「日本経済はついに不況の悪夢から抜け出した!」というニュース

6日のHerald TribuneにJapan finally putting nightmare of recession behind it. と題されたMartin Facker の記事が掲載されています。大変嬉しいことです。 以下、この評価がどのような議論から出てくるのかを見てみましょう。
 これによれば、ここ2年で株価は2倍になり、東京の土地価格も1990年以来始めて上昇している、会社の利潤はかつて無いほど上昇している、ということです。 景気回復は東京では、触知出来るほど高層建設中の建物が増え、1990年代の惨めさからついに抜け出した、という評価が高まってきている。80年代末からはじめてみる広範な国内経済の復活である、と記者はいっています。
 新しいビジネスや成長を窒息させていた統制が少しずつ外されてきて、小泉内閣の銀行再生政策が銀行を回復させた。彼は銀行の80年代以来の焦げ付き債権を放棄させたが、それは2002年次で440ビリオンドルになる。それよりもっと大事なことは、終身雇用、論争排除主義のような企業文化の緩やかな革命を達成して、より競争的な文化に置き換えていったこと、更に新テクノロジーに大きな投資を行ってきたこと、だとしています。
その良い例はNKKだとして、1990年代不況に喘いでいたとき、賃金カット、溶鉱炉の閉鎖、ライバルとの合併、を行うと同時に、よりコストと安い生産方法の研究に投資していたが、いまやJFEとなった新会社は、本年見込み、2.6ビリオンドルの準利潤をあげる世界の中でも最も高利潤の会社となった。今や川崎にある人工島の京浜Worksには200ミリオンドルの12階の高さを持つ溶鉱炉で、日産12,500トンの世界最大の生産性を持ち、新しい燃焼技術で黒鉄鉱石をオレンジの溶けた鋼鉄にする。またそれを急速に冷却し、より堅く、亀裂の入らないような、造船などの生産に用いるのに最適な鋼板を生産することができるようになった。不況の間にそうした新技術を形成することに全力を傾けたと、会社は述べている。こうして低賃金の韓国と中国の製鉄業に対抗して生き残りをはかれている、といいます。中国は、今や8%の市場となって、この会社にとっても、成長中 である、と報告しています。
ここ12年間で日本は、何処の先進産業国よりも、全経済中の比率でいってより多くの研究開発費を支出してきたとOrganaization for Economic Cooperation and Developmentの報告書は明らかにしているそうです。経済分析家達はこれを会社復興の第一要因としているそうです。東京株式上場会社の総利潤は、メリル・リンチによると270ビリオンドルになり、1980年代末の2倍となったとしています。
最もよく知られた破産からの復興の例の一つは日産で、ルノーは革新的デザインと技術で世界最高の利潤を挙げる会社の一つにしている。こうして日本は健全な成長に戻ったと、評する経済分析家がいますが、政府の膨大化する借金や、年金制度の破綻とそのために預貯金へと消費の基金が入ってしまうことなどを問題として重視する分析家もいる、と同時に一言紹介しています。OECDによると、4.5トリリオン(兆)規模経済の日本の成長率は今年は2.4%の成長率で、3.6%のアメリカに次ぎ、ヨーロッパ各国を凌駕し、ほぼ2倍することになろうといっているそうです。なるほどこうした経済指標からみると、日本の企業は立ち直ったと言うことのようで、嬉しいことです。なるほど、これらの指摘は私たちが日本の企業に抱いている信頼と自信と重なっていて、その限りで喜ばしいとことに違いないと、私も思います。
 要するに、此のレポートは、結論的に、日本経済は立ち直ったとしています。この指標からするとそう言うことになって、大変喜ばしいことなるのですが、しかし、私が「日本経済」は立ち直ったと言うことに若干の疑問を覚えざるを得ません。というよりもアメリカ経済も含めて、高い成長率と利潤高を指標に立ち直ったとすることが、企業だけではなく、家計や政府を含めた経済の実質から見て、どれほど妥当性があるのか、或いは社会生活指標のようなものを指標にして、国民経済を比較すると、一体、アメリカや日本とヨーロッパ諸国はどのような経済の健全さ、豊かさと言うことになるのか? 年金・健康保険、1人あたり教育費、環境保全、等、社会制度の費用、雇用量と給与の総量などをどんどん削って国民経済の生活の豊かさ部分を経済総体からカットしていくことによって、銀行や企業がその利潤量において世界トップの業績を誇る国になっているとしても、それは何処まで喜ばしいことになるのでしょうか?
私の知りたいことは、例えば、ここで例示されるように、NKKがJFEになって世界のトップ級にかえりさいたということは喜ばしいことには違いないが、しかし、もう50年前から、昔々、従業員だけで都市が成り立った巨大な広大な製鉄工場が、ストリップ・ミルが唸りを立てて真っ赤に焼けた鋼鉄板を吐き出している、殆ど無人の人気のない操車場のような風景になってしまったこと、工場の従業員といえば事務所の見学案内係の人たちしか目に付かなくなったことなどを想起すると、12階建てのビルのような溶鉱炉が立っていると言われても、一体それがどれだけの雇用を創出したのか、時間雇用者を含めて給与部分として1人あたりの給与がいくらになっているのか、もっと大事な何人の生活を支えることになったのか、それを指標にして経済の復活を論議する視点からも見てみたいと思うのです。つまり、国民生活の豊かさの視点から見ると、ますます雇用者のいない工場など、最終的には国民経済にどのように貢献できることになるのか、理解に苦しむのです。社会生活指標を高めるためには、上記の企業経済指標が高まることは必要であっても、例えば、雇用制度とか福祉制度や教育制度のような再分配の諸制度が社会的総再生産過程に挿入されていくと、結果として、経済指標としての総生産の利潤量というようなものは低下し、成長率も低下することは大いにあり得るだろうし、成長率と利潤量では測れない国民経済の豊かさの点での、豊かさが上になるかもしれないのではないでしょうか?一体、経済の豊かさとは何か、ということを忘れた議論を、貧しい人たちは警戒しなければならないのではないでしょうか? 企業が成長しなければ生活は豊かにならない、ということは確かでしょうが、企業が高利潤を挙げ、成長していくと必ず生活は豊かになるという命題が成り立つとは限らないということは、福祉社会を論ずるときの常識だったのではなかったのでしょうか? もう一度経済を破綻させることは出来ませんが、福祉を維持することは経済を破綻させる直接の原因だったのでしょうか?福祉についても補助金政治システム同様、「たかりの文化」を克服していく「改革」が必要だというような問題も大いにあるでしょう。そうした問題を含めて、 私にはそうした課題が、かつて無い重要さで残っているのではないかと言う疑問が残ります。経済の専門家諸氏におかれましては、アダム・スミスの昔からの経済学の目的だったはずの、諸国民の富(豊かさ)の仕組みの総体分析の視点を取り戻して、冷静に日本経済を分析して欲しいものだとおもいます。そして、そう言う視点からのデータと評価をして、私たちに提供していただけないものでしょうか? 経済の素人からの疑問です。