労働市場と教育制度の制度関連としての「学歴社会」の現在

先日、10月30日に私がここで書いた記事に、反応してくださった方のページを読ませていただきました。インターネット音痴で「トラックバック」とやらいうことにどう反応すべきかよく分からないので、その方々に対するお礼の意味を込めて、今日の「ダイアリ」を書かせてもらいます。
私は定年後、スペインで年金で暮らしている男です。年金と僅かな預金だけで、何とか今のところ生活できますのは、日本の社会とスペインの社会のおかげだと感謝しています。7・8年ぐらい前、ある大學で数年教員をやっていた時、学生さんに「たとえ一時雇用で、あちこち職場を変えることになっても、キャリアを自分で作り、熟練を自分で形成するように職業を余り変えないようにしたら、」と苦しい個人的忠告をしたりしましたが、ばかにするな!と随分学生さんに恨まれたようでした。当然ですよね。しかし、日本型終身雇用の制度がなくなり、職業能力の形成とキャリア形成の制度が一般大多数の人にとってはなくなったのですから、それに代わる制度を作らない限り、自分でキャリアを形成することを、さしあたり自己防衛的に考えないわけに行かないでしょう。学校の制度を通して求人するという日本独特の労働市場制度はそのままの外観を保っているようですから、しかも、「格の低い」とされる多くの大學で、殆ど定職の求人がないことを知っていて、学校がいくら看板を職業に対応した教育をするかのように書き換えても、実態は前と変われるものではないことは、実は明らかなことですから、教員としても非常に苦しい立場に立たされることになるわけでした。日本の学歴社会は、学歴が重視されると言っても、企業によって大學の格が重視されると言うことで、医師、弁護士、教員というような公的な検定試験や、一律の採用試験を行う特定の職業を例外として、学歴資格は職業と対応するものとして社会的に意味をなすようには出来ていません。それは大學・高校の教育の仕方の問題というよりは、労働市場制度の問題であり、職業に対応した○○学士を求むとか、○○課程の単位取得と成績○○点以上をもとむ、というような意味での、「職業教育」をしていないのです。そのような職業資格を意味する学歴を与える制度とは、例えば、A大學からz大學までの同じ課程を出た学生の成績が、同じ基準による評価で行われていなければなりません。公的な一定の共通試験をしないとすれば、試験そのものの検査が行われなければなりません。国家による上からの検査と言うことになると問題は大変深刻な事態を起こしかねない懼れがありますから、イギリスなどで実際に行われているようですが、各学校の試験の検査をどう自主的に行うかという問題は大変難しい物があります。試験制度だけではなく、それ以前に、各大学の教育そのものが、一定の基準の資格を与える教育として基準をクリアーしているかどうか、毎年検査なければなりません。教育の自主監査制度を、日本も導入しようとしたようですが、日本的労働市場の元で、それが何を目指した物かは、積極的な意味不明なところがあり、有効な制度としては実現しなかったようです。いろいろな国には、違った型の労働市場と教育制度の連関の制度的構造があり、そのもとで、諸個人は、高学歴・良い職業・良い生活を追求しているわけでしょう。産業社会はどこでも「学歴社会」だといって良いでしょうが、その異なった2制度の連関の制度にはいろいろな差異があり、特徴もあることは、前回のスペインのそれを見ても、ある程度分かる気がしています。
 日本の従来の制度の前提のもとで、学校や大學での「職業教育」についての「常識的」理解は、極めて実用的な、ある会社における実務的なキャリアとか、手先の熟練とか言うことのように理解され、企業外の各種学校を出ても、殆ど定職に対応する教育として相手にされなかったのだと思いますし、そもそも学校教育や大學教育は、日本的な意味での職業教育をする場ではないと考えられていて、戦後は特に、「一般教育としての教養」と「ある専門的学問分野の入門」を身につける場所とされてきたのが実態だったといって良いでしょう。こうした労働市場と教育の制度の機能的関連の日本に於ける関連、「日本的学歴社会」という制度連関は、現在実態として解体していますので、これに代わる職業と教育の制度的連関を新たに構想しなければならないはずです。こうした構想は、全体社会のシステムの問題ですから、個人のミクロな視点からの努力の問題ではないでしょう。そうすると、英米型の自由主義労働市場になったのだから、それに対応したアメリカやイギリス型の大學制度と労働市場制度にすればよいのか、というと、日本人お得意の外国モデルを持ってきて日本的に換骨奪胎するという手は、しかし、グローバリゼーションの現代的環境のもとでは、事態をもっと深刻にしかねないようにも思えます。本当に、今までの枠組みでは考えつかないような発想をしてみなければならないように思うのですが、マクロな制度変革構想を生み出せる世論とそれを公共的な意志決定に結実する政治システムは、今のところ全体として枯渇していて、期待できそうもない気もします。そこで、さしあたっての自己防衛的な個人的な行動としては、「格の高い」大学に行くと同時に、今の労働市場において、高度の職業資格と見なされるような特殊な学校で「資格」を取ろうとするような学生さんが、いわゆる「勝ち組み」にはいるための行動として、最近は広く見られるようになった、ということのようですね。会話学校に行ったり、経営学校に行ったり、法律の大学院に行ったり、いずれにしても挫けてはお終いで、マクロにも、ミクロにも頑張ってみる以外ないですよね。そうした涙ぐましい結果として、例えば、現在の高学歴人材達が、新聞に見られるような、或いは多くの若い方々のホームページに見られるような生活と、社会の全体像の一部を作っているのですね。もっと沢山の、従来の「中の中」以下の庶民層の暮らしの個別的実例も、沢山掘り起こして、「とりあえず、みんなで知って、考えていくことが大事だ」、というお考えには全く賛成です。関連する諸制度で働く人たちが、少し全体像について考えてみながら、みんなで現実像を正確に描いてみたいものです。私も、今のところそうしたこと以外思いつかないのが正直なところです。