スペインでの「教育改革」反対大デモと「スペイン学歴社会」

短い秋の空、1週間後の今日は大雪

11月12日土曜日にマドリッドで行われた「教育改革法案」に反対するデモは、ザパテロ内閣になって最大のデモであり、政府筋の計算でも40万人、主催者の一つであるCONCAPAカトリック父兄国民連合の見積もりでは200万人の参加と発表されている大きなものでした。こんな大勢の人が参加したデモがあるとは、ただごとではありません。しかも、それは政府の「教育改革案」をめぐる反対の大デモです。スペイン社会の現状認識には、大変重要な「事件」であるに違いない、という見当で、このことに関するニュースを読んでみました。
 ついでに触れておけば、スペインでは、国民各層がその緊急問題を国民や政府にアッピールしようとして、最近でも幾つかのデモが行われています。それはあたかも、テレビ時代を意識した社会運動のスタイルであるかのようです。例えば、水飢饉や石油の価格上昇に伴う農・漁民のデモなどは、公共道路を閉鎖したり、野菜や魚をまき散らしたりした「実力行使」を含んでいました。また石炭産業の閉鎖計画に対する反対デモなどは、伝統的なミリタントの労働者のストライキの風景に酷似していていました。しかし、1960年代初頭に到る日本の石炭産業閉鎖に伴う警官と労働者デモとの流血対決と、組合側の決定的敗北に終わるというような風景は、勿論、今日のスペインでもあり得ない風景で、社会党政府はこうしたデモをしてくる関係者と話し合いに応ずるという形で、デモは終結しているようです。それは英語で言えば、組織された利害紛争当事者と何が公共利益か」を代表する政府の3者間で社会的合意を建設的に形成し、3者がその組織成員に対する統制を含めてその合意の履行を責任をもって行う、というトライパータイト方式というルールが合意された上での交渉方式であるかのような印象を受けています。そうしたルールが社会的に成立するのは、第3者である政府に対する各層の信頼がなければならないし、各組織がその契約の責任をとれる行為者としての組織力をもたなければなりません。そうした方式を主張しているのが、現代の「社会民主主義」政党だということもいえるのかもしれません。 その国で食物として飼育していない動物について「野蛮行為に反対する」デモのような、極少数派のデモは、デモのようなアッピールの仕方も特異な物となって、毛皮を剥がれた動物を模したのでしょうか、道路上で女性が身体に赤い色を塗ってヌードになるなどもありました。そうした最近の各層のデモと比べて、風景としてもこのデモは非常に際だった特徴を持っているように見えました。即ち、全国動員の主役PPの政治家と比較的目立たないように控えたとありますが、全国に動員をかけたカトリック教会の神父さんを先頭集団に交えて、デモ参加者は農漁民、鉱山労働者達のデモ参加者とは明らかに異なった社会層、上・中産階層の人たちの大衆行動であったことでした。
 教育問題は、国民にとって、生活の中心問題である就職問題との関連で、国民の最大の関心問題の一つであり、移民問題と共に、実生活の未来との関連づけでここのところとりわけ論争の中軸に来る論争点となっているものだろうと思います。日本でも、論理的に言って、このissuesは、そのような位置、社会的なディスコースの文脈を占めている筈だと思います。それは前回に書いた「中流社会の変容」でも書いたとおりです。しかし、いうまでもなく、日本とスペインの国民社会文化の相違は顕著で、主要なイデオロギー・政治文化の対抗のあり方は、非常に両国の政治システムの差異を顕著に示しています。
 ここスペインでは、初等・中等教育レベルから、恵まれた階層の人ほど私立の、カトリック系の学校に行くことを選択するといって良いでしょう。勿論、高等教育レベルでも、「伝統的に」カトリック系私立大学が、優れた高等教育を行う大學であり、その卒業生は社会のエリート層に入ることが出来ると信じられてきました。このような認識は今なお、中産階級・上層階層の人々の中に多く見ることが出来ます。この人々にとっては、よりよい家庭に生まれた人々は、優れたカトリック信者としての生活態度を自ずと身につけて、高等教育を学び、上層階層的職業につくことは、ごく「自然な」ことであって、そこで「教養」として教えられている文化は、また、その社会の上品な趣味の、道徳的な、リーダーが身につけるべき「真実の認識」であり、要するに「教養」文化に他ならない、と確信してきました。そして、スペインの国民的特徴は、あるべき教育システムをスペイン・カトリシズムとカトリック教会と結びつけて、殆ど同じ物として今なお多くの人々が見なしている点でしょう。多くの人々は、良い職業について、良い階層の生活を送るにはどうすればよいか、という「階層アスピレーション」を、カトリック教会の経営する私立学校に入学し、高等教育まで此の教育システムを上昇していくことの先に、この階層生活が待っていると確信し、その道を追求して行く機会が広く開けていると夢見てきたのだといって良いでしょう。こうした社会はやはり「スペイン的学歴社会」と言って良いだろうと思いますが、前回に紹介した1000ユーロ所得階層の問題は、こうしたスペイン学歴社会の変容問題だといってよいのではないでしょうか。正統な高学歴を進んできても、そうした中・上層の生活が達成出来ない、ということの責任をどこに追求すべきでしょうか? 
このような教育制度で身につけるべき「教養」を社会構造上の一定の社会的地位への人材配分制度という視点から、「文化資本」の所有という言語を用いて概念化して認識されることがありますことはみなさんもよくご承知のことと思います。こうした認識枠組みからすると、「高い階層の文化」を家庭内で育って自然に身につける恵まれた人たちは、学校教育では、その社会の学ぶべき「文化」として「高い文化」が教えられますから、この基準から高い社会的人材評価を受け、従って、この制度上での高い職業的位置に着くことが出来る、という次元が認識されることになります。ところで、多くの人口部分にとって、問題は、このカトリック教会経営の私立、或いはカトリック宗教教育を行う学校にはいることは大変困難である人も多くいるということでしょう。それは、「文化資本」の相続、ないし「教養」の学習を家庭内躾を通して容易に身につける経験を多くの人口部分は持てない、ということが一つの問題です。また、通常、かつて福沢諭吉が慶応大学を旧帝国大学並みのエリート大學にするために、非常に高い入学金や授業料を取る選抜方法をとったといわれているように、事実上経済的に余裕のある上層・中産階級層から選抜する制度がバリアとして働いていると言うこともあったでしょう。ですから、国民の多くの人口部分を育てる教育システムとして、国民普通教育制度というようなものが近代社会において発達してきたことは周知の通りです。そうしてこの2重の教育システムが階層構造上の地位に対する階層的人材配分の制度として機能してきたことも周知の通りです。
 ところで、このデモが反対する現在の政府の「教育制度改革案」とはどのようなもので、そのどの点に対して反対をしているのでしょうか?それは社会主義政党と名乗る現政権が、カトリック宗教教育を正規のカリキュラム科目として、成績評価することから外そうと言うことに対する批判です。つまり、国民全員の人材評価や職業資格に関わる評価として、このカトリック宗教の科目を正規科目から外し、誰でも「選択的に受けることが出来る科目」にしようと言うことに対する批判です。想像されるように、この批判を最も棘を持った言辞で批判しているのは、スペイン・カトリック教会の枢機卿や教会の公的機構の人、「熱心な信者」達です。この人達は、この「改革」が成績評価する正規科目から外すことによって、初等・中等教育から宗教教育の歴史的・社会的・道徳的意義を損なおうとしているのだ、と批判し、また、「改革」は、財政的な国家補助をもらって教会が学校行政を運営しているカトリック系私立学校から減額していくことにより父兄の負担を多くし、子どもに宗教教育の機会を与える親の能力を制御しようとしているのであり、またそうした学校を閉鎖に追い込もうとしている、と批判しています。こうしたカトリック教会の運営する学校は、全学校の26%もある、といわれています。
「教育改革」の裏にある現政府のイデオロギー的立場は、「ヨーロッパ憲法批准の国民投票の時にキャンペーンをした時の立場、即ち「基本的人権」路線とでも言うべき立場であろうと思いますが、日本国憲法やヨーロッパ社会思想史に成立した経過に見るような、「思想・信条の自由」を公民道徳の不可欠な項目にする立場であり、思想・信条の自由とは、国家が特定の宗教を国家制度の中で「正統な宗教として、個人や集団に強制してはならないこと、その他の思想・信条を異端として廃除してはならないこと」の社会的合意を意味していますが、その立場からの「改革」であり、政治的イデオロギーの闘争であると見て良いでしょう。このように、スペインの現時点での{保守−革新}の政治文化的対抗軸の1次元はカトリシズム対「人権」路線にあることは明らかです。もう一つの対抗する政治文化の軸は、保守−革新というような言い方では不適切で、異なったナショナリズム間の対抗であり、現政権党のように、それらのナショナリズムとも異なる国際共同体ないし国際社会主義の立場が3つどもえで対抗しているように思います。それは、異なった民族や国民間の多元的な緩やかな連帯と協同の関係を作り、しかし、平和と個人の人権を国際法規として制度化しながら、各国家が明確な責任をとれるような国際的合意事項を積み重ねて、ヨーロッパ共同体を形成し、更に国際社会に到ることを視野に入れたイデオロギーだといってよいでしょう。これに対して、PP(国民党)の取る立場は、国家による「異なったナショナリズム」の、ただ一つの国民への統合と統制を基本とする国民統合の立場、唯一のスペインの国民統合以外はあり得ない、という立場だと思います。言い換えれば、異なった民族の多次元主義的共存や統合などあり得ない、という立場を取ってきた、といっても良いのではないでしょうか。レコンキスタを国民的アイデンティティの中核に持ってきたスペイン人の伝統的なナショナリズムのあり方を此の政党は最も正統に受け継いでいるといえるかもしれません。
これらと異なる、ここでいう「ナショナリスト達」のナショナリズムとは、現行スペイン国家は、異なった民族=本来異なった国民ナシオンから構成されている国家であり、異なったナシオンはもっと自治権をそれぞれ持って政治経済・文化的な自立ないし独立を達成すべきだというイデオロギーを意味しています。これらのナショナリストの目から見ると、PPの立場は、マドリッドを首都とするリージョンのナショナリズムによる支配を目指すものと認識しているに違いありません。日本は植民地支配の際にも、日本人になるべきだという「同化主義」の立場を取ってきましたし、日本国家は一つの民族からなる一つの国家社会、国民国家だとするナショナリズムをもつてきました。従って、我々日本人は、「われわれの常識」として、PPの立場が最も正論だとおもわれるでしょう。力による統制も辞さないと言う昔のフランコ主義はまったく論外としても、ある意味では私も「国民社会は一つの民族にまで歴史的に融合していることが望ましい」と思いこんでいますが、しかし、ヨーロッパ大陸その他では、必ずしも、こうした「国民=民族」は「常識」として通用してきたとは言えません。国民統合の問題は複雑な様相を呈しています。
このデモを組織した政治的中心的勢力は、言うまでもなく政党であり、野党第1党のPP党、すなわち、ポピュラー党或いは大衆党ないしは国民党と名乗る保守党です。フランコ時代の政権をになってきた政治家、政治勢力を構成した人達が、フランコ死後、その流れを継承して「議会制民主主義」の時代へと移行を計った政党といわれています。此の政党はフランコ時代から、スペイン・カトリック教会と密接な、切っても切れない関係を持ってきたわけですが、今日でも、此の国の保守党のイデオロギーはスペイン・カトリシズムであり、非常に大きな影響力を行使しているイデオローグは、スペイン・カトリック司教会議であるといっても良いでしょう。この宗教組織と国民党は、組織的には勿論一体ではありませんが、PP党とカトリック教会・信徒の関係は、日本の公明党創価学会の関係に似ていると言えば、わかりはよいでしょうが、勿論、それは関係の形式の限りでの話です。しかし、カトリック文化の中で、それを自然に受容しながら生活を営む大多数のスペイン人全てが、この意味でのPP支持者であったり、教会参加型の市民であるとは言えないことは注意する必要もないでしょう。仏教文化国家神道の中に生きた現存日本人とその政党支持との関係と似た面があります。
現在、とりわけ、市民戦争で厳しく内乱を戦い、長いフランコの暗黒時代を通ってきたカタロニアとバスクに、リージョンの自治権を拡大し、スペイン合衆国となろうとか、独立してフランスの同じ民族と結合して、バスク国家を形成しようというような「ナショナリスト」政党が、現州政権をになってます。バスク議会が裁決し、国会に上程してきたバスク「独立」案とも言える内容の法案は、スペイン中央国会で否決されました。今回の国会では、カタロニア議会で採択され、中央国会に上程された自治法改革案を審議していますが、PPも一定の理解を示せるような妥協を含んだ重要な修正を行うことを条件に、現政府は通過を計ろうとしていると理解されています。したがって、PP党はそのデモの中で、その教育法批判の矛先をとりわけ、現在国会で中心的な議題として討議中の「カタローニア自治拡張法案」にみるような、各リージョンの民族主義者たちの地方自治拡大の要求への社会党の妥協的傾向に関係づけて向けており、地方自治政府の自治を拡大すれば、国家の各地域に現行とは異なった教育システムが創り出されることになり、それは道徳を崩壊させ、無秩序な社会を生むことになるだろうと教育の危機を訴え、批判しています。
これに対して、デモ以前には、そんな根拠のない未来の憶測に基づく批判には対応出来ないとしていましたが、この大規模なデモ動員には、政府としても真剣に対話をする以外はない、という意味で、デモは大きな成功をかち得たと言って良いでしょう。

カトリシズムのイデオローグ達の道徳教育にたいして、現政権党のイデオロギーは明らかに対抗的な性質を持っていると思います。教育システムの中で、どのような政治文化を正統なものとして教育し、その成績を問うべきか、「公民」教育か「カトリック宗教」教育か、実生活の関心から、まさにこのイデオロギーが国民の間で戦われていることが非常に明瞭な形で見られたのだ、という気が、私にはします。
デモ参加者達が要求するように、カトリック宗教教育の制度を維持し、個人の努力次第で、それを高学歴にまで努力して身につけたら、中・上層に到達出来ることが今後とも達成出来るでしょうか?「スペイン学歴社会」は維持できるのでしょうか? これからの若者達は、、従来の教育システムの維持によってこの就職危機から救うことが出来るのでしょうか? この膨大な人数のデモは、ppの政権復帰を願ってこの政治運動に参加しているわけですが、何をこの政治運動によって達成できるでしょうか? 民主主義や人権、生活福祉の保障は、このデモ参加者の願う政治的選択方向に向けて進めば、更に前進することが出来るのでしょうか? ではそれ以外の道とはどういう道であり得るのでしょうか? 
 他人事でない、地球上の共通問題のような気がいたします。