分かります。こうした大きさのかなり違う「1個」を比較しても、食物1個の日本の物価はスペインの倍ほどするというのが正直なところです。ですから、スペインに人は、みんな生活に心配が無くなった産業化・都市化の進行と共に、食べ過ぎ、贅沢病と言われる肥満が健康問題になるようになってきました。しかし、もし適度に食べると、非常に活力を生みやすい食事として評価できるのではないかと、個人的には感じています。肉と乳製品で暮らす生活は、私には向いていて、適度に運動して新陳代謝しきることができれば、少し筋肉質で瞬発力を発揮でき安い体質を維持できるかもしれないと言う感じです。科学的にはどうか知りません。ですから信用できない感じだけの話ですが。食べ過ぎ、贅沢はどの食文化でも害が生まれてくるのは共通しているのではないかと考えておけば無難でしょう。
食文化の質の比較上の感想は、別の機会にいたしましょう。帰ってきてから食べた日本の食事のユニークさ、素晴らしさについては文句なく感動いたしました。皮肉な意味を含めつつも、以上のような感じからして、「日本人は何と、なんと「贅沢な」「高価な」食事をしているのだろう!!」と感動している次第です。「こんな食事をいつまでしていられるのかなー」という不安も、年金生活者としては感じます。ケチは話で恐縮でした。

プラハ、ウイーン、ブタペストに行きました。

S氏撮影トルコの都市

S様
 写真を送って下さりありがとうございました。大晦日早朝に出発してチェコなどに旅をしてきましたので、写真のお礼が遅れました。「 S 写真集」というアルバムのホールダーを私のパソコン内に作りましたので、次の機会にもまた写真を送って下さい。(冒頭写真は、S氏撮影、トルコの都市風景)
 懐かしい風景を再び見させて戴いたものはエディンバラ、コッツウオルズ、ヴェニスでした。トルコは行ったことはありませんので、風土的にも始めての風景を見せて戴きました。スペインでも、地中海沿いの地域と内陸部や大西洋沿いの地域は、全く異なった、それぞれ非常に豊かな風土や奥の深い文化を持っていますので、トルコ、イタリア南部などには、ギリシャなどを含めて一度は是非行ってみたいものと願っています。アフリカ大陸の地中海寄りには、体力の自信がないのでやや腰が引けてしまいます。イタリアはローマから北しかいったことがありません。フィレンツェの友人の近くのホテルに1週間いたことを含めて、イタリアはイタリア語が出来るならば、住んでじっくり見てみたいところという強い印象をもちました。ヴェニスも美しい都市でしたね。
当地に来てスペイン国内の非常に安いツアーに参加して、4回ほど旅をしたことがありますが、「折角ヨーロッパにいるのだから1回ぐらい旅をして帰ろうよ」、ということで、滞在の終わりに衝動的に偶々買える商品を買ってプラハ、ウィーン、ブタペストを回ってきました。こんなことは年金生活者として何回も出来るものではありませんが、日本から来ることから考えれば、私たちにもなんとか可能な範囲のことでした。ヨーロッパでは通常よくある形式のツアーで、旅行会社が提供できる幾つかの地域を選択してまわるものです。旅の飛行機、汽車、バスの切符と駅までのお迎えとホテルまでの送迎、付いた先の土地の1日目の半日ガイド付きツアー、朝食付きホテル、というだけのもので、後は滞在日数に応じて自由行動時間が決まるというものです。ホテルのランクもこちらが選んで決めることが出来ます。行き先の自由行動時間には、お金さえあればレンタカーも良いし、勿論行き先でオプショナルなツアーを買うことも出来ますので、楽に観光が出来るでしょう。体力に自信のある方は、徒歩で細かく楽しめると言うことになって、懐と相談しながら、自分に適した旅を、同じツアー会社の商品を買う形で出来るというものです。私はもっぱら徒歩旅行を「得意」としています。オプションのツアーも、基本的にはスペインで買った商品ですから、スペイン語のガイドが用意されています。しかし、行き先で自分の好きな言語のガイドの方に代えることが出来ますから、これも大変便利でした。ツアーを売っている会社にもよりますが、ウィーンなどのように、日本語のガイドを提供できるところもあるようです。私がスペイン語会話に弱いので、一緒に行ったパートナーも英語の方に付き合ってくれて、プラハではユダヤ人街区の英語のツアーに参加しましたし、ウィーンでは個人的な友人とともに英語で街を歩き、プラハでは、その日のスペインからの半日ツアー参加者が我々2人ということもあって、スペイン語のガイドさんが、急遽英語混じりのスペイン語でガイドをしてくれました。プラハ、ブタペストを回って、少数民族ユダヤ人や、絶えず他国・多民族に占領されてきた歴史を持つ人々が、民族意識国民意識などのアイデンティティを失わずにきたことの証でもある歴史遺産を観光して、改めて人間の不思議さ・社会の不思議さ、己自身の不思議さを感じて帰りました。これら3国では、日本人観光者に対する犯罪の心配もしなくて済み、自由時間も殆ど周辺を気にせずに済みました。特にチェコハンガリーの街の人たちが親切で、世話を焼きたがる人も多く経験し、バス内でバスの降りる先を聞こうものなら、到着したときに注意してくれるボランティアが殺到するというような感じで教えてくれるのには、感謝すると同時に思わず笑ってしまいました。本当にこんな触れ合いは、忘れられない好感を、その国の人々に持たせるものですよね。この旅は雪が多く、耳まで帽子で覆っての旅でしたが、ハンガリーのガイドさんは、私達を、予定外のサービスで街の中の山に案内し、何もない原っぱに降ろして、「スペインからきた人には雪は珍しいだろう、(サラマンカでは雨も降らない)、雪合戦をしようか、雪だるまをつくらないか」というのですから、これも驚きました。おかげで2時間も勤務時間オーバーして、英語混じりの面倒くさいガイドをしてくれたのですから、本当に有り難く思いました。マドリッドでは親切にしてくれる人にはとりわけ用心しなければならないとされているのですが(勿論、その他の地域ではそんな心配は全く要らない!)、これらの国の都市ではそう言うことはないように思いました。ウィーンでは観光会社の職員の行動の周到な合理的な親切さ、優しさなどを感じ、全体のあらゆることの水準の高さ、洗練のされ方の高さを感じましたが、難点が一つありまして、それは物価が極めて高いということでした。全てはスペインの倍ほどではないかと思うくらいでした。例えば、極端な例を挙げますと、食料品専門の高級百貨店という感じの、おそらく世界的に有名な店だろうと思うのですが、そこのバーのおつまみ料理の小型伊勢エビの半身と葡萄酒の小瓶で30ユーロ(約4200円)という具合です。勿論、こんな所に入る人は所得上層の人だけでしょうが、会社勤めの立派な背広族の人たちで満員の人が入っているという風景は、ヨーロッパの何処の国でも見られるというものではないように思いました。 私たちが、間違ってしてしまった極めて例外的な体験でしたが、「それは美しくて、美味しかった」といわざるをえないものでした。高級レストランで、二人で軽い昼食に1万円弱を払うということは、或いは日本の皆さんには驚くにあたらないことと受けとられるのかもしれません。しかし、日常生活、特に食生活では一般的に、日本よりもかなり豊富でレベルの高い生活を、非常に安くしてきたスペインでの日常生活感覚から言うと、この久し振りの贅沢に、思わず悲鳴を上げました。
 旅から帰って、早速帰日のための荷造りを始めました。運賃の高さは、どんな送り方を工夫しても、結局かなり高くつきますから、土産物とか普段着や下着など、非常に高いものにつきますので出来るだけ重くならないようにしようとか、捨てようと思って荷造りを始めたのですが、これを捨てて日本で買い直すとどちらが安いだろうなどと思い始めると、だんだん捨てるものが少なくなって、結局、経済観念の乏しい私は、つまらないものまでもって帰る羽目になりそうです。そこでふと思ったのですが、特に食料費など思っただけでも憂鬱になる日本の物価の高さはなぜだろう、ということですが、農業・漁業、とりわけ牧畜業などが殆ど自立できない惨憺たる産業となっている現在、食料の大半に、この高い運賃が加算されていて、非常に高い肉・魚・乳製品を、ほんの僅かばかりずつ毎日の食卓に乗せているのだということではないのか、と思いました。高度成長以来、定着した流通の仕組みは、基本的には、たとえば、中国地方や九州地方の県の高原で生産した大根や、日本海で捕ってきた魚を、一度流通業者が大阪に運び、そこで卸したものをその同じ生産県の市場に運びなおして、その県の大都市市民の口に入ることになるとか言うような、国民の生活と言うことを目的にしてマクロに見れば、「不合理なシステム」が発達してきたのだと思います。無論、様々な流通コストの合理化という試みも行われているとは思います。こうした流通過程の媒介項の中に、工場で生産する半加工の食品産業が入り、マクドナルド方式とよばれたりするjust in timeの方式で小売業者に到達し、結局、その過程で何度も袋詰めされては詰め替えられ、大半は、結局消費者の目に触れるときは生鮮食品そのものの土の付いたものや、頭や尻尾の付いたものではなくて、加工され、袋に入った物になっているということで、大半の食料が小口の袋詰めになって店頭に並んでいることになります。ところがこうした事態は今や、ネギ、キュウリなどの類に到るまで大半の食料が世界の各地から特定の大都市の卸し市場に入ってきて消費者の手元に届くまでになっていると言うことになりますと、その運賃の「国民としての無駄遣い」は相当なものではないかと想像します。今や、世界から食料を買い集めているでしょうから、様々なものを日本で口にすることが出来ます。私の住居がある地方の郡部でさえ、ちょっと都市部に出れば、チーズも生ハムもオリーブ油も、通常の肉や魚も食べられないものは何もないと思うのですが、こうしたものは明日からは、今までのような日常的な感覚で消費することは基本的に諦めなければならいと覚悟を決めて帰ろうと思います。勿論、日本の伝統的な野菜中心の食材の生活に戻れば、私達にはそれなりに問題はありません。しかし、外国で生まれた子ども達が日本に帰ってくるときは、最初はどうなるだろうかと、すこしばかり気になります。(今年、私の2重国籍の孫達は、別なイベリア文化圏から日本に帰ってくることになっています。)その物価の高さ=そうしたものに大きな金を使える我々が「豊か」であることには疑いありませんが、それを誇っていいものやらどうやら、躊躇いを感じます。しかし、スペインもやがてこのままではそういう方向になっていくことは、現在進行している現象から見ても明らかでしょう。観光する外国人には素晴らしく見える都市中心部の自営業の廃業の進行は顕著になっています。都市の中の住民が活発に参加して行っている多様な文化活動も、やがて急速な郊外化が進行していく中で、徐々に消滅していき、大規模娯楽産業や、「遊んで楽しいだけの情報」産業にとって代わられるでしょう。この世界遺産とされる歴史的町並みに住む個々の人々は、自分の取るミクロな「合理的」行動としては、明らかに、そちらの方向を歓迎しているようにもみえます。
 写真をお見せできればよいのですが、私の方の容量不足でこの文中に挿入できません。折に触れて、許される1枚だけの写真を時々挿入させてもらうことにして、今日の所はお許し下さい。
 

「改革好きな」スペイン政府。禁煙法と性教育改革

今の内閣になってから、スペインは良かれ悪しかれ、立て続けに次々と現状「改革的」な立法を成立させて、それに快からぬ感情を抱く人をいらだたせていると言っても良いでしょう。その中にはいつでもやれたこと、表だって反対することの出来ないことがいろいろとあるようにも思います。その多くが「人権主義」に関わる部分であるともいえるように思います。例えば、もうすぐ迫った1月1日から、スペインも勤務場所及びバールやレストランテなどの接客産業部門でも禁煙法に基づいて禁煙地区と喫煙地域を区別しなければならなくなります。100平米以上のバーは、当面6ヶ月間は表示だけでも良いのですが、恒久的な喫煙場所を建築しなければなりませんし、小さなバールは、喫煙者専用か、禁煙者専用かを選択をしなければなりません。バルセロナの小さなバール業者組合は喫煙者用を選択することになっているそうで、この法律施行と共に禁煙者が増えていく傾向が生まれるでしょうから、長期的には禁煙バーは増えていくことでしょうが、短期的にはさて、この戦略は成功していくでしょうか。大きなバールに客をますます取られていかないようにして欲しいものです。しかし、女性歓迎で禁煙バールが増え、若い男性も同調していくことはここでは期待できそうもないことのように思えます。法律の目的は言うまでもなく、煙草の害から人々の健康を守るため、禁煙を奨励することで、企業の方もこれに伴うコストについて議論をしているようですが、煙草業界は勿論、広告業界も煙草の広告を禁じられるので、不満の声が高いようです。それによって守られる企業の労働者の健康のメリットの企業業績への効果は、企業の側からは余り議論されていないようです。

先日、スペインの若者の間に中絶が多く行われていることが統計的に明らかにされました。2004年の1年間で,85,000人が中絶をしたということですし、ここ10年間で、75%もの増大率を示していると言うことです。此の統計発表は、性教育改革に向けての準備的研究と言うことで発表されたものですが、この基礎研究によると、中絶が増大した理由として次のような分析がなされているようです。
第一に、特に15才から19才までの少女の中絶率の高さが指摘されました。いろいろな原因が考えられていますが、若者達の避妊の失敗という問題もあるようです。19才以下の少女の妊娠者の3/4は自分の意志で性行動をし、中絶している。(そこまで立ち会う男はいない、ということか?)性に関する教育、その情報は非常に増えているにもかかわらず、その性行動の際には、この情報は役立っていない、ということで、性教育のどこかが間違っているのではないか、といわれているようです。
第2に、20〜29才の年齢層では、多くの婦人がその第一子を持つことを延期しているという、全く社会的な要因が指摘されています。不安定雇用と住宅事情の悪さが子供を持つ年齢の遅れの理由だと言うことが明らかにされています。またこの年齢層の中絶の第二の理由は、一人っ子を選択している、それ以上生みたくない、育てることが難しいということだという事実を報告しています。
 ちょっと特殊な理由ですが、移民の増大という要素があるといわれています。移民の多いマドリッドでは、移民の女性はスペイン人の婦人の五倍の中絶率を示しています。前者では、中絶率は34ポール・ミル,(34/1000)に対して、後者は6.8/1000だそうです。移民の女性の場合、自治体などの家族計画サービスにアクセスしにくいし、文化的な態度の点でこのサービスを効果的に利用できないという問題もあるようです。
 第三に、すべての年齢層において増えつつある危険性の高いある種の性行動の傾向です。つまり、性交後にピルを取るという仕方を気軽に行っている傾向だそうです。そしてその結果、簡単に解決策として中絶するという傾向でしょう。中絶は母胎に対しても危険なものだという事実を自覚していないこともこの理由となっているようです。私は、精神的にも女性にとって大きな後遺症を遺すものだということも、日本の水子地蔵や水子のお墓をみると、感じたものでした。ましてや、中絶の失敗によって妊娠できなくなった場合の悲しみの深さは想像するだけで怖ろしくなるほどです。私は読んだことがありませんが、女性の文学にはきっとこうした話があるでしょうね? この方法は、スペインに於けるエイズの高い蔓延率の原因ともなっているものです。バルセロナ市の調査では、過去6ヶ月の間に性交後のピルを飲んだ女性は、18才の女性の15%だったとあります。恥ずかしながら、私は、こうしたピルというものを知りませんし、使ったこともありません。私の時代にはそうしたものは日本では売られていなくて、もっぱらコンドーム+排卵日の計算によっていました。結婚したての頃、薬屋にコンドームを買いに行くのが恥ずかしかったことを思い出します。
教育改革は、現在のスペイン政府が掲げている重要な政策課題ですが、こうした性教育改革問題も、スペインの伝統的な宗教信念と衝突すると言うこともあってか、こうした政策に不快感を示す人がなお、かなりいる理由となっているのかもしれません。日本の長い幾つかの戦時中、日本の代表的産児制限論者だった国会議員が、ファシストによって斬り殺されたことは、私も知らないもう「ずっとずっと昔のこと」でした。何処の国でも、性の「近代化」への道はいろいろと苦難に満ちたものでした。日本の農村の人にまで、産児制限の思想がそれなりに伝わり、またその具体的な方法が伝わっていったのは、日本で言う戦後のこと、「戦後改革」のあとのことだということも、まもなく日本人の記憶の中からも消えてしまうことでしょう。その意味では、日本の現状は、もうとっくにこうした問題を解決している、ないしは超えてしまっていると考えて良いと思いますが、若い皆さんは、どんな性行動を取っていいるのでしょうか? 人間の罪深さは、何時までも変わらないのでしょうか?

私の合唱団についての雑談。

Sbunaka2005-12-15

今年もいつの間にか終わりに近づいてきました。12月は、キリスト生誕を祝うクリスマスを控えて、楽しい家庭向けの音楽の演奏会も多くなり、またクリスマス前のマリア懐妊のお告げの日とか、ミサも多く、キリストの死と復活祭前の暗い重苦しいミサの続く頃の忙しさと異なり、街の合唱団も華やいだ忙しさのシーズンとなります。私たちの合唱団も、10月に行われた、世界遺産の歴史都市サラマンカの中央広場250周年を祝う、オーケストラと合唱の新曲カンタータアゴラ250」の演奏会をおわって以後は、毎年恒例の教会年中行事のミサ以外は、平凡な練習の毎日でしたが、 この12月にはいって、幾つかの演奏会のための活動に入りました。12日に一つの山場である合唱祭の行事を終わったところですので、今日は、私たちの合唱団の活動について、雑談をすることにいたしましょう。
観光に私の住むSalamancaを訪れた方は、San Esteban教会の巨大さ、美しさについてご存じの筈です。観光客でここを訪れない方は居ません。先日も、この教会を使って、日本でも大ヒットしたモーツアルトの伝記映画「アマデウス」を撮った監督が、今度は「ゴヤ」の伝記映画を撮るためにここを訪れました。約1週間ほどのロケ撮影でしたが、私たち合唱団の男性達もこの僧院の僧達の合唱場面に出演しました。修道僧の服をまとい、髭を落とし、頭のてっぺんを丸く剃っての大奮闘でした。この1週間は、住民が扮したゴヤの時代の通行人、色々な社会諸層に扮した沢山のエキストラたちが街の中を歩き回って、出演している知人を探して見物の町の野次馬も多く出て、賑やかなことでした。有名監督の映画ですから、きっと日本でも何時になるか知りませんが、封切られるはずです。是非見てやってください。勿論、私は出ていません。「何故でなかったの?」と素朴に訊ねてくれた日本人の友達がいましたが、「だって、日本人がいるなんて変じゃないか」と大笑いでした。それが、こちらに長く住んでいると、だんだん自分が日本人の顔していることも忘れて、みんなと同じ顔をしているような気になっていて、それが自然になってしまうもののようです。こちらの人と結婚して子どもを持っている人は一層そうのようです。そして、何かの切っ掛けでフット、自分が日本人の顔している「変わった人」であることに気付いたりすることもあるようです。例えば、街のいたづら坊主や少女達が、群れをなして街をのし歩いているときなど、すれ違いざま「チーノ、チーノ」と囁くように言って通り過ぎたりします。
しかし、先日、そうした人と食事をともにしていたとき、日本人女性の小さな語学研修生グループの話声が聞こえてきて、「ハーフの子ってきれいね。私達が産む子には、こんなきれいな子は生まれっこないから、子どもなんか生みたくないよね」と仰有るではないですか。何という観察眼なのでしょう!? 子どもは、否応なくやがて環境の中で「スペイン人種ではない」ことを知らされるときがきて、アイデンティティ問題を持つでしょうが、それぞれの母国人国人として立派に育ってもらいたいと思う両親の涙ぐましい努力は、言葉の教育一つとっても、食事の習慣を取っても、大変なものだということは、多民族社会の家族の共通問題です。そうしたことも是非観察出来るとよいですね。
さて、合唱祭も間近の10日に、私どもの小さなコンサートに参加しましたが、行った建物はSeminarioで、この巨大なSan Esteban教会の裏側にある広大な敷地を持った建物でした。
Seminarioとは、神父を育てる神学校ですが、現在も神学校であるのですが、神父になる人が少なくなって、学校の内実はすっかり廃れてしまっています。このSeminarioという学校は、半世紀前までは、カトリック社会では極めて権威の高い学校で、身分社会のなかで相続するものを持たない人たちの多くが競っていく一つの出世コースとも見なされていたこともあって、優秀な人材を多く育てた場所でした。今日、ラテン語ギリシャ語を自由に操る高年齢の人は、このセミナリオの出身者だといって良いくらいだったようです。身分社会や身分社会的制度要素を多く保持する社会では、階層アスピレーションも身分的に固着化されていることの多い社会でしょうが、上層階層固有の家産を相続出来ない人の、階層移動による出世のコース選択肢は極めて限られていました。僧侶になるというのは、そうした数少ない出世のコースであった時代があったといえましょう。また、教育制度が、国家宗教であるカトリックの教会によって圧倒的な影響を受け、僧職と教職が重なるとか、その他の職業資格の点でも、信者であることが重要である時代がありましたが、それは1970年代のフランコ時代終焉まで見られたといって良いでしょう。しかし、近代社会がその社会を成熟させて行くに従い、若者が将来の生活の向上を目指して取る道の選択肢は多くなっていますから、一例として、「結婚も許されない」神父になって、神に仕えることを選択する人は極めて稀となってきたのも、ことの成り行きでしょうか。余談になりますが、修道院の中の生活も変化しているのではないかと思われます。高い壁に囲われた大きな、大きな敷地を持った尼僧院も私たちの街にはありますが、その中で畑などを耕し、自活をしながら生活をしている修道尼さんたちもだんだん高齢の方が多くなり、若い方がどうしても必要だろうと想像されますが、最近そうしたところを訪ねてみると、若くて大変美しい、しとやかな黒人の尼さんにお目にかかることが多くなりました。今では、アフリカやアメリカ(スペインではアメリカとはラテンアメリカのことです。)から来て、こうした道を選択なさる女性が多くなっているからだそうです。
 さて、そうしたわけで、神学校の広大な敷地も本来の用途として大部分が使われないものになってしまいました。私達の演奏が行われた場所は、昔の立派な学生宿舎だったところでしたが、現在、老人ホームに変換している部分でした。行ってみますと、丁度食事が終わった時点で、500人ぐらいのご老人達が大食堂でくつろいでいたところでした。私はスペイン語の会話が出来ないのでよくわからなかったのですが、私たちも食事に招待されていたらしく、大きな食堂でホームの皆さんと食事をした後に、ボランティアとして合唱演奏すると言うことだったようでした。合唱団のボランティア活動は、毎週何か必ずあるというくらい忙しい時期がありますが、そうしたときでさえ、各パートのメンバーのうち必ず誰かが来るのですが、誰もそれを義務づけたりしませんので、沢山揃う日もあり、ホンの少数しか揃わないときもあります。例えば、大學入学式の式典のミサの時など、ウィークデーの朝で勤め人は来られないということもあって、私が属するテノールは4人しか来なかったこともありました。それでも皆さんなれているらしく、平然として合唱しておられたのには、感心というか、スペイン式大様さの凄さというか、ただ脱帽のみでありました。この老人ホームでの公演の日も偶々、演奏に来ている合唱団員は予想外に少なく、男声は僅か上下合計6人ほどしかいなくて、私としては非常に慌ててしまいました。つまり、まだ私としては練習不足、自信不足である歌が幾つかあったのですが、1人1人の声がはっきり分かる構成で歌うというのは、非常に辛いことであったからです。すぐ頭の上で強烈な照明がひかり、汗だらけになって、高音が出にくく、非常に下手な合唱をしてしまったのは残念でした。僅か10曲ほどでお終にしてくれたので、それは助かりました。あまりのできの悪さに、指揮者のVictorianoさんも呆れてしまったのではないか、と思います。私としてはこんな小さなグループでの舞台は初めてだったので、いろいろ学ぶことも多くありました。強い照明のもとでは、喉が乾燥するためでしょうか、ピアニッシモで歌う時の高い声は出なくなることとか、舞台マナーをしっかりとまもらなければ、舞台がみっともないことになるということ等々。同じ舞台に立った、もう1人いる日本人メンバーの女性のスペイン人亭主Aさんも、さんざんな舞台だったといっていたので、できの悪かったのは私だけではなかったようだったのがせめてもの言い訳でしたでしょうか。彼氏の可愛い子ども達も見に来ていたので、彼としては悔しかったに違いありません。

 終わって同じ日、次ぎに、有名な2本の塔のあるcatedoral大聖堂のviejo旧の方で、新米の私は今まで充分に練習したことのないミサを歌いました。この合唱団がレパートリーとして既によく歌っているもののうちの一つで、にわか仕立ての数分の練習だけで歌ったのでしたが、教会のミサのボランティアの時は大体いつもそうした調子で、その場で歌う歌を知らされるということが多いようでした。さすがベテラン達はそれでミサを勤めてしまいます。彼らによると、ソロバン玉のような楽譜のグレゴリアン・チャントのような古いミサ曲も、歌い方さえ心得ていれば余り難しいものではないとのことでした。また、会衆に分かり易く、唱和しやすいミサの曲も多くあって、私も、初見の楽譜でもなんとか付いていけるものもあります。当日のミサ曲はF.Palazonのもので、歌詞もスペイン語。(歌詞の意味は通常のラテン語のミサの歌詞と同じ。)しかし、大変美しい、親しみやすいミサ曲で、多くの人に好まれているようでした。大聖堂の中で歌うと非常に響きがよく、美しく聞こえるものです。新米の私も、1年たつと既にこうしたやり方は経験済みのことであったので、慌てることもなかったし、いきなりその場で次は何を歌うといわれて歌う習慣も、前もって用意しておいた楽譜も勘があたって役に立ったし、当日歌えなかった歌は一つだけで、うまくいきました。私は言語の関係で、楽譜がないとメロディーが歌えても歌えない弱点があります。 Aさんの奥さんと子ども達も来ていたようで、彼女から、私の声もAさんの声も良く響いていたとの批評をいただき、慰められました。
 合唱団には、ミサに参加されないメンバーもいるようですが、参加される常連は、皆熱心なカトリック信者が多いようでした。 私は非キリスト教信者ですが、(無神論者というと、ちょっと自分の考え方と違うような感覚がしますので、フマニストということにしていますが、)本場のキリスト教国に来て、バシリカとクラス付けされている大聖堂(カテドラル)中の極めつけの世界遺産のカテドラルで歌っている合唱団にいるのだから、ミサだけは勉強して帰ろうと心に決めて参加しています。常連は、みんな長い経験者で、ミサの進行に併せて歌う歌は形式的に言えば、大体決まっているのですが、いわゆる「ミサ曲」というミサの進行の全てに対応して出来上がった曲集が幾つか手持ちにあって、私が今までに知った限りで、現在いるメンバーにとって大体いつでも歌えるようなモーツアルトシューベルトヘンデル、などの名作曲者の大曲は4/5曲位のようですが、その他に、大衆的に馴染みやすいスペイン語のミサ曲を持ち歌として持っていて、参加して教会に行ってみると「今日のミサは, palazonだ」と作曲者の名前だけいわれるだけで、後は具体的には曲名の指定はあるような無いようなもので、予告無しで、次はこの歌と進行中に指示されます。色々な目的の式典やミサがあるようですが、特定の作曲者のミサ曲を全部歌うのでなくて、ミサの進行の中で、例えば、「アヴェ・マリアモーツアルトのアヴェ・ヴェルム」、「今日はヴィクトーリア」、「アレルヤはPascua」などと囁かれます。その他の手持ち歌が数百曲と非常に多いので、新人の私にはもうすっかり面食らって、もらった沢山の楽譜から予測する曲を一生懸命自習していっても、それを歌わず別な曲を歌うこととなって、懸命の練習も何の役にも立たないと言うことが多かったのでした。 しかし、ほぼ1年たって、漸くいままでに自習学習していった私の手持ちも多くなってきたので、その中から、例えば、「アベ・マリアはこの5曲のうちのどれかだろう」、というような見当で5曲の楽譜を用意していき、対応するという具合で、何とか数曲歌ってくることが出来るようになってきたのでした。まもなく、この合唱団に別れを告げるときが来ますが、よくここまで鍛えていただいたと、本当に感謝の気持ちです。カトリック信者でないものが、ミサで合唱してきたことについては、何の蟠りもなく歌ってきたのか、という疑問をお持ちになる方もあるかと思います。私自身もその点をどう考えればよいのか、少し悩んだこともありますが、しかし、この合唱団には一つの鉄則がありまして、入会の時に言い渡されたことでした。それは、政治問題について意見を述べ合うことは御法度だと言うことです。カトリック教会は実に積極的に政治に関与する枢機卿などが多く、いまなお、基本的にカトリック教を国教とすることを復活しようとしているか、保持しようとしているか、いずれにしてもイデオローグとしての政治活動を活発に行っていると思われます。そうした際の司教達の政治意見には、反発をする人も少なからずいるように思いますし、その意見に同調しなければ反カトリック、反スペイン的と言われれば、私としては非常に辛いものがあります。しかし、政治的意見表明は、団員間では行ってはいけない、という約束があるので、そのあたりの積極的な意見交換は避けることが出来ますので、相互に不快感を与えることはありません。例えば、ミサのコミュニオンでの、誰彼無く握手し合う儀礼など、非常に素直に共感できるものがあります。宗教的神話に基づく儀礼についても、余り気になりません。どんな宗教的神話のもとで、その宗教の信者の生活が語られるのかは大いに興味のあるところですし、その社会や人々の生活習慣などを理解するには極めて重要な意味を持つように思います。それだけではなくて、その宗教のボキャブラリーで語られる生活者の肯定的な信念には、宗教のボキャブラリーを持たないものにとっても共感され、共に行うことにためらいのないことが多くあるというのが、私の今までの経験的な信念です。宗教のお話は過去の歴史的時代を前提しなければ理解できないものが多く、その意味では、宗教がその中に含まれる同時代の人にとってポジティブな議論を維持しようとすれば、歴史的同時代に充分に「適応し」「合理化」できなければならないでしょう。時代に受け入れにくい世俗的議論を宗教的に聖化することが多くなればなるほど、異教徒や、入信の儀礼を行った教会組織員以外の人に受け入れにくくなると思います。話が、合唱から、ずれすぎました。しかし、異なった宗教の文化に接して、それをどう肯定的に「理解」し、「受け入れ」ていくかは、私達の思想信条形成に深く関わる問題として避けて通れないと思っています。
 12日はいよいよ、このところやや本格的に新曲を練習してきた合唱祭のためのコンサートの本番です。合唱祭について少しお話ししておきましょう。こちらの言葉で言えば、el ciclo “Navidad Polifonica”、 文字通り辞書的に翻訳すれば、「クリスマス多声音楽」の連続演奏会ということになりますが、地元新聞の報道によると、サラマンカ文化財団Fundacion Ciudad de Culturalによって組織されたもので、毎年この時期に行われています。昨年は聴きに行っただけでしたが、サラマンカには、サラマンカ大學、ポンテフィシア大学の学生合唱団や私達のような市民合唱団など、このコンテストに恒常的に参加するような13の合唱団があって、これらが市の後援を得て、この合唱祭に参加しています。小さなグループを入れると、勿論数知れず、おそらく教区の教会の数ほどあるのではないかと思います。もう一つ別な時期に、マラソンと呼ばれる長時間の発表会が市民のための文化活動として、やはり複数の合唱団により行われています。一つの都市にかくも多くの、こうした発表会が出来る合唱団があるのは、おそらく旧都市内にすし詰めのようになって到るところにある古い歴史を持った地元の教区の教会のミサで活動している合唱団があるからではないでしょうか。毎日曜日午前中に、カトリック教、ユダヤ教イスラム教に関する宗教の国立テレビ放送の時間帯が、移民の時間と難聴者の手話の時間とともにありますが、勿論カトリック教の時間のウェイトが圧倒的に大きいのですが、その中に必ずミサの放送があります。スペインのいろいろな地域の教区からの放送があって、各地区の合唱も面白く、お説教については全く何も分からないので朝ご飯を食べ「ながら」見て聴いて楽しんでいます。そこから判断すると、さすがにサラマンカの我が合唱団は、バシリカの大聖堂で歌う合唱団だけあって、宗教曲を歌うスペインの市民合唱団の中でもオーソドックスでレベルがかなり高いのではないかと思います。 先の新聞の紹介ですと、大聖堂の典礼を主として歌うこの我らが合唱団は、1500回以上のコンサートを既に行っている、とあります。今回のコンサートは、スペイン語のクリスマス・カロルvillancicos tradicionalesが多く、人々によく知られた曲を中心に歌いました。例えば、私がどうしてもみんなのようには歌えないPanpanitos verdes, hojas de limon, La Virgen Maria Madre de Senor(パンパニートスの緑、レモンの葉っぱ、主イエスの母処女マリア)という早口言葉のような文句が聴かせどころになっている歌などは、この詞の意味は誰にも分かっていないようですが誰でも知っている曲です。かつてここで指摘したこともありますが、民謡の類の歌には、私たち外国人には意味不明のものも数多くあるようですし、歌詞を見ながらでなければ歌えない私には早すぎて歌えない歌が多くあります。ついでに言えば、ヒターノの音楽フラメンコには、カスティーリャ語のみを話すスペイン人には分からない言葉の詩も多く歌われているようですし、感覚的にも私などどうやっても歌えるようにはなれないものです。その点では、日本人でロルカにぞっこん惚れ込み、歌ったり、語ったりして、スペイン人を泣かしたり喜ばせたりすることの出来た日本人の役者、故天野??さんを(あの独特の日本人離れした風貌を見たら忘れることのできない筈の人の名前を度忘れして、申し訳ない、今は出てきません)私は大変尊敬せざるを得ません。彼がよく歌っていたロルカの「12の民謡」は、私もなんとか歌えるようになりたいものと思っています。
その本番演奏会は12日夜9時から始まり、現場録音をしていましたので、来年半ばにはまたCDとして売り出されることになるでしょう。場所はクラレシア、即ちポンティフィシア大學の教会でした。この大學の教会は、、一般市民にも、いろいろなミサやこうした市民の催し物に開放されていますが、歴史的遺産の一つとして、観光客にも開放されています。指揮者がこの大學の教会の楽長だったことから、大學内部の部屋を練習場として使わせてもらっていたのですが、知っている限り、この大學の建物の中に3つの教会とチャぺルがありました。この大學の歴史は、世界でもオックスフォード・ケンブリッジに劣らぬ古さと権威をもち、巨大な荘園を持っていたと思われますが、ポンティシフィア大學の内部は、非常に古い宗教関係のものが残っていて、石造りの建物も、中庭は勿論、屋根付きの屋上の瞑想室は、遠景から見ても美しく聳えたって見えます。教会の尖塔は非常に高い空洞の丸天井を持ちますが、その屋根の外には4季を通じて、鳥の大群が夜を過ごし、夜中10時頃の演奏では、天井の外にいる沢山の鳥の鳴き声が、一緒に歌っているかのように聞こえます。本番は大変好評で、大聖堂の椅子席を埋め尽くした多くの観衆の拍手で無事終わることが出来ました。余りよい写真ではありませんが、当日の演奏会の写真を一枚入れておきますので、ご覧になって下さい。
この演奏会が終わり、次の演奏は24日の夜と思われますが、クリスマス・イブのミサを大聖堂で行うことになっていて、今日から、そのためのヘンデルのハレルヤ、ミサ曲メシアから数曲の練習に入りました。私達新人には始めての曲なので、是非多くの練習の時間を取って欲しいのですが、多分、ベテランの持ち歌の中に入っていますので、余り練習しないまま本番になるでしょう。一緒にミサで歌おうとしたら、今年1年生の私には、かなりの自習時間を必要とすることになりそうです。両曲共にテノール団員の平均的限界に近い高音を連続的に出す曲ですので、身体のコンディションを整える必要がありますが、今日一回一通り歌った感じでは、何とかイブまでに間に合わせることが出来そうに思います。しかし、器楽の伴奏が付いていて、大声で歌うことが出来ますので、高音も何とか美しく歌えるのではないかと、わくわくします。演奏している曲そのものをお聴かせできないのが、残念です。
 
追記
 深夜から始まるこの大聖堂でのクリスマス・ミサは、伝統的にいつも大変な人出だときかされていたので、私は秘かに大いに興奮して準備していったのでしたが、大きな大聖堂にまばらな人がほぼ辛うじていっぱいという程度で、失望いたしました。やはり、年々自宅でクリスマスイブを迎える傾向が強くなっているということでした。もう一つがっかりしたのは、私が一番力を入れて練習してきたヘンデルのメシアからの2曲が演奏中止になったことです。理由は、指揮者の判断で、練習不十分だから、ということでした。弦楽器やパイプオルガンなどの奏者も来ていながら、その場で中止を申し渡されたのは、かえすがえすも残念で、大いに欲求不満が残ったクリスマスイブでした。
 

「日本経済はついに不況の悪夢から抜け出した!」というニュース

6日のHerald TribuneにJapan finally putting nightmare of recession behind it. と題されたMartin Facker の記事が掲載されています。大変嬉しいことです。 以下、この評価がどのような議論から出てくるのかを見てみましょう。
 これによれば、ここ2年で株価は2倍になり、東京の土地価格も1990年以来始めて上昇している、会社の利潤はかつて無いほど上昇している、ということです。 景気回復は東京では、触知出来るほど高層建設中の建物が増え、1990年代の惨めさからついに抜け出した、という評価が高まってきている。80年代末からはじめてみる広範な国内経済の復活である、と記者はいっています。
 新しいビジネスや成長を窒息させていた統制が少しずつ外されてきて、小泉内閣の銀行再生政策が銀行を回復させた。彼は銀行の80年代以来の焦げ付き債権を放棄させたが、それは2002年次で440ビリオンドルになる。それよりもっと大事なことは、終身雇用、論争排除主義のような企業文化の緩やかな革命を達成して、より競争的な文化に置き換えていったこと、更に新テクノロジーに大きな投資を行ってきたこと、だとしています。
その良い例はNKKだとして、1990年代不況に喘いでいたとき、賃金カット、溶鉱炉の閉鎖、ライバルとの合併、を行うと同時に、よりコストと安い生産方法の研究に投資していたが、いまやJFEとなった新会社は、本年見込み、2.6ビリオンドルの準利潤をあげる世界の中でも最も高利潤の会社となった。今や川崎にある人工島の京浜Worksには200ミリオンドルの12階の高さを持つ溶鉱炉で、日産12,500トンの世界最大の生産性を持ち、新しい燃焼技術で黒鉄鉱石をオレンジの溶けた鋼鉄にする。またそれを急速に冷却し、より堅く、亀裂の入らないような、造船などの生産に用いるのに最適な鋼板を生産することができるようになった。不況の間にそうした新技術を形成することに全力を傾けたと、会社は述べている。こうして低賃金の韓国と中国の製鉄業に対抗して生き残りをはかれている、といいます。中国は、今や8%の市場となって、この会社にとっても、成長中 である、と報告しています。
ここ12年間で日本は、何処の先進産業国よりも、全経済中の比率でいってより多くの研究開発費を支出してきたとOrganaization for Economic Cooperation and Developmentの報告書は明らかにしているそうです。経済分析家達はこれを会社復興の第一要因としているそうです。東京株式上場会社の総利潤は、メリル・リンチによると270ビリオンドルになり、1980年代末の2倍となったとしています。
最もよく知られた破産からの復興の例の一つは日産で、ルノーは革新的デザインと技術で世界最高の利潤を挙げる会社の一つにしている。こうして日本は健全な成長に戻ったと、評する経済分析家がいますが、政府の膨大化する借金や、年金制度の破綻とそのために預貯金へと消費の基金が入ってしまうことなどを問題として重視する分析家もいる、と同時に一言紹介しています。OECDによると、4.5トリリオン(兆)規模経済の日本の成長率は今年は2.4%の成長率で、3.6%のアメリカに次ぎ、ヨーロッパ各国を凌駕し、ほぼ2倍することになろうといっているそうです。なるほどこうした経済指標からみると、日本の企業は立ち直ったと言うことのようで、嬉しいことです。なるほど、これらの指摘は私たちが日本の企業に抱いている信頼と自信と重なっていて、その限りで喜ばしいとことに違いないと、私も思います。
 要するに、此のレポートは、結論的に、日本経済は立ち直ったとしています。この指標からするとそう言うことになって、大変喜ばしいことなるのですが、しかし、私が「日本経済」は立ち直ったと言うことに若干の疑問を覚えざるを得ません。というよりもアメリカ経済も含めて、高い成長率と利潤高を指標に立ち直ったとすることが、企業だけではなく、家計や政府を含めた経済の実質から見て、どれほど妥当性があるのか、或いは社会生活指標のようなものを指標にして、国民経済を比較すると、一体、アメリカや日本とヨーロッパ諸国はどのような経済の健全さ、豊かさと言うことになるのか? 年金・健康保険、1人あたり教育費、環境保全、等、社会制度の費用、雇用量と給与の総量などをどんどん削って国民経済の生活の豊かさ部分を経済総体からカットしていくことによって、銀行や企業がその利潤量において世界トップの業績を誇る国になっているとしても、それは何処まで喜ばしいことになるのでしょうか?
私の知りたいことは、例えば、ここで例示されるように、NKKがJFEになって世界のトップ級にかえりさいたということは喜ばしいことには違いないが、しかし、もう50年前から、昔々、従業員だけで都市が成り立った巨大な広大な製鉄工場が、ストリップ・ミルが唸りを立てて真っ赤に焼けた鋼鉄板を吐き出している、殆ど無人の人気のない操車場のような風景になってしまったこと、工場の従業員といえば事務所の見学案内係の人たちしか目に付かなくなったことなどを想起すると、12階建てのビルのような溶鉱炉が立っていると言われても、一体それがどれだけの雇用を創出したのか、時間雇用者を含めて給与部分として1人あたりの給与がいくらになっているのか、もっと大事な何人の生活を支えることになったのか、それを指標にして経済の復活を論議する視点からも見てみたいと思うのです。つまり、国民生活の豊かさの視点から見ると、ますます雇用者のいない工場など、最終的には国民経済にどのように貢献できることになるのか、理解に苦しむのです。社会生活指標を高めるためには、上記の企業経済指標が高まることは必要であっても、例えば、雇用制度とか福祉制度や教育制度のような再分配の諸制度が社会的総再生産過程に挿入されていくと、結果として、経済指標としての総生産の利潤量というようなものは低下し、成長率も低下することは大いにあり得るだろうし、成長率と利潤量では測れない国民経済の豊かさの点での、豊かさが上になるかもしれないのではないでしょうか?一体、経済の豊かさとは何か、ということを忘れた議論を、貧しい人たちは警戒しなければならないのではないでしょうか? 企業が成長しなければ生活は豊かにならない、ということは確かでしょうが、企業が高利潤を挙げ、成長していくと必ず生活は豊かになるという命題が成り立つとは限らないということは、福祉社会を論ずるときの常識だったのではなかったのでしょうか? もう一度経済を破綻させることは出来ませんが、福祉を維持することは経済を破綻させる直接の原因だったのでしょうか?福祉についても補助金政治システム同様、「たかりの文化」を克服していく「改革」が必要だというような問題も大いにあるでしょう。そうした問題を含めて、 私にはそうした課題が、かつて無い重要さで残っているのではないかと言う疑問が残ります。経済の専門家諸氏におかれましては、アダム・スミスの昔からの経済学の目的だったはずの、諸国民の富(豊かさ)の仕組みの総体分析の視点を取り戻して、冷静に日本経済を分析して欲しいものだとおもいます。そして、そう言う視点からのデータと評価をして、私たちに提供していただけないものでしょうか? 経済の素人からの疑問です。