国民科学教育論争と政治教育ーアメリカの事例

 スペイン、ポルトガルの大干ばつと大渇水、毎日のように起こっている山火事、地球の北半球に次々に起こる大洪水による災害、信じがたい惨事が世界に次々と起こっているような気のするこの頃だ。
 今日のニュースから。(Internatinal Herald Tribune,9月1日)
イラクシーク派の巡礼群衆が、スンニ反乱軍の迫撃砲、ロケット発砲の音が聞こえたあと、自殺爆弾がいるという噂が流され、モスクへの行進中の群衆とモスク側にすでにいた群衆がパニックに陥り, チグリス川の橋の上で群衆同士が一つの出口を求めてぶつかり合い、驚いた動物が総崩れとなるように見境なくなって、川に落ちたり押し潰しあったりして、女性・子どもの多くを含む850人以上の死者と多数の負傷者が出たという。テレビの映像に出た橋の上に残されていた無数の群衆の履いていた履き物の残骸の山のような列は、息をのむようなシーンであった。米国軍侵入以来最大の1日での死者量となった。この場所はサダム支持のスンニ派の地域に近く、攻撃が予測されていたため、モスクへの道の両側を自動車が突っ込めないようにコンクリートブロックで固め、橋の前後は事実上、狭い道の一方向にしか大群衆が通れないようにしてあったという。丁度、憲法草案が国会に上程され、スンニの怒りが頂点に達していた時期で、これに対する反対デモも行われていた。しかし、この巡礼のパニックはスンニ派反乱軍の攻撃によるものではない。群集心理的な大事故だと言うことのようだ。宗教が動機の基盤にあって群衆行動が動員され、あたかも自然災害のような惨事を政治が生み出していく。

 米国の世論調査(7月7日から17日にかけてthe Pew Forum on Religion and Public Life and the Pew Research Center for the People and the Press が進化論について、2000人のサンプリング調査を行ったもの。)の結果として次のようなことがNY Timesに報じられている。
米国ではCreationism創造主説がevoutionism進化論と同等以上に支持されている事が分かった、と言うもの。つまり進化論「論争」というのがあって、人間は歴史の初めから人間として神によって創造されたままであって、決してチンパンジーのようなものから進化したのではない、と言う宗教の議論と、少なくも何らかの進化過程を論証出来る事実として確認する生物学との間の論争なのだそうだ。この世論調査によると、回答者の42%が厳密に創造主説を支持していて「時間の初めからずっと、生きとし生けるものは、現在の形態のままで存在し続けてきた」という説に賛成している。これに対し48%は時間をかけて生物は進化したと信じていると言うことである。しかし、その進化論支持者のうち、18%は、進化は超越的な存在によって方向付けられたものだ、と信じている。ダーウィンのように自然淘汰の過程の結果だと答えたのは26%にすぎなかった。
そして、全体の64%が、学校教育のなかで、自然淘汰説的進化論に「偏らないで」進化論と共に創造主説をも教育し、両方の説を教育すべきだと答えている、のだそうだ。進化論ではなく、神の創造説を教えるべきだとするのは38%にも達していた、と報告している。
 調査者によると、「驚くべき事には」学校教育で両者を教えるべきだとする人は、創造説を支持する保守的キリスト教信者だけではなく、大多数は非信者、自由主義的民主主義者、自然淘汰説を受け入れる人だったことだ。これを説明して「アメリカ・プラグマチズム」の反映とのべている。つまり「ある人は自然淘汰と言い、他の人は創造主のなせることとしているのだから、両方教えて、あとは生徒の判断に任せればよい、と言っているかのようだ」、しかし、こうした決着の付け方は科学者と宗教家の両方を怒らせることになるだろう、と。科学教育国民センター所長は、「こうした結果は充分予測出来ることで、「アメリカ人は論争の両者に対して極めて積極的にフェアーであろうとするのだ」「創造主主義者はその科学がお粗末なので、進化論を攻撃しようとするというのが大事な点だが、アメリカ文化がその強い味方についている」といっている。今年、科学教育国民センターは26の州で進化論に対する新しい70の論争が、学校区の中で、或いは州の立法の中で行われていることを追跡発見している。
 ブッシュ大統領は、この8月2日に「進化論」と「知的企画の理論」の論争が、どんな論争であるか知らしめるために、両者が学校の科学教育で教えられるべきだと述べてこの論争に介入した。「知的企画の理論」とは、創造主説の子孫で、「生命とは非常に複雑なものだから、超越者のみがそれを企画することが出来る」と言う信念をさしている。
 以上の記事において、アメリカの国民教育論争に保守的キリスト教原理主義者が、極右的保守政治家と共に介入する様が浮き彫りにされている。それはこうした政治的勢力が、その支持者を養成するにはどんな「教養」が必要だと考えているかを端的に示していて、興味深いし、どんな政権がどんな教育を目指すかの選択は、長期の政権支持者を養育する点で、必ず一定の効果を持つものだと言うことも明らかにしているように思われる。スペインでも、国民公教育にカトリック主義の宗教教育をおいてきた昨年までの伝統に対して、新たな政権が人権主義的公民教育によってそれを置き換えようとする動きをおこし、激しい敵対的衝突を起こしはじめている。日本では日の丸と君が代を礼拝ないし歌わせることを含む儀式を義務的に行い、それを踏み絵として教員に強制しようとしたり、大東亜戦争を正当化する歴史教育をもって道徳教育の根幹に据えようとする政治家の企図が、昨今非常に目立ってきているが、その成果は目に見えて大きくなり始めているようにも、思える。それぞれの国において、「伝統的国民文化」と言われてきたモノはことなっているが、その文化を、一時、既に克服されたかのように思われてきた時期を経て、今日「復古」し始めてきたかのように見える現象が目に付く。それはまた、それぞれの国内の政治状況を固有に反映しながら、現時点の世界史の基本的対抗関係の流れをも示しているように思える。