ユダヤ教についての記事を読んで。続き。

記事の紹介を前日の日記のまま、ここで終わってしまうことはあまりに中途半端で、ユダヤ教を信仰するイスラエルさんの真意に反するところがあるかもしれません。彼はユダヤ教を説明しようとしているのですから、私にとっては、本質的ではないという理由であとの議論を切ってしまうことは、その「理解」を放棄することになるでしょう。
議論は続きます。
Q「神を信ずるものと信じないものの間の分化の方が、宗教間の分化よりも大きな問題ではないのでしょうか? 神は存在するか、しないかという考え方の違いのほうがより根底的な違いとは思わないのか?」A「価値の視点から見れば、神とともに生きるか神無しにいきるかは同じことだ。神は交流であって、強制ではない。私は、神は私達を分け隔てするものではないと思う。私にとっては私の両親みたいなものだ。私は両親を愛しているが、肉体的には彼らは私とは異なった存在です。しかし精神的には彼らは私と共にある。私にとって、神が私と共にあるとは、そういう風な感じだ。神聖な倫理がそこから導きだされるなんて性質のものではない。」
Q「天国に行けると確信して自爆攻撃する極端主義者を例に挙げることもないが、死後の人生を信ずるか否かは、人間の行動の基礎を非常に異なったものにするのではないですか?」
A「私は21世紀の人間です。死後にこの現世を生きるため復活できるなどとは信じない。死後の永遠の命というのはあり得るだろう、しかし、それは私達が今あり、或いは過去に生きたものと同じであるはずはない。」Q「ユダヤ人の多くはそんな風に超越していないのではないか?最初から神の超絶性を排除する宗教的経験を考えるなんて、奇妙なのではないだろうか?」
A「私は最初に断ったように正統派を代表するものではない。信仰についての断片的なvisionをもっているにすぎません。しかし、私は宗教的人間だ。現世は我々の唯一のものでありそれしかないとしても生きる意味のあるものだという観念と、宗教は両立しないものとは思わない。私は宗教を生きるが、宗教に依存して生きるのではない。これは重要な区別だと思う。私は私の信仰にコミットするが、厳密にわたしの信仰にのみである。Q「貴方の信仰は神学、世界のある意味を含んでいるのでしょう?」A「勿論です。人生の図柄は神が創造するものとは思わないが、神は人生の図柄です。そして人生の意味は現にここに生きている人類の究極的な調和・平和です。」「ではその死は? 死の意味は?」「人は死に至る瞬間まで貢献していくでしょう。そうした瞬間というのが、私が理解するところの救世主Messiahの再臨です。メシアの再臨(キリストの降臨)とは父親の顔をまた見るだろうということではない。聖書はいいます。“そして狼は再び子羊を食べるだろう”と。これはメシアの降臨の非常に深い意味するところです。しかし、なかんずく、人生の深い意味です。この調和に向けて働くこと。この観点からすると、世界を改良するために働くことは必然であり、義務である。このことは、私は、既に見たように、外見的に対立する倫理の結節点です。対立する宗教宗派間についてのみではなく、宗教を信ずるものと信じないものの間の対立についても言えることです。人生をよりよいものにするというのが、人生の意味であり、我々は誰でもそうした信念にコミットしている。この点については、宗教が語らせられる慣習的な訴えを必要とさえしない、自明なことであることは明らかです。だから、人類の道徳は進歩する可能性がある。人類は前進し、或いは後退するが、しかし、進歩しつつある。」「貴方のいう究極の調和とは現在の世界の混乱状況を指すのではないでしょうか?」「そうです。人類の基本的役割はおそらく調和を再建することです。」「本来の調和を再建するのに、こんな回り道をしているとはおかしなことですね?」「有限な世界が無限でありたいという欲求から創り出されたというのは本当です。ユダヤ人の神話的伝統では、世界の創造には無限であらんとする内的、構造的な必要があると暗に行っているのです。」「形而上学的な議論に合理主義的な言語が用いられというのは奇妙な感じがしますね。」「ユダヤ人には奇妙に思えないのです。ユダヤ主義には強い合理主義的傾向の伝統があります。その伝統が私の議論には反映しています。」「信仰と科学は対立するものではない。なぜなら科学は、ある意味で神の観点の解釈であるからです。例えば、ダーウィンは神と両立します。彼自身も進化は創造主の存在と両立すると考えていました。科学の前で動揺する信仰は、役に立たないと思います。宗教は科学を受け入れるべきです。そうしないことは宗教は無知蒙昧の一形式だと主張しているようなものです。」「宗教の歴史はそうした歴史だったように思いますが---」「私の宗教的見地は純粋に知識に対する欲求に依拠しています。私の宗教的視点は何らかの他の精神現象学とよりも、より以上に合理的知識と結びついものです。何故そう信ずるかというと、私は究極的には知らないからだ。科学は究極の疑問に答えることは出来ない。その疑問は人類の疑問で、数世紀に亘って問い続けてきたである。人間性の自覚、単純にその存在についての自覚は、この究極的疑問と不可分である。しかし明らかにこれらの疑問は科学が既に創り出しつつある部分的解答と完全に両立できるものだろう。科学は神のために働くのだと考えている。科学に反することを言うことは、“科学は嘘をついている”というようなものだ。同じことだが逆に“神は嘘ついている”と言うのと同じです。どちらかが嘘をついているというような仮説は私には証明不可能である。」「しかし、科学と宗教は歴史の中で異なった道を歩んできたことをどう説明するのか?」「宗教の歴史と聖職者の歴史は区別しなければならない。また宗教的感情と聖職者の感情は区別しなければならない。宗教の権力と聖職者の権力は区別しなければならない。宗教は、他のいかなる人間的事柄とも同様に、権力に対して、緊張と権力の乱用に対して、免疫力を持つと言うことはできない。宗教の歴史は多くの仕方で恣意的な行動と悲劇に満ちている。宗教は憎しみと死をまき散らし、不幸なことに現在でもそうし続けている。しかし、そうした曲解を宗教のせいにするのはおかしい。丁度ヒロシマガス室を科学のせいにするのがおかしいのと同じだ。原子が解明されたから原爆が投下されたりしたのではない。人類が進めた一歩は大きな後退の可能性を秘めている。原爆生産や投下は政治的決定の領域の問題である。神の名において行う虐殺も、神の問題ではなくその名前を使用した問題だ。」
 「殆どあらゆる宗教は神を家父長のようにイメージするアナロジーを用いていますが、---」「そうです。それは有用な類推だとおもいます。神は我々に我々の本質を与えてきました。神は私たちを見守り、肉体的には別ですが、いつも精神的に我々の側に立っています。神は我々がなりたいものになろうとすることを許すのだ。父は息子を育てるが、絶対的、全体的にその生涯を決定づけたりしない。息子は父を拒否したり否定したりしがちである。そうしたことも可能だし、自己破壊的な行為をも選択可能である。そうだとすると、世界破壊の自由と人間の普遍的調和がどう両立することと説明するのでしょうか?それは神の観念と両立可能です。究極的な人間性の調和は永遠に来ないかもしれない。有限の世界は開放的に目的づけられている。それがこの世のあり方なのです。「そうすると、神は現世がそうした開放的なあり方をしていても無関心なのでしょうか?」「そうかもしれません。自由とはゲームではなく、それほど厳粛なものでしょう。自由は行使され、神はそれに同意を与えます。私の宗教的世界観からすれば、こうしたことに慈悲から介入することもおそらくないと思います。単に人間はその結果、酷いことを経験すると言うことでしょう。」「それはまた随分と厳しい超越のvisionですね。」「むしろ合理的な超越と呼びたいところです。」
 インタビューはこれで終わっています。
私の人間主義的立場からすると、神についての何らの仮説も持つ必要はないから、つまり神の存在については、神は人類の観念的創造物であるという見地をとっているから、神の存在を前提にして議論を一貫させようとする必要はない。私の哲学的立場からすると、さまざまな宗教的世界観を含めて、重要だと思われる哲学的問題は次のことである。すなわち、人類が実在し、その全体が一つの社会を形成して、人類の平和と福祉を増進するために協調する様々な合意を持つことが可能である。人類は全体としてこうした理性を持つことが可能であり、そうした方向に発達するに違いない。こうした精神現象学を私は、いわば確証なく信仰している。その意味でのみ、わたしは宗教的世界観と似た意識構造を持っていると言って良いかもしれない。或いはそういった宗教の近代化の論理を共有していると言っても良い。そしてまた、そこに多くの宗教を「私なりに理解」出来る基盤があるのではないか。そして異なった宗教は異なった文化と共通理解と共通合意を持つことが可能ではないかと思う。私にとっての異宗教問題・異文化問題は、この信念の一貫した論証である。言い換えれば、異なった風土の環境の中で生活し、異なった食住衣の体系を作り上げ、異なった世界観を物語り、様々な特徴的な役割構造を持つcommunityを作ってきた人々は、しかし、究極的に類として「理性」を持ち、それを実現しようと努力していること、その可能性とその実現を論証し、提唱していかなければならない、と言うことである。その意味で文明は不可避的に衝突するものではない、と論証できるのではないか。 この問題は、未知の未来の構想を含む「形而上学的」必要を避けることが出来ないと言うに過ぎない。「我々」が生きている「現在において」は、歴史上、常に実現不可能であった、と言えるであろうし、「この私」の未来についてもそうであるかもしれない。そして、歴史的に実在する諸宗教についていえば、その中に、この目的に向かっての様々な試みを発見し、その営みの積極性を発見していくこと、つまり、宗教は不可避的に衝突するのでなく、合意に向かって進むことが可能であることを論証できればよいと思う。その具体的な進展を見いだせれば、私たちは、文明は衝突するとか、異なる宗教は両立できないなどと主張し、闘争に勝つことを、そのために生き、そのために生け贄になり死んで聖霊として生き返ることを、私たちの人生の聖なる目標にする必要もなくなるし、闘争に勝つことを社会や文明や世界の目標にすることはないのである。
 そうした関心から、イスラエルさんの説くユダヤ教の神学には、一定の積極性を見いだすことが出来るのではないか、とおもったのであるが、現実のイスラエルパレスチナイスラム原理主義アメリキリスト教原理主義の絡みを見る時、なかなか敵意が敵意を煽り、殺戮が殺戮を正当化し英雄化する繰り返しの過程の解決の合意は見いだしがたいかのように見えてくる。しかし、この決定的解決は求められなければならない。