ユダヤ教の特質についての記事を読んで。宗教の「現代化」の課題。

Sbunaka2005-08-26

今日は全く柄にもなく、宗教について考えてみました。
私が育った文化環境の中では経験しなかったスペイン・カトリシズムの宗教文化が、多くの人に非常に顕著な影響力を持っているスペインのようなところに住んで、人との交流を通じて日常的な生活の中でそれを見たり聞いたりしていると、良かれ悪しかれ、宗教にある種の関心を強く持たざるを得ないようになると思います。私はカトリシズムを勉強していませんので、いや、それどころか何の宗教も学んでいませんから、どの宗教がどうのこうのという気は全くありません。個人的には、多少学んだことのあるものは、幾つかの宗教が近代にはいってどのように適合的なものとして変容していったか、或いは、近代化に抵抗して変容していったか、というようなことに関してだけです。しかし、この町に住んでいると、宗教に関する話題が毎日のように新聞に見られますし、旧市内全体が沢山の教会の集合であるといえるほど、各教区の教会や、様々な教会がたくさんあって、毎週のミサのみならず、始終様々なミサがあちこちの教会で行われているので、嫌でも宗教に触れる機会が始終あります。
人の人生にとって、「何が究極の価値なのだろうか?」 「そのために何をすれば意味ある人生をおくったことになるのだろうか?」 こうした「神聖な価値として、人は何を信じて生きているのか? 」我々にとって疑うことのできない=「信じることができる意味とはなにか?」「生活の上でそれはどのように行動することを意味するか?」 例えば、こうした設問は、「神」=「究極の意味を付与するものがあると信じるか?」を問うことと同じように私には思われ、それは必ずどの宗教の教義にも含まれる議論であるだろうから、その意味では私も何らかの宗教を持つことになっているのかもしれない、と想像しています。或いは、個人的には、むしろ、勝手にいろいろな宗教・芸術・政治・経済を含めた、価値に関する議論を「歪曲して」、自分の納得する「意味」、揺らぎながらも信ずるところのものを表現しようとしているのかもしれない、と言い換える方が適切でしょう。
 偶々8月22日の新聞に、スペイン在住のユダヤ人コミュニティの代表を務めている技術者のJacobo Israelという人のインタビュー記事が載っていました。記者は、イスラエルさんに、「ユダヤ教とはどのような宗教と言えるか?」を聞いていました。ここでは、カトリックについてではなく、ユダヤ教が問題になっちるのでしたが、その解答の中に、宗教について考える上で、宗教に無知な私には大変参考になる意見がありましたので、それをメモしておきたいと思います。
 「宗教というのは日常生活と非常にうまく調和するものではない。だから新聞のインタビューとして適切な話題でもないし、また、ここで私の語ることはスペインのユダヤ人を代表しているものではなくて、全く個人的な考えに過ぎない、ということを厳密にお断りしたい」、とインタビューをはじめています。Q [ユダヤ主義は最も洗練された無神論だというひとがいますが?] A「そうかもしれません。自己をユダヤ人と定義しているすべての人は、ある種の宗教的世界観を共有している。それは多様で複雑ではあるが、そこには常にある世界観が存在する。第一に、宗教という言葉はラテン語で“結合する”という意味である。宗教的世界観を持つものは、超越世界higher worldと現世 our worldの間に結びつきを見いだしている。第2に、彼らはすべての人々は唯一の人間家族の部分を構成していることを確信している。つまり、人は他者との結びつき、聖なるものとの結びつきを同時にもっていることを確信している。そして、最後に、「人は神を無視することが出来ても、神は存在する」という確信をもっている。人間は神によって自由意志を与えられている、それは神の意志である。これは人間性の基盤であり、このこと無しに神を認識することは出来ない。人類を信頼する超越者の行為は、神自身の中に自由意志が含まれていることにある、ということのように私には思われます。」
 カトリック・スペインでは、多くの人々がカトリック信者であることによって、神を信じるものが人と人とのつながりを信じ、この世の生活を秩序あるものとして送り、救われることを願い、救われることを確信して生きているように思われます。しかし、カトリック信者であると人が考えるところのものは、常に全く誰においても同一なものであるとは限りません。大司教達の考え、公式の教会の見解として通達するものでさえ、ある政党やある地方のある人々によってもっぱら支持され、他の政党や他の地域の多くの人々によって反対されるという、要するにイデオロギーとして機能することは誰でも知っています。また、一方で、多くの人が奇蹟を信じ、奇蹟を見た人を聖者として認定するローマ教会の「厳密な」判定を信じて、どちらかというと神秘主義といわれる伝統的流れの中で、中世の庶民の無知が維持されているかのような印象を受けることがあります。しかし、同時にスペインの中に多くの違った考え方の人たち、すなわち、教会に出席しない、「無宗教」といわれることがあるが、しかし、カトリックの価値体系の枠組みの多くを共有し、そうした枠組みを絶えず洗練しようとしながら現実の教会と論争している人々、或いはそうした流れの中にいる多くの庶民を見ることも出来ます。
人間の世界は、多くの経験を経て、変動し、例えば、「近代」に入って宗教的信念は、その世界観を修正し、「宗教の近代化」を経て、その大きな機能を維持してきたとも言えるように思います。こうした世界の変動の中で、ある民族社会、国民社会などが、その民族・国家の「支配的な文化・宗教」の新たな解釈に失敗すると、すなわち、「伝統的文化」と新たな世界観との調和を達成することに失敗すると、その社会は「近代化」に著しい困難を抱えることになったことは、歴史的事実ではないかと思うのです。そうした観点から、このイスラエルさんのいわれることは「近代化」及び「現代化」の必要にどう対応しえているのでしょうか?
 私には上記の彼の言うユダヤ主義の3つの宗教的世界観の要件は、宗教が近代化する必要を感じた時点で、それぞれの近代化していった国や民族が、その文化体系を「宗教的なもの」として維持しつつ「近代化」していった時の共通の先行要件であったように思います。神は創造主として存在することを信じること。人の営みの可能な範囲を超えたところの世界があること。聖なる世界との調和において、人間は全体として一つの家族のように類であること、類として助け合い社会的生活gesellscaftliches Gattungswesen,或いは civil societyを営んでいくものである、と信じること、これを先行要件として文化を再創造することが、「宗教の近代化」を含む文化の近代化の課題であったように思います。
 ここで人間が自由意志を持つと認めることを神の意志だとすることは、決定的に重要な出発点でした。神の概念を前提するところでは、超越した存在と同じような意味で人間が自由意志を持たないことは明らかなことです。しかし、自由意志を持った人間は自らの行為において超越する存在の想像する世界に到達しなければなりません。そこに行けるかどうか、この世でそれは絶えず不可能であるにしても、ユートピアとしてのそれを目指して、人は自由意志により行為していくことになることを確信するところに信仰の意味が認められることになるでしょう。個々の人間は、「近代」の段階では民族・国民などを「全体」「人類」として認識し、「現代」ではこれを超えた「世界社会」を「人類」の具体相として認知しつつ、宗教的信念を持つ人は、神の想像した世界の究極の姿をこの世に実現するように努力することになるでしょう。
 宗教の近代化は、例えば、この世のすべての存在は神の意志の実現形態に他ならないとして、「罪ある」「私的欲望」によって「合理的に行為選択」する人間を素材とする行為連関として神の創造するユートピア市民社会自由社会、市場社会を認識する「新たな世界観を創造」しようとしました。「物資代謝する自然的な生命過程」として人間は捉えられ、社会は総体の人間が市民社会を形成して営む社会的生命過程として把握されます。こうした社会的生活過程は、この近代的宗教的世界観からすると、人間がものを欲求し、感じ、考える仕方を歴史的に洗練しながら、「世界」を産業化、市場化、都市化、西欧化して、「普遍主義的」に収斂していく過程を仮定し、それを押し進めることが世界を理性化するという世界観を持ち、資本主義、帝国主義覇権主義の時代へと収斂していくものと確信してきたのが、「近代化」に他ならなかったとも言えるでしょう。
しかし、こうした近代化の神話、幻想は幾つかの世界大戦を経験して、もろくも崩れていきますが、やがて、超大国覇権主義の一方が破綻し、他方も宗教的原理主義的無知を克服していく中で、市場社会=市民社会を乗りこえ、近代化を超えていくことを想定するようになるでしょう。
 こうした理性の達成することの出来る秩序を持った社会を、「民族社会」「国民社会」を更に超えた「世界社会」として目指そうとする段階が現実に来ていると私は考えています。宗教もそれを目指すべく新たな世界観を創造する課題を持つに違いありません。それこそが宗教的世界観の「現代化」の課題だと私は思うのですが、ちょっと飛躍しすぎました。話を戻しましょう。
 記者は聞きます。「人間は自由な意志を持つということは、神はその意志を実現するために、人の意志決定に応じて報酬、救済や罰、有罪宣告を与え、人はそれを宿命としてうけいれなければならない、とあなたは考えているのか---」、
 「イヤ、単に自由なのだ。神は全く人間を自由なものとしていて、神の観念にさえ結びつけていない。 間違うという可能性さえ、自由の条件なのだ。このことについて全面的に取り扱っているユダヤ神学の派が存在するが、いわゆる“Shoah”の神学がそれで、Martin Buberの神の失墜についての省察はこれに関連したものである。彼は神の失墜という時、神の人間創造は、神があきらめた結果だといいいたいのではなく、自由についていいたいのであって、神は選択する道徳能力を人間の意志によるものとして委ねたのである、といいたいのである。ホロコーストも我々の選択であり、日常的に見ることが出来る人々の善意と連帯の行動も我々次第なのである。
では、ユダヤ人の倫理の最も基本的なものは何なのか?それはキリスト教にも世俗的な人々にも影響を与えてきたと思う。その特徴の最も際だって異なっている点は、人間の犠牲・生け贄について反対する態度だろう。神の怒りをなだめるための生け贄に基づく偶像崇拝に反対するということが、ユダヤの倫理を根本的に他と区別する特徴だといてよい。キリスト教徒から見ると、ユダヤ人は如何に反英雄主義に転向したか示すものというだけのことかもしれない。しかし、ユダヤの神は人間が死ぬことを必要としない。この点はキリスト教とも、イスラムともユダヤ教は異なる点なのである。ユダヤ教は他宗教からの転向を暴力的に強制することはない。イスラムもまたそうだ、と言って良い。中世のあるイスラム地域、例えば、モロッコでは転向を強いられたものは、時間が経って後に、本来の宗教ヲ回復することが出来たのである。今日は、もう暴力的に転向を強いる時代ではなくなった 今日、宗教は他宗教から転向させてその信徒を増やす必要はない。宗教的競争は意味を失った。もし転向があったとしたら、それは自己意志による選択であるべきで、暴力や平和的な転向テクニックによるものでなされるべきものではない。宗教間の話し合いも充分ではないとさえ思う。今なされなければならないのは、異なった信条を持つとする人々が共通の価値を求めることである。
そういわれてみれば、キリスト教ならずとも、何かを神聖なものとしてシンボライズし、そのために自己を犠牲にするという行為を、聖なる行為として,総意を挙げて讃え、聖なるものに殉じたとして祀る儀式は、その宗教の最も本質的な教義の一部となっているようです。カトリック教のミサとは、神の子キリストが生け贄となって、復活の奇蹟を成し遂げたことを日常的にいつも再確認する儀式だといって良いように思います。多くの宗教は、教会や神社、その教義の言語を象徴するとする様々なシンボルを持つでしょう。例えば、靖国神社は、それ自体では、建物であり、祭司を取り扱う宮司達であり、そんなものを崇めたところで何の意味もないと言えないことはありません。しかし、それを信じ儀式に参列する信徒達にとっては、それは日本の神、天皇家の先祖神に命を犠牲にして捧げた人達、そのシンボルとしての天皇の意図の元に命を犠牲にした人たちを祀るのだと信じ、 徴兵された人たちのうち、戦死した人たちを宗教的な英雄とするのです。生きる意味とはそうした神のために身を捧げ、死ぬことと信じるのです。そうした宗教的な信徒からすると、戦争犯罪人として国際社会の裁判によって裁定された人間を、こうした英雄と意味づける宗教的行為は、日本の戦争中の国家宗教にとって本質的な観念であり、軍国主義思想の宗教観からすると譲れない思想であることになるでしょう。軍国主義の時代の国家主義教育の結果、このように多くの人は、その近代化の過程で創造されていった「日本的宗教」=国家神道を確信するようになった故に、異教徒と闘い、それを排除ないしは同化すべく、英雄となって自らを犠牲にしたのである。宗教の「近代化」に失敗した典型的な事例の一つであるこうした天皇制=国家神道=「日本」宗教観をも含む多くの宗教と、この点で一線を画するという点にユダヤ教の特徴を見ようと言うこのイスラエルさんの議論は、諸文明間・諸宗教間の衝突とする現代の戦争の根拠を究極のところで疑おうとするものでもありましょう。 また、彼はユダヤ教の中で、異宗教・異文明との間に合意される共通価値を形成しようと言う世界市民による「世界社会」形成の宗教的世界観を求めなければならないとする宗教「現代化」の課題を考えていることになるでしょう。何人も特定民族や国家の文化を、他者がそこに収斂するべき「神の意図」と考えるべきではなく、文化は多様なものとして自由に選択されて発展してきたものである、とする立場に立とうと言うことでしょう。況や、「民主主義」であれ、「キリスト教」であれ、絶対的理性とか神の名において、そこに武力によって転向を強制すべき根拠はない、とすることになります。そして、単に文明化の相互理解では不十分で、そこにとどまらず、共通の価値を形成していく努力をすべきだという考え方になります。
要するに、宗教者の現代に於ける現代化の課題という点で、私は彼の議論に大いに「理解」するところを見いだすことができました。この課題を考えること無しに、宗教者であることの要件である、「超越者の普遍的な世界創造を信じる」ことは既に出来なくなっているはずです。人間総体の理性を信じ、その実現を求めようとする人間主義的世界観の立場の私にとっても、その「世界社会」のユートピアを目指す世界の営みを考えることなしに、生きる現代的課題を考えることは難しくなっていると思っています。このglobalizationの時代に、仮にそれぞれの民族文化・国民文化、それぞれの地域文明、諸宗教が自己の絶対性、普遍性を主張し、その世界観が他地域・他文明・他社会体制に対して正義・道徳的基準として地球化すべきだと信じ、英雄的行為を鼓舞するとすれば、戦争は際限なく正当化され、神聖化されて終わることがなくなるでしょう。或いは自己の世界観の優位を信じて他との棲み分けを諮るとしても、豊かなもの、武器を独占するものが、独善的・利己的に共同を拒否するという結果に陥るだけでしょう。地球化の条件の下でこうした「原理主義」や「独善的孤立主義多元主義」は、現代社会への適合化に失敗した典型的事例になることでしょう。