公務員は税金の無駄遣いでしかないか?「行政改革」とは?

 この夏、忙しい仕事の合間を縫って、私の所に、かつて少年の頃、生活を共にしたこともあるが、長いこと違った道を歩んできたかつての親しい友達が、訪ねてきてくれました。この人は、国際社会の中で、官僚としてながい間仕事をしてきた人だけあって、1人でブラッと日本からスペインまで、小さな荷物をぶら下げて、直接私の家の玄関まで訪ねてきてくれたのでした。久し振りに会うのは楽しかったし、大変懐かしかったです。そこには、昔通り、とびきり優しい気質のX氏がいて、話していても、それは終始変わらず嬉しいことでした。しかし、会話の中で、言わなくても良いきついことを言ったりしましたが、非常に重要な仕事をしていることを聞きながら、つまらない待遇の中におかれている日本の官僚の実態を知っているだけに、そのことについて愚痴が出るのが悔しかったのであって、それ以上のものではありませんが、「悟りきって」頑張ってくれ、と思ったものです。
 この夏、偶々独りで暮らしていた年金生活者の私は、この土地の「定食menu」に人気のある庶民の店につれて行きました。 そこで、彼は地方料理・郷土料理に旨いものはない、と言う意見を言って、その例をいろいろとあげて、わたしの意見と食い違ったのでしたが、要するに今まで外国に行ってその地の安い観光者用のfast foodを食べて、まずいといっているに過ぎないので、旨いものを食べようと言うのならそれなりの金をださなければ食べられないだろうと言うと、そんなもの公務員の出張費で食えるか、と言うことでした。正直に言って、私もいろいろと外国をまわってきましたが、同じ公務員としての給与で仕事をしてきたわたしですから、私も同じように庶民の安い店でしか外食したことはなく、大体、安いホテルでその日暮らしの自炊をして,しかし、どこの国に行っても、「旨い」と思って暮らしてきたのです。
 要するに、公務員の給料は会社員のそれよりもかなり悪いので、同じグループで仕事をする会社の人間と、彼ら以上の努力を払って国際的な会社関係の政府側のまとめ役として苦労してきたが、交通費、宿泊・出張費など桁が違うので、世話をしてやる会社員から非常に憐れまれ、馬鹿らしい思いをしてきた、と言いたいようでした。今年、彼は公職を完全引退するにあたって、企業から「天下ら」ないかという誘いがあり、乗り気になっているが、公務員は天下れて良いな、と言われて憤慨しているというのですが、自分についての体験から、そんな羨ましがられるような良い待遇など受けたことはない、と言うのです。その言い分は、楽に労働から引退出来ないことを含めて、どれだけ個人の怨念の含まれているものかは分かっていますが、そしてそれは十分理解することが出来る現実だと思うのですが、職業である限り、そんなケチなことをいっていることに同意を与えることは出来ないので、もっと毅然としろと言いたくなりました。しかし、こんな非常に優れた仕事を国際的な要の場でやってきた男の口から、こんな愚痴が出てくるとは思いもかけないことでありました。その愚痴の背景にあったのは、公務労働を税金の無駄遣いとしてしか評価しない最近の風潮に対する怒りでもあったようです。
 しかし、公務労働を税金で食っている奴という点から認識して、資本で食っている奴よりも、国民にとって、税金を使わされるだけ無駄遣いと見るのは、余りにも単純な愚かな視点だと言わざるを得ません。社会的視点から見て、同じ業務を私企業で行う方が、コスト-メリットの計算では非常に効率的であるかのような印象を強調する、populist小泉さんの議論は、何かしら移民をスケープ・ゴートにして現実から目を背けさせる右翼「民族主義」者の暴論にも似て、のせられている選挙民の愚を指摘しておく必要があるのではないか、とさえ思います。以下、私のとる視点は、主権者である国民の体制管理者としての視点からの「合理性」であって、企業のミクロな視点からの「合理性」ではないかもしれません。無論、私企業の合理性は有害だ等という、ものではありません。各行為者はミクロな合理的な行動を選択する必要があります。それを理解することは、国民の視点からも重要です。しかし、国家に税を払い、公共の意志によってその構成員=国民の福祉を充足していく活動としての国家の経済的効率を見るという視点は、ミクロな視点の合理性と区別されなければならないでしょう。国家行政の主権者としての私たち国民の視点には、この社会システム視点からの判断の合理性がなくてはならない、と思います。国家の機能を、個々の行為者の視点から、自らの利害の充足の効率化の観点から論ずることも議論として可能ですが、ここではその視点からは論じません。
 この今X氏としておく人の公務員の仕事は、無論、「民活化」の対象にすることが出来るものでしょう。大きな社会的必要・需要があるのだから、その仕事を企業化することが出来る。つまり私企業の仕事として利潤を生む事が出来るものです。私企業の視点から言うとそのサービスを市場化して、私企業の利潤生産の部門に編入することが出来るでしょう。場合によっては、その仕事を、私企業が資本を利用して利潤を生む部門に作り替え、コストに対して出来るだけ大きな利潤率を上げるようにする「効率化」が可能であるでしょう。公務労働部門では、こうした「効率化」は必要ではないし、むしろしてはならない「悪」とされますから、組織の効率は違った基準で評価されます。需用者側からすると、税金を払い、その税金を公的組織の資本として使わせ、その労働者の賃金を負担している。それによって仕事をする被雇用者は、私企業の方が厳しく「合理化する」ことが出来るのだから、民間企業に任せれば、賃金基金部分をもっと最小化することが出来るはずだ、だから「社会的にはコスト節約することが出来る、現に民間企業はどんどん正規従業員を一時雇用に置き換えるなりして、コスト節約をやっているではないか、」と言う論理は、「公務労働の賃金を安くする、公務労働の人数を減らしていく」ことは税金を少なくすることに繋がって行く、或いは、そのサービスを公務部門から外して民活化すれば、税金をもっと他の目的に使えるはずだ、だから効率的だと言う理解になるのでしょう。私企業化すれば、公務労働として行ってきた同じ質の同じサービス供給量のコスト部分を少なくして、同じ質量だけ市場へ供給出来るという論理は、実に理解しにくい論理ですが、仮に承認するとしても、それはサービスの価格を無償から有料化する事になろうし、国民の負担を軽くするとは限らない。むしろ、そのことによって利潤をより大きくするだけの「効率化」であり、直ちに税金負担者の生活コスト低減化になるわけではない、と考えておいた方が正しいのではないでしょうか?
 国家の仕事、国家の仕事の実際の担い手,公務労働の管理者を含め、公務労働者はすくなくも利潤を生みだしてはならないとされています。事務労働の手数料を仮に取ったとしても、原則はそれによって利潤を次年度のために蓄積してはならないのであって、その場合には手数料を下げるのが原則でしょう。利潤が目的の労働ではなく、その生産物であるサービスは、その公共的性格として、出来るだけ無償であるべきだとされているように思います。行政事務の対価として要求されるのは高々「実費」であって、サービス自体は無償で提供されなければならない。そうした利潤を含まない労働の所産の提供は、市場経済に馴染まないものとして公共部門として区別されていますが、このような公務労働サービスは実際の国民生活の再生産過程の中での福祉総量の重要な一構成部分となっているのです。今、「民活化」され、私企業部門に移されて、私企業となったとして、こうした私企業の生産過程に投入される資本量は、かつての国家財政の支出量と等しいと乱暴に単純化すると、それがどれだけの利潤を形成出来るものかが問われて、私企業としての資本の効率化が図られ、かつてのコスト-利潤を効率基準としない官僚組織よりも、この基準で見る限り、効率化されることになるでしょう。これは明かで、間違いのない原理的なことです。 国家の官僚組織の場合は、年間に予算をその目的のために使い切れば良い訳ですから、その結果、それを使用した一般的結果として、次年度の国家収入、国民の税金として、つまり需要者の支払う一般的費用として回収されれば、単純再生産は可能となる、と言うに過ぎません。健全財政としては、この回収される税と支出されるサービス生産量の費用とが等しくなればよい、と言うことになるでしょう。利潤を生んではいけない公務労働は、この利潤部分をゼロにして出来るだけ無償で供給したり、公正を確保するというような原則によって効率を評価するわけです。
 しかし、言うまでもなく、このサービスの拡大再生産を計るということになると、全ての条件を不変とすると、その年度に全額投資され消費され単純再生産として回収される部分を超えた、ここで理論的仮定される税収以外の基金を投入しなければならない事になるでしょう。例えば、公共事業を増やして景気対策を行うという政策サービスをすると、そこから国債とか、利潤をあげる国有企業の設立、というようなこともとり得る選択肢としてはあり得る訳だが、話をややこしくしないためにこの問題は無視することにしましょう。ただ一つ、社会保障のための積み立てや私的生活保障のための預金部分を「投資」によって「資本化」し社会福祉の拡大再生産を行うことは問題にしても良いでしょう。この選挙の焦点ともなった「郵政改革」は、まさにこの問題にかかわっているからです。国民は社会的に生活福祉量をその生涯にわたって安定的に確保しようとして、そのための基金を積み立てています。その良い一例は郵便貯金であり、日本ではこの個人預金の郵便制度のもとでの社会的基金量は世界でも有数の量を誇っていましたし、日本経済の特質を語る時、日本に於ける例外的な個人の預金量に触れない人はなかったものです。だから、国家が自由に使うことの出来る税金収入ではない、しかし、国家が借金の利子率さえ勝手に決めて自由に借りることの出来る金融基金として、これを利用し、補助金政策として重要な政府の政策を行うことが出来たわけです。問題はこうした補助金政策などが[○○族」と言われる政治家集団を通じて、公共部門が膨大な経済的な無駄遣いとして批判されるまでになってきたことであり、自民党員が本当に自民党をぶっ壊すわけがないのは自明のことですが、「自民党をぶっ壊す」というラディカルな言辞が受ける理由ともなっているわけでしょう。従って、郵便制度の「改革」は、預貯金の金融基金としての国民にとっての効率的利用が問題となっているのであって、この金融基金を私的金融機関の自由な裁量による金融基金に変換する事は、一つのありうべき選択肢かもしれないが、それは唯一の選択肢であるかのように思うとすると、非常に後悔する結果に到るかもしれません。日本の競争力の一大基盤として、日本人の預貯金行動は語られてきたものですが、これをアメリカが望む制度に、国際的な自由金融制度の中に組み込んで、国際金融資本も自由に参加する金融市場の中に「自由化」するという政策は、この金融基金をどうしたら国民の視点から管理して、効率的に使うかという問題を殆ど視野の外においた提案であって、これを日本国民が選択するのは狂気の沙汰だ、と私は素人ながら思うのです。
 この預金貨幣は、国民の貯蓄行動からすると、生活福祉の安定的確保を目的にするものだから、その利用はもっぱら社会的生活福祉のためだけに公共的に利用しようという発想はおおいにありえるし、説得的なものであるはずです。そこで預金制度を福祉目的の公共部門として、利潤部分を含まない公務労働による公務部門、市場外の金融資金供給制度のもとでの供給を計る仕組みにしておく、と言う発想は、ある意味で根拠のある発想でしょう。 その最も原始的な発想の一つは、個人の預貯金を取り扱う預貯金公庫を作り、この公庫は文化・福祉事業のためにのみ、その経済活動の成果を用いることが出来、預貯金の安全な運用を図る機関とする、と言うような制度です。 或いは、預金部門の貨幣が、金融市場で自由に私企業によって利用されるとしても、その利子は、税収と考えて、公共予算に入らなければならない。それだけでなく、その用途も国民の福祉の特定目的に直接的にリンクされてなければならない。郵政法を改善しようというのなら、この目的に添って効率化、を決定しなければならないのではないでしょうか? 単に自由市場化し、将来、国際金融資本と合併した日本の多国籍銀行が、この膨大な「日本型原始蓄積国民基金」を自由に使っていく、と言うありうべきシナリオは、日本にとっては最悪な選択ではないか、と憂える人が出ても不思議はないのではないでしょうか?
 さて、話を「「民活化」すれば税金の無駄遣いはなくなる」と言う乱暴な議論の検討に移しましょう。公務員が、それだけで税金泥棒のように言われるのは、人気取り政治家(populist)小泉さんになってから特にひどくなっていて、公務員は何もしないで無駄遣いばかりしていると言わんばかりの、詐欺師まがいのことを言って「改革」を売り物にしていると思います。公務員が担っているある特定の部局の仕事を、縮小したり、廃止したり、私企業部門に委譲したりするとは、原則的に言って何をすることを意味するのでしょうか? 私企業経営の視点に立つのでなく、国民の体制経営の立場の視点からすると、その特定の部局が担ってきた仕事が社会的に需要の大きいサービスである時、、それを、税金によらず会社の資本を用いて利潤を生むための労働によって生産し、それを私企業からのサービスとして購入するか、税金として投資するが利潤配当はなく、公務労働という利潤を含まないサービスとして、非常に多くの場合無償で利用するか、どちらが国民の体制経営として有用・効率的かを判断する問題なのではないでしょうか? 公務労働を廃止して「民活化」した方がよいかどうかは、大変慎重に判断しないと、補助金の垂れ流し、そこに巣くう政治家達と手を組む天下りの高級官僚を打倒するというラディカルなスローガンは結構だが、いわば、それによって必要な公務部門自体を破壊して私企業の手に渡してしまうと言うのは、産湯を捨てて赤子まで流す式の方式ではないでしょうか?個々のケースについて具体的に考えなければ、一般的に議論するのでは誤解を生ずるだけですが、赤子を流してはいけないという事を、最近の新聞が報道していた「大量破棄される運命の薬が、援助のために送ることが初めて可能となった」というニュースから例を挙げて考えてみましょう。 
 例えば、薬を生産し供給することは社会的需要の非常に高い労働部門でしょう。私企業は資本を投下し利潤を生産するために新薬を絶えず開発生産するでしょう。(例えば、利潤を生むことが少ない薬の生産については、資本はその生産を中止し、今まで生産していた現物をすべて廃棄し、そのための雇用もなくして、儲かる新薬の生産に向けるでしょう。これは私企業の視点からすると絶対に必要な目的合理化です。)いわば、より高い利潤をあげるにはどうしたらよいかを原則として、効率性合理性を追求するでしょう。すなわち、、市場競争原理のもとで、常に絶えざる効率性を追求する動機が高いので、様々なこの意味での合理化を図ることになるでしょう。しかし、その合理性の追求を市場原則にのみ委ねると、例えば効かない薬や副作用の害の大きい薬の生産なども生産販売される可能性があり、公共性を損なうおそれが強いので、国民を守るために国民の立場から、その弊害を防ぐための社会的規範を薬品製造業界の自己規制だけに任せず、薬事法を公共意志の決定=社会的合意として形成し、これによって効率性は正義のもとに規制されるべきだと言うことになるわけです。つまり、薬品産業を国民の社会的ニーズに結びつけて正常に繁栄させるためには、そうした公共労働による仕事は欠かすことが出来ない。このため、利潤を生まない、一見「効率的」ではない公務労働が、それ故に、「正義を社会的に契約させて、それを守らせ、違反を統制する」労働として必要とされ、国民は税金を投じてこうした「効率性」から中立的な公務員の労働を使用することになります。公務員の労働とは、本来こうした市場経済的合理性」と無縁であるべき規範的性質が要求されているのです。無論企業側からすれば、投資して利潤を形成出来る部門、しかもそこで守るべき規範を私的に決定して、公的意志によって統制されることがない「公共的労働」を私企業団体として行えるにもかかわらず、それを公務とされることは「非効率」「無駄遣い」「排除と差別」だと言うことになるかもしれません。しかし、新聞報道による最近の話題の一つは、企業の目的合理的な効率の追求は、国民の社会体制経営の観点からすると、非常に大きな無駄をしばしば結果するのだと言うことを教えました。新薬を絶えず開発することは、確かに、国民にとっても重大な関心事です。新薬かどうかは、薬品会社にとっても決定的な革新的関心事と言えるようです。しかし、その理由は国民の関心事と次のような点でずれています。会社にとっては、新薬かどうかは特許権の問題となります。特許権をとって特許に基づく独占権を持ち、それによって大きな利潤をえることが出来るからです。無論、特許権を持つだけで誰も利用しない、製品が売れないのでは意味がありません。新薬は今まで以上に効かなければなりませんし、今までと同じ程度に利くものであっても、副作用が少ないとか新しい何らかのメリットがなければならないでしょう。それらにおいて多少劣っていても、経済的な合理性、コストを大きく切り下げることが出来る、と言うようなことがあれば新薬の特許は大いに有効でしょう。これらの点で適性であることを科学的論拠に基づいて証明出来なければ、新薬として市場に出ていくことは出来ません。仮に上記のメリットがなくても、私的企業の視点からすれば、特許権さへ認定されれば、それだけで目的はかなり達成されたことになります。特許とは何をもって新しい有用な薬と判断するか、その判断の充分な根拠の条件は何か、たとえば、実験結果のデータ的科学的根拠はどう判断されるか、など想像しただけでも、曖昧な境界的な領域が広くあり、政治的判断などの余地も残されているだろうと思います。
 新薬の特許を得ると言うことは、ある意味でもっと、それ以上に重要な結果を意味するだろうと想像されます。今、古い特許権の期限が切れたとすると、これを生産し販売する事による利潤率は非常に落ちます。どの会社も皆特許と無関係に量産し、安い効き目のある薬が大量にでまわると言うことになると、その良く売れる薬を生産することはかえって業界にとっての非効率を結果するからです。こうして今までに売られていたこの効き目のある薬は市場から引き上げられ、大量に廃棄されます。丁度、シーズンが終わると、成功し大量に生産された今年の流行衣料が、シーズンはずれに安売りされ、それでも残った商品は、過去の流行商品として市場からひきあげられ、廃棄処分され、ゴミとなるのと同じです。新聞のニュースは、このように大量に廃棄される日本の優れた薬品を、WHOと言う国際社会のコミュニケーション機構を通じて、国際薬品会社の合意をえて、援助物資として利用することができた、というものでした。これは会社としても日本国民の税金を使って、援助物資として売ることが出来るということでもあり、こうした過去になかった方式が、今年初めて可能になったわけです。これは日本の国家が行った、すなわち、私企業の利害を国際的に調整する国際政策の立案とその実現の成果の具体例といって良いでしょう。勿論、具体的な国際社会のコミュニケーション過程における合意形成は、国内に於けるよりももっと、結果として満足出来ない要素をいろいろと含むでしょう。
 国際的に薬というものは随分国によっては異なったものなのだということを最近体験いたしました。喉と鼻の奥が痛くなる日本では寝冷え型と考えられる風邪をひきました。こうしたこともあろうと日本から自分には今まで大変効いた風邪薬を症状に合わせて何種類か持ってきていましたので、早速利用しましたが、何故か結果は思わしくありません。こちらの友人達はそれを聞いて2種類の薬を奨めてくれました。今まで見たこともないタイプのもので、一つは「のど飴」方式のトローチタイプであり、もう一つはもっと奇妙に思えたのですが、熱湯に入れて、その蒸気を吸うと言う方式のものでした。後者の原料はユーカリの樹液だと言うことです。ところがこれが非常に良く利いて2日でどうやら歌が歌えるような状態にまで戻りました。薬屋さんの間では、薬は土地のものを使え、と言われているのだそうで、これは新しい知識となりました。この経験は、この上記のニュースを見た時、グローバリゼーションの薬品市場での国際的な新薬特許権の問題は、非常に複雑で、自国の基準で特許を得ても、他国には効かない薬があり得るのではないか、と思いました。もしそうだとすると、国際的多国籍企業が他国市場を支配した時、特許権問題は重大な結果をその国に及ぼすことがあり得ると感じたのです。国際的薬事法を持つことは企業にとっても国民にとっても非常に重要な問題でしょう。国際社会の制度構造が成熟していき、国際的な製薬産業が一つの国際法規をもって生産・販売していくことの必要性が理解されるように思います。勿論、そうした国際法規体系は既にもたれているだろうし、その法規をめぐって企業の国際競争、国民の安全についての闘いが行われているだろう事は言うまでもないでしょう。グローバリゼーションの新たな環境の元で、日本の国民は、その社会システムをどう管理していけばよいかは、今日、この薬の問題に見るように、あらゆることが国際的な関係づくりの政策形成能力と大きな関係を持つようになったと思います。国際市場や国際政治システム、その他あらゆる事で、国際的な政策形成能力が今求められていますが、この点で広く国民の間にこの能力が未だ充分ではないことが、日本の危機の打開方向が見えないことと大きな関連をもっていると思います。今までの日本の政治の担い手は、奇妙に国際関係について何の発言もしない人が多すぎます。対外的には、特に発言・交渉する能力に欠けているからでしょう。これはこれから是非とも何とかしなければならない国民的課題なのではないでしょうか。今回の総選挙についても、国民のこうした能力の欠如からの判断の誤りを感ぜずにはいられません。
 上記に報道された事例は、薬品に関わる公務労働部門の優れた効用性の発揮のひとつの例でもありました。 つまり、私の言いたいのは、サービス市場に無償で提供される公務労働は、国民の税金によって行われることによってはじめて可能ですし、またそうした公務労働によって、市場原理に任せておいては実現出来ない公正さ、効率性、社会的節約を初めて確保し得るのだと言うことであって、「民活化」することによっては失われてしまう重大な国民の福祉に関わる問題がある、と言うことです。現実の官僚の非効率の問題とは、多くの場合、こうした官僚機構の存在それ自体が弊害なのではなく、官僚機構が創り出すことが出来る創造性、具体的には政策の科学的根拠に基づいた行動が充分にとれていない問題であったり、とりわけ国際的コミュニケーション能力の著しい欠如による非効率が真の問題点であったりしている、と思われるのです。そこにまた、官僚機構内部の専門性に基づくリーダーシップの欠如、野蛮な政治家の介入を許したり、それらによって鼻面を引き回されることを甘受するもの達の横行、という事態があるのかもしれません。
 教育、医療、社会的福祉、相互扶助、公共的コミュニケーション,司法と裁判、文化事業などなど、多くの部門がかなりの部分を公務労働によって無償に提供されるべきだとされてきたのでした。そうした公務産業に国民が税として投資することは、配当がなくとも、その方が充分に有利な見返りがあると判断してきたからなのでした。これらは現在ヨーロッパで言うところの「第三の道」「社会主義的」政権のもとでかなり支持されてきた考え方だと言うことも言えましょう。新自由主義国家神道主義的右派の小泉さんのリーダーシップの元で、こうした近代社会のもとで作り上げられてきた社会制度構造は切り崩されてきましたし、日本国民は、国民経済の建て直し・健全化の緊急避難的必要が、膨大な赤字国債の問題であることを忘れ、何か公務労働を私企業制度の労働に置き換えれば「効率化」であるかのようなごまかしにすっかりのって、総選挙の投票行動により、自民守旧派をやっつけて英雄気取りになっているかに思えます。(アー、これでまた私はこのホームエージを読んで呉れる人を失うだろうな。)また、こうした公務労働の縮小、雇用の廃絶、賃金部分の縮小を行うことと、改革の中核と言うところの郵政改革とは何の直接関連もないでしょう。日本経済の改革と言われる郵政改革をおこなったからといって、すなわち、国民の持つ公共的資本財源としての巨大な郵便貯金資金を利用して公共的意志決定の元で公共的に利用していく制度を放棄し、私的金融機関からの私企業への自由な貸し出しに委ねたからと言って、つまり、公務労働部門を一方で縮小し取り上げ、そのサービスを私企業の賃金労働部門に置き換えたからといって、資本がこの公共性の強い部門を効率化し、税金が減り、雇用が増大するなどと言うことに直結することには必ずしもならないと思います。もう一つ、今まで公務部門が担ってきた公共的仕事がどのように確保され、より効率的になるかの政策提案がない以上、言われているような何らかの肯定的見通しを持つことは出来ないのではないでしょうか? この点で、一体、誰が新たな選択肢としての政策提案をこの選挙で出来たのでしょうか? 選択肢のなかった選挙、既に別な選択肢が出てくるかもしれない可能性、外堀・内堀を国民自ら埋めてしまった選挙のあと、何があるのでしょうか? 「改革」は行われ、確かに何かが変わるでしょう。それは補助金支配の自民党政治の改革であるのでしょうか? その結果がどうなるのか、誰からも明示されないまま、タイトルだけの「マニフェスト」を与えられて行った選挙、「改革」の対象とされ追い出された守旧派を受け入れるとした主要「野党」によって対抗軸も見失われた選挙、そうした中で、国民が明確に目的を意識出来ない選択をした以上、その先も見通すことは出来ないように思えます。