フランコ死後30周年。フランコ主義の遺産。

lunes, 21 de noviembre de 2005
 ここ数日の新聞el Pais int.の1面記事で目に付くのはスペイン旧フランコ主義関連や、右翼関連のニュースで、21日にSpain右翼のSpanish Farangeのメンバー6000人ほどが、今年もFranco死後30年記念のミサをValle de los Caidosのバシリカカトリック典礼上、特権を与えられている聖堂、マドリッドに近い丘の上に巨大な十字架とこの記念建造物が建てられています。 後述するように、フランコ体制の「靖国神社」だといってもよいように思います。)で行い、ついで1000人ほどがマドリッドまでデモ行進をし、フランコが好んで大衆動員をかけたオリエント広場で集会をし、スペインファシストのリーダーが演説をした、ということでした。デモは、現政府に反対し、カタルーニャ自治州政府の権力拡張の提案に反対して行われました。
今年はフランコ死後30周年に関連して、テレビでもフランコ時代の記録映像が沢山見られましたが、見ていて、ドイツ、イタリア、日本のファシズム時代の記憶がまざまざとよみがえり、しばし忘れていた私の少年時代の様々な風景の記憶がよみがえったりしました。余りにもよく似た風景が写しだされ、スペインの人でも2度と見たくないひとも多くいたに違いない、と思います。日本ファシズムがどんな風景だったか想像できない若い方には、今の北朝鮮の政治・社会風景としてよく繰り返し映し出される軍支配と権威主義的統治の風景と瓜ふたつだったといえばよいかもしれないし、誰でも、あなた又は身の回りの誰かによって、うっかりするとすぐ「国賊」とされかねない「人と違った人」は、人から仲間はずれにされたり、大人ならば警官に逮捕され、拷問されたりされかねない恐怖におののかなければならなかったといったら、自分に即してその恐ろしさを想像できるのではないでしょうか。例えば、個人的な、日常化していた体験の一つを言えば、皇族の人が自分の住む地域の道路を車で通るからと言って、小学生全員が動員され、東京から延々と目的地まで道に土下座して長い時間待たされ、顔を上げて「活き神様」をみると目がつぶれると聞かされて、大人と共にじっと頭を下げているという「理解しがたいこと」を信ずることが出来ない子ども、秘かに盗み見して見ると、目もつぶれないし、大人達が感激している不思議な光景が目に入ってきただけ、というような子どもは、ですから、事情が分からない小学生低学年といえども「人と違った人」を自覚しないわけにいかず、常に無口、常にひっそりと独りで呼吸して生活していたことを思い出します。
 私はこの国にお世話になっている外国人として、このスペインの人々のフランコイズム、ないしはスペインファシズムの近現代における体験とその遺産については、触れてはならないことのように思って、あえてそこの所についての感想を書きませんでしたが、死後30周年の回顧がこのところ目立ちますので、それに関する報道を読んでみる良い機会と思います。本当のところ、日本ファシズムの歴史を多少とも生きた私のような年齢のものが未だ日本では現に生きて、若い人にはなかなか見えない大きな力を持ってきたのですから、その遺産が歴史の中でどんな風に維持されたり変化していったりして、近現代化の国民的特性を作っていくのか、大いに関心のあるところです。
 ここのところのテレビ、新聞などで、フランコを回想するものをみるが、弁護したり批判したりする発言や映像のいずれも苦渋に満ちた感じであるところをみると、フランコは今も大きな影響を与え続けているのだと感じないわけには行きません。フランコの影響がどのような形で人々に意識されているのか、El Paisという新聞を見る限りにおいて、読むままの紹介の形で見てみたい、と思います。何処の国においても多かれ少なかれ言えることかもしれませんが、とりわけスペインは2つの国民からなっている、という感じは外国人の私にも否めないことですが、それは新聞にも言えることで、El Mundo紙とEl Pais紙の間の事々に際だった意見の差異、PPとPSOEの2大政党の間の意見の差異の溝の深さと広さに端的に現れている、ともいえましょう。従って、私が紹介している新聞は、スペインの半分の人たち、現政権への支持・共感を比較的示している人たちの目を通したものに近いという「偏り」があることをご承知おき願います。アメリカの現政権とそれに直結しているような国の政府筋が収集し共感を示しているスペインのニュースは、El Mundoですから、ヨーロッパ共同体の公式見解に忠実な現政権に共感を示すことが多いように見受けるEl Paisのニュースは、ヨーロッパよりの立場からのニュースだといえるかもしれません。
アメリカや日本の新聞でもel Pais紙を情報ソースとしていると思われるのは、ニューヨーク・タイムスや朝日新聞です。ニュースというのは与えられたものでしかないということ、受け取り、解釈してみることの余り容易でないものだと言うことは、お互い皆了解していることですし、「私にとって」比較的「分かり易い」ニュースを私たちは選択しているにすぎません。
 さて、以下、El Paisの最近のニュースによってみてみましょう。
現在、3人に1人は,1975年10月20日のヨーロッパ・プレスのラジオ放送、「フランコは死んだ」を聞いて、スペインの暗黒の40年がついに終わったと思った時に、生まれていなかった年代の人となっているそうです。しかし、色々な形で、多くの人の中に、街の風景の中に、フランコの記憶は到るところに残っている、といわれています。彼をあからさまに賛美する人は極少数派となりましたが、冒頭紹介した行事は毎年行われており、最近でも、数千人が参加しているそうです。また、CIS国民社会学センターによって5年前に行われた世論調査では, スペイン人の10%が、フランコ時代は国にとって肯定的な時代であったと答え、46%が「良いことも悪いこともあった」と答えていました。今月のSERラジオの世論調査では13.3%が肯定的な時代と答え、63.7%が否定的な時代と答えているそうです。同じ世論調査で、半分以上の人が今日のスペイン社会にフランコ主義の痕跡が現存していると答え、 25%がフランコに反対して死んでいった人たちのことを再認知すべきではないと答えている、としています。マドリッド・コンプルテンセ大学社会学教授ホアキンアランゴは「態度は軟化したとはいえ、二つのスペインは全く消滅しているわけではない。他のヨーロッパ諸国の何処よりも、政党間ラインは明確で、この影響は社会のあらゆる局面に影響を与えている。」と言っています。
フランコ時代についての歴史の改竄も行われていて、最も顕著な例としては、前GRAPOテロリスト運動のメンバーであったPio Moaの書いた「市民戦争の神話」がそれで、この本は、ここ50年間ほど正統派歴史学といわれてきたポール・プレストン、ガブリエル・ジャクソンなどの英米歴史家による現代史を、何のさしたる根拠も示さずに打破することを目指したものである、と批評されています。しかし、前大統領アスナール氏も評価するこの本は、20万部ほど売れていて、注目の書物となっているとのことです。 また、フランコ時代のフランコ体制派の新鋭気鋭の政治家だったManuel Fragaは、PP国民党を創設し、ガリシア自治州の首長をつい先日まで勤め続けた人物ですが、「フランコの最終的評価は肯定的なものだ。フランコ主義から民主主義は生まれたのだ、」と主張しています。一体何を論拠にしてこうした主張が出来るのでしょうか? よく分かりませんが、もしかしたら現在のスペイン政治家の内の人気ナンバーワン、フアン・カルロス現国王に関連して、こうした強弁をしているのかもしれません。或いは、フランコ死後、再び内戦になる可能性もないわけではなかったでしょうが、その危機を回避して両派が、反フランコ体制的「州」自治体の自治権を大幅に認めていく方向性を示した新たな憲法を合意の上で作り、「議会制民主主義」へと、「移行」することになった時期に、フランコ体制派を「移行」へと導いていった若きリーダーだったフラガ氏の自負の表現なのかもしれません。「移行」という語彙は、特殊な、両派の妥協的合意、玉虫色と日本語なら言うかもしれないニュアンスに富んだ言語であると思います。
 フランコの市民戦争中「ナショナリスト」地域で殺された10万人の人たち、特に1936年夏に殺された人たち、更に、市民戦争後に殺された5万人ほどの人たちについて、これらの歴史改竄者はどう言うのか、と此の記者は述べています。2000年以後、しかし、政府に認知されていない、1ユーロも補償されていない、これらの殺された人たちについての掘り起こしが、「歴史の記憶を再発見する協会」によって行われはじめているし、犠牲者達の訴えも起こされている、と報道されています。

同じく、「大いなる遺産」「フランコの遺したもの」という論説記事がのっていました。
前者は社説ですが、1975年にフランコが死んだとき、誰が僅か30年後の現在、今日ほど民主主義が安定した姿で存在すると予測できただろう、と述べています。私達日本についてみれば、1945の終戦から30年後のこのフランコが死んだ年、30年前の1975年を振り返ったとき、今日のこの社説と同じような感想を持ったことでしたでしょう。今日のスペインは30年前の日本と同じだということを言いたいわけでは決してありませんが、政治の局面から言えば、30年というのは、その国民の内部から自発的な政治構造の変動を生んでいく過程としては、決して大きな変化を生むほどの長い期間ではないように思えます。おそらく、漸く何らかの逆行不能な部分的変動が既に存在しているという時点だろうと推測いたします。思えば、ニホン社会も戦後30年の1975年時点で考えてみると、良く生まれ変われたと思います。敗戦し、惨めな生活がこれ以上続かないこととなって、占領軍を目にしたとき、日本人はすぐそれまでの日本の政治・社会体制が偽りに満ちていたことをしりました。そして、お隣の韓民族の戦後とは異なり、占領軍によって幸運なことに我々が自力では到底出来ない「戦後改革」が「上から押しつけられ、」日本軍国主義の社会構造はその基盤を壊滅させられることになりました。少なくも庶民にとっての「改革」のメリットは極めて明らかで、戦前の社会構造の維持を図りたい旧勢力が、「押しつけ憲法、押しつけ改革」を拒否しようと懸命な努力を一貫して続けてきたにもかかわらず、日本人は民主主義を目指すことに極めて高い合意を形成し、この戦後30年間の高度成長と民主化の路線を進んでいったのだと言えるように思います。スペインはこの第2次世界戦争終結の時点で、それ以前ナチと全く同質のファシズム国家であり、その同盟国といって良かったのですが、第2次世界大戦には参加しなかったため、欧米によって占領されたり、管理されたりせず、そのままの体制を継続することになりました。つまり、フランコ体制は維持され、欧米ではない国として、戦後復興の援助などから外され、ファッショの国として国際的に対抗的な扱いを長く受けることになりました。戦後世界経済の急速な復興と高度成長の時期にも、世界から孤立したまま、ピレネーの向こう、アフリカ・アラブに近い非ヨーロッパとしての扱いを受けてきたとスペインの民衆は、この時期の体験からかなり反米的感情を醸成していったと思われます。スペインに対する冷たいアメリカの態度が変化したのは、2大体制の冷戦が激化してスペインへの米軍基地の提供を要求され、それとの引き替えに西側の体制の陣営の中にはいることが許されたのだ、という人は、かなりにのぼるのではないかと思います。現在も合衆国軍事基地はそのままのようです。、ご承知のように、スペイン人の言う「戦後」とは、1945年以後ではありません。戦後とは、市民戦争後のことであるといってもよいのでしょうが、その意味での「戦後」は実質的には1975年フランコの死と、「民主主義への移行」に至る時期のことのようです。この時期から後の「移行期」に向かった時期の途中、1981年のフランコ勢力の一部の軍人のクー・デタと、国王フアン・カルロスの、移行へ向かった鍵となる行動という事件がありましたが、民主主義への「移行」が高い国民的合意のもとで行われることとなり、ポルトガルのような、或いはユーゴスラビアのような不幸を招くことがなかったことを、国民は非常に喜んでいるように思われます。こうした「移行」が何故「静かに」行われ得たのか、非常に興味あるところです。
フランコ独裁統治時代の40年間に亘って、スペイン国民の多くの人々が、今日、テロと呼ばれる戦闘を含めて、いわば継続する内戦により殺されました。先週の公的機関の世論調査では、国民の75%がこの両方の殺戮の犠牲者を含めて、犠牲者は国家補償を受けるべきだと答えていました。エル・パイス紙の世論調査では、5年前には、11%の人が、どっちの体制でもかまわない、フランコ体制でも良いとし、7%がジェンダー間平等の進歩を否定的に捉えていました。また、スペイン国民右派の間でのフランコの国への影響に対する意見の分裂が見られ、PP国民党への投票者の内、「フランコ独裁体制は悪いことだった」と答えた人は、10年前は7%だったが、今年は34%に増えたと伝えています。この数字は、我々日本人の戦後の態度変容と比較すると、非常により「保守的」で、更により{ファシズム的}といえるのかどうか、判断に困りますが、いずれにしても2大政党の一つであるPP,国民党の支持者の保守意識の中味が分かって興味深いものがあります。
いずれにしても国民は、1980年代までは殆ど満場一致国会によって政治は運営されたが、 90年代に入って、2大政党間で、外交、テロ、州政治などのイシュについて討論が行われる形で民主主義政治も実体を取るようになった、といっています。1982, 1996, 2004年と選挙があり、歴代内閣が替わってきたが、その間、世代も若くなり、アスナールになってはフランコの時期の罪意識をもはや持たなくなってきたし、サパテロになって、国民を2分している問題を、支持を失うことをおそれずに処理しようとするようになってきた、と変化も同時に進行していることを述べています。この社説は、フランコ時代の遺産の大きさを率直に指摘しながら、民主主義の方向により深く変化すべきだという立場からのこの遺産の指摘であったと思います。

もう一つの論説「フランコの遺産」は、サラゴサ大學の近代史教授フリアン・カサノヴァの寄稿したものですが、その内容はスペインの現在の国民の深層にまで深く切れ込んだ裂け目を描いたものとして、外国人の私には、少しばかり長く滞在しただけでは決して容易には気づけないフランコの遺産の話でした。フランコ死後30年、街路表示、モニュメント等の建築物、儀式、文化的なシンボル、犠牲者達、現に生きて活躍しているフランコ主義政治家や神父達が、今なおフランコ時代の遺産として現代人を取り囲んでいると述べ、建築物などの物理的なシンボルを中心に「遺産」を記述していました。
フランコ時代のこうした物理的・文化的遺産はどれも市民戦争の勝利と結びつけられていて、そうした記念物づくりは市民戦争終結前、その2年前のホセ・アントニオ・プリマ・デ・リヴェラが殺されたことを悼む1938年11月の「国民慰霊祭日」の法令から始まったとのべています。これと同時にカトリック教会は、「それぞれの教区教会の壁に現在の十字軍とマルクス主義革命軍の犠牲となった犠牲者、戦死者の名前の銘刻」をすることに合意した、ということです。これが「その命を神と国民のために捧げた者」という銘刻を刻むスペインの伝統の始まりだと言うことで、今でもスペイン中でみられるそうです。法令によるものではなくても、これらの銘刻の殆ど全ては、政治的宗教的理由で殺された殉教者であることをしめすために、名前の最後にホセ・アントニオをつけているのだそうです。サラマンカの司祭アニセト・カストロ・アルバランが書いたように、フランコ軍の市民戦争での戦死者は「ロシアの野蛮人との闘いのために死んだ犠牲者」であり、司祭でなくても皆宗教的な殉教者だ、「最も優れたカトリック、最も信心深い人たち、最も使徒的な右翼、教会への敵視と宗教への憎しみの殉教者」だ、と位置づけられた、ということです。戦争で死んだ「英霊」という言葉は、日本人が「天皇陛下万歳!」と言って死んだ人たちに宗教的に付与された称号でしょうが、スペインでもフランコ体制側として死んでいった戦死者は、神と国民の名を唱えて死んだ者とされ、カトリック殉教者として各教区の教会に祀られているという話です。この話はスペインのカトリックの話ではありますが、国家神道を国家宗教としていた日本が、靖国神社に戦死者の霊魂を「国のため、天皇(活き神様の)のため」に死んだ英霊(殉教者)と位置づけて祀っている様式と似ていると私は思います。これは戦争を戦った国家のする常套手段には違いありませんが、この「殉教者の敵」への憎しみは、宗教信念として歴史を超えて何時までも変わらず続くものとされることになるでしょう。この場合の敵、「ロシアの野蛮人」とよばれる、殉教の対象は言うまでもなくバルセロナカタルーニャ市民であり、バスクの市民であります。この戦争で殺した敵については、言うまでもなくその名前を抹消して記憶から消してしまいます。そこには侵略者が犯した戦争犯罪を問い直す意識はもちろんのこと、殺した相手もまた、相手からすればより一層の愛国者であり、殉教者であることに思いをはせることもないでしょう。侵略された側が外国人であれば、一顧だにしなくても心は痛まない人が多数を占めることになるかもしれませんが、 それが国内戦、市民戦争ともなれば、そんなことではすまないでしょう。フランコ側の戦死者の家族は、殉教者として国家補償の年金を受け取ることは出来ても、戦後30年たっても、バスクカタルーニャの戦争による被害者は名前を抹消され、死の原因の記録も保存されることなく、幾つかの公民権上、宗教上、政治上の敵であり続けています。憲法上平等なスペイン国民となった現在、「ナショナリスト」は、独立や合衆国になることを要求していますが、おそらく此の要求の深層には、この愛国者祭祀の、殉教者であることの再定義を最初の大きな仕事として行いたい、というような動機が隠されていることでしょう。
市民戦争が終了した後でも、国中到るところの街路の名前や記念碑の建造、学校や病院などの名前に、誰が勝者で誰が敗者であるかを明記するかの如く、ファシストのリーダーシップと宗教的リーダーの名前が付けられましたし、今でもそのままになっておおく残っているそうです。例えば、フランコ、ジャゲ、ミラン、アストレ、サンフリオ、モラ、ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ、オネシモ・レドンドなどだそうです。例えば、最後のオネシモはこの時期の政治的リーダーとして地位を築き始めたのでしたが、市民戦争の初期に死亡し、今日、その生地であるキンタニージャ・デ・アバホにあるキンタニージャ・デ・オネシモ村に名前をとどめています。いろいろな地域で、特にムルシア県は独裁者を思い起こさせるもので一杯です。 このスペイン東南の地域は、1939〜1951のフランコ時代の教育大臣ホセ・イバネス・マルティンがその政治家のキャリアを始めたところで、そこの幾つかの学校は彼の名前を付けています。文部大臣の名前を付けることは良くあるのだそうですが、しかし、このケースの場合は特殊で、彼は文部大臣としてこの地域の学校を戦利品として扱い、「敵国」の教員を多数教員のポストから追い出し、生徒もカトリック信者の家族、フランコ主義の運動のメンバーの家族と、前戦闘員の家族とを区別して分けると言うことをやったのでした。
しかし、市民戦争の勝利を祝うものとしての記念物の何と言っても極め付きは、1959年にマドリッド近郊につくられたValle de los Caidos「戦死者の谷」と名付けられている記念建造物でしょう。この建築工事は20年間「赤の捕虜と政治的囚人」を使って行われたといわれ、「英雄と十字軍の殉教者」の死を時間と記憶力に挑戦して讃えるための壮大な記念碑としたものです。先に冒頭で紹介したように、毎年、フランコ主義者達がここでミサをおこない、後、フランコが大群衆を集めて演説していたフランコゆかりのマドリッドのオリエント広場まで行進するというところです。この中には、先に述べたように「赤であり無信仰である」戦争中の戦死者たち、殺された人たちは記録されていません。まさにこれはスペインの靖国神社に他ならないのではと思われる方も多いのではないでしょうか? 「敵」の死者は道路にうち捨てられ、記録もされず、或いは無名の墓や公共墓地の壁の中に葬られたのであって、ある種の神父が取ったこうした措置については、いまなお責任を問われなければならない、という議論があるようです。こうして、市民戦争とその後の勝利者の軍政・独裁制と「敗戦国民」の間の亀裂は深く広く断裂を続けながら、自治州の国家への不統合が顕著であり続けている、ということになります。ある意味では、国内「戦後」はまだ続いているということです。しかし、それにもかかわらず、フランコの死後、一見すると、フランコ主義的独裁政治から、フランコ主義への大きな武力闘争も殆ど起こらずに議会制民主主義へ移行したかに見えるのは、こうした記事を読んでみると、一層不可思議なことのように思えます。1976年ともなれば、フランコ体制を引き継いだ人を含めて、ヨーロッパや世界の孤児を続けることの無意味さ、何らかの民主主義体制へと変貌しなければならないことは、フランコが死んでみれば、誰にも余りにも明らかだったことでしょう。
これを寄稿した著者は、その時代について、ある人は復活させたがるし、ある人は忘れたがっている。ある人はその独裁者と内戦の歴史の回顧にウンザリしているが、トラウマを遺した時代を生き残った人々に取って、過去は容易に文化的、政治的闘い、公開討論・審判の場の現在となり続けてきたと述べています。30年後の現在、それは思い出すのも不快な記憶でしかなくなりつつあるが、しかし、その社会的記憶というのは、歴史家が構成したものと衝突するような話にしばしば変容していく可能性があるものです。したがって、将来の世代に遺されていくものが何で、将来の世代の歴史家はフランコの遺産をどのように解釈していくことになるだろうかと、この歴史家は不安を述べています。そうしたことのためにもフランコ独裁制ミュージアムアーカイブを、「フランシスコ・フランコ ナショナル ファウンデーション」の内容を含めて、保持していくことは我々の責任だ、と述べ、フランコ主義の影響から次世代を守るべきだとするならば、次世代に、民主主義の価値観を浸透させなければならない、と述べています。
40年間フランコは権力を握っていたのであり、死後、未だ30年間でしかないのであって、我々はその遺産の多くをまだ担っているのだと言って、この論文を終わっています。
 終わりに、一言付け加えておきますが、毎週の連続ものの大変人気のあるテレビドラマがあります。私がスペイン語の力のないことを嘆いているものの一つです。番組の名は、Cuentame como pasó 「前はどうだったか話して!」というものです。まさにフランコの時はどうだったかをニュースの映像などもふんだんに使ってホームドラマとしているもので、、多くの人が見て、「アレは本当だった」「イヤもっとこうだった」と中高年の人が口角泡を飛ばして、話が尽きない風景をよく目にします。普段聞けないような発言、「家のお父さんは社会主義者だったガーーー」とか、「あんたはアナーキストだからーーー」とか言うようなことがポン・ポン飛び出してきたりして、日常的にはこの街には、保守派の人しかいないのかもしれないと思っていた私を驚かせたりしています。日本も、こうしたドラマを庶民の家族生活や、近隣のドラマとして、大事な記録映画の映像と共にやってくれば、私たちの歴史感覚もまた大いに違ったものになったかもしれません。NHKさん、どうですか? 今からでも遅くないでしょう。沢山残っているはずの映像を、ドラマ仕立てで、この際、編集公開なさる企画をお立てになりませんか? 因みに、この番組は、フランコ時代を逐年を追って長々とつづいて描いているものです。