スペインのある村祭りを訪ねて

Sbunaka2005-08-15

U様
早いもので、8月も既に半ば近くなってしまいました。ダブリンの生活はいかがですか?今日は「マリア様が昇天召された日」、つまり私のような罰当たりが日本風に言えば、「マリアさんの命日」でスペインは国民単位の休日です。カトリックの国アイルランドも休日なのではないでしょうか?スペイン・サラマンカは夏に入って市民サービスの仕事をしてきた人たちも既に休暇を取った人々と交替で休暇に入ったかのようで、新聞売りの売店や中華料理のレストランや、夏物大安売りをやっていたいろいろな中小商店も、あちこち歯が欠けたように、「ヴァカシオネスにつき休店します」の貼り紙を出して休みに入りました。この月曜にかけて先週末から連休(こちらはpuente橋という言い方をしているようです。)なので、休暇に出かける人も多いシーズンなのだそうです。7月から毎日のように、様々な公共的な場所、教会前広場や、プラサ・マイヨール、歴史遺産の中庭などで行われていた、ジャズ・フェスティバル、クラシック音楽、芝居、踊り、サーカス、様々な行事もほぼ一段落して、これらの催しはめっきり消えたようになくなり、教会のミサも合唱団はいませんし、週末には相変わらずたくさんある結婚式のミサも、オルガン弾きの人が結婚行進曲をひいてお終いという具合で、時に出逢う豪華な合唱団つきミサを見ることもなくなった感じです。私が属している合唱団の仕事も7月末から8月末まで練習も無し、9月の始めにミサがあり仕事始めとなります。日本からの観光客は、お盆のこの8月半ばが多くなり、折角来ても実は見るものが非常に少なくて気の毒な感じがします。各国、各地からの観光客は、しかし、この時期に特に減るということはないようです。むしろ非常に賑わって、昨夜の夜中の12時頃の中央広場plaza mayorの大混雑ぶりには、驚くほどでした。日本の短期留学生もこの時期にぐっと増えますし、働き盛りの年代の日本人家族旅行の観光のお客さんの顔もぐっと増えるようです。(最近は日本人を顔や身体的特徴で他の東アジア人と識別することは非常に困難になってきましたが、昔からの特徴で分かることは日除けのために帽子を被っていることでしょうか。これは先ず間違いなく日本人です。昨日まであった陸上世界選手権でも、帽子を被ってマラソンを走ったのは、ほぼ日本人だけでした。日除け帽子は日本の国民文化ですね。もう一つは、ごく最近の変化ですが、よく知られている日本人とカメラという取り合わせが、今では小さなvideoと電子辞書を持っていること、それを取り出すときの自信に満ち満ちた表情でしょうか。一見してどこの国の人にも負けず知識欲盛んで、土産物店などで何か書いてあるとサッとこれを取り出します。かくいう私も電子辞書を持って歩きますが、多少長期で滞在している立場上、いつまでたってもスペイン語が出来ないことを暴露しているようなもので、すぐそれなりに話せるようになる他国の人を知っているスペイン人に対して恥ずかしいという気の方が先に立つのですが、多くのかたは逆のようです。)
さて、今日は先日招かれていった村祭りについてお話しいたしましょう。招いてくれたのは市場の魚屋さんで、私たちもよくその店で買っていたのですが、年金滞在者の私共とは違い、上得意さんの1人である私どもの友人のお供という形で、招いていただいたのだと思います。友人の車に乗せていただき、それぞれサラマンカから2時間、レオンから1時間ほどの小さな過疎の村でした。現在村には3家族だけ住んでいるということです。魚屋さんもかつてはこの村で百姓をしていた家族に育ったのですが、現在その家は誰も住んでいなくて、サラマンカから時々週末に帰ってくる別荘ということのようです。 (魚屋さんの村の家)しかし、この村の人である奥さんの親家族が未だここに住んでいて、そのためもあるのでしょう、比較的頻繁にこの村に帰ってくる家族の一つということのようで、村との繋がりもまだ非常に強くあるようです。スペインの家族は大家族主義の家族文化を持っていて、成人してそれぞれ一家を構える親子兄弟姉妹の家族間の日常的つながりは強く、またそのつながりはそれぞれの核家族の双系に亘って緊密ですから、社交に優れた核家族は、非常に拡大された親族・姻族の範囲で多くの親族と行動をともにしており、そうした社交資源は各個人の核家族によって大きな差異があると言えるでしょう。招いてくれた魚屋さんは次男ですが、長男の方が非社交的であるのに反し、非常に社交的で開放的で、しかも他者への配慮の行き届いた人ですので、社交的な母親とともに、この親族の中で最も重要なリーダー的位置を占めているように思いました。 実際相続した村にある家産、大きな牧草地や何軒かの留守になっている親族の家の管理も、母親家族と次男が、村の自分たちの親族、特に魚屋さんにとっての自分の父親の親族を代表して行っているように思われました。貴重な水資源に恵まれ、湿地帯を含む広大な家産の牧草地は、牧草の刈り入れと販売だけで、もう自分自身の農業は行っていませんので、「土地の管理が悪いといわれて、地域の評判はよくない」といいながら、自分の畑の湿地帯に泥浴びに来るイノシシや、兎や鳥などの狩猟を趣味にして、持っている一〇数匹の狩猟犬を自慢にしています。その村にある従兄弟や姻族の幾つかの核家族の家は、皆もう都市で働いていて、家庭菜園も荒れたままになっていましたが、この祭りには一族・姻族が帰ってきていて、この魚屋さんの一族はこの村の人口の中での大きな欠くことの出来ない部分であることが分かりました。村には総数で18世帯だというのは、祭りに帰ってくる人たちの住居が18軒あるということのようでしたが、核家族はもっとずっと多くありましたので、住居を持っている核家族や3世代以上同居家族などいろいろあって、食住を共にする世帯が単位で家族が勘定されているのではないことは明らかなようですが、どんな単位で家族が勘定されているのか大いに興味あるところでしたが、質問は控えておきました。魚屋さんの親族で村に帰ってきた核家族は、住宅以上にかなり沢山でした。都市に住む人を含めて、すべての人には故郷があるという点では、日本人には分かり易い民族的性格を持っています。近代史に入って、フランコの時代が挿入されていますが、フランコ主義の文化は、スペインはどこにもない優れた独自な民族的文化を持ち民族的性格を持った民族なのだと強調することを通して、ナショナリズムを強調する文化でした。そのナショナル・アイデンティティの中核はスペイン史の物語で、スペインをレコンキストとカトリック王とカトリック女王の結婚による国民統一、スペインカトリシズムによる精神的統合の歴史という点で説明し、大帝国時代の建築物などの歴史遺産をスペイン人の象徴として重視していました。また、スペイン国民は村と大家族主義の生活慣習をもち、カトリックの厚い信仰を持つものと説明され、教育が行われ、それ以外のアイデンティティの持ち方は、厳しく統制されていたようです。とりわけ、啓蒙主義自由主義、民主主義の価値を強く反カトリック的なものとして統制の対象とした時代を持ったのでした。近代史を否定する歴史物語、その象徴によって自己了解していたフランコの独裁時代・軍国主義時代のナショナリズムの精神的痕跡は消えがたく今日まであると思いますます。それはスペイン人のナショナルアイデンティティを語るときに特に現れてくるようです。そしてそうした国民統合のあり方に対する地方の「ナショナリズム」、「ナショナル・アイデンティティ」の克服されがたい葛藤は、スペインの最大の泣き所として、各地方ナショナリズム独立運動として尾を引いていることは周知のことでしょう。しかし、現在、少なくも、フランコ主義の否定は大多数の国民的合意になっていますし、それは既に過去の悪夢となっています。テロを伴う頑固なナショナリズム独立運動は、国民的には同感されないものとなっていると思いますが、この地域のナショナリズムは地域保守思想として根強く存在し続けていると言えるのではないでしょうか。
 日本史を「万世一系天皇家の歴史」の物語とし、天皇家の先祖神信仰の宗教を中核とするイエ社会文化を日本の民族的アイデンティティの中核において、すなわち天皇制によって「日本人」の固有な国民的性格を定義し、日本の固有性の民族的優秀性を強調するナショナリズムを、あるべき普遍文化として位置づけ、それ以外の近代思想を反日本(人)思想であり、鬼畜米英思想であるとして厳しく統制した時代を持った、という点は、何かしら帝国主義時代に「遅れて出発した近代化」に「劣等感」を感じ、暗黒に反転した時代を持った共通性を感じたりします。60年以上前のナショナリズムによる国民アイデンティティのトラウマの克服は日本でも容易ではありませんが、何とかしたいものだと思います。それはともかくとして、村落共同体のつき合いの親密さ・全員平等の原則などの「陽の側面」なども、日本の村祭りの時の村落と似ている感じがして、大変懐かしい想いがいたしましたが、伝統的に個々の核家族にとっては血縁と姻縁は共に同等な重要性を与えられていますから、双系家族である点だけ、日本の村の直系血縁の親族関係、村社会の構造と異なっていたかもしれません。
さて、祭りのはなしに戻りましょう。祭りは、すべての村に守護聖人が決まっていまして、その守護聖人の日がその村の祭りということのようです。皆さんご存じのように、ヨーロッパのどの国もキリスト教国はすべての地域単位に守護聖人の日を持っていて、その日が地域の祭りだと言っても良いでしょう。だから、スペインの場合、各地域に住む住民は、国の祭り、地方の祭り、市町村の祭り、と少なくも3回は祭りの公休日があります。今や全くの空き家となっている観のある多くの家も、しかし、この祭りの日だけは必ず1族揃って帰ってくるようです。この村のような、今は過疎となっている、もともと小さな村では、教会はあっても神父さんはいないので、祭りのミサには出張してきてもらうのですが、教会の廻りには何のためか知りませんが何かの木の枝が切ってあって廻りの壁に立てかけてあり、時間になると、教会の鐘がうち鳴らされ、一斉に村人達が教会に入りました。先ず簡単な開始の挨拶があって、教会にあるマリア様の像をこの村では女性達が担いで、 笛と太鼓を1人で奏でる1人の男を先頭に村を一周し、教会に帰ってきます。
(行列の風景)それからおきまりのミサを約1時間近く行いましたが、伝統的な村の民謡と踊りの伴奏を勤めるこの伝統的楽器で、1人の人が教会やマリヤ様の行列で吹いていたのは、何とアレルヤであったり、サンクトス、ベネディクトスなどのミサの賛美歌であったりして、大都市のカテドラルだったら、パイプオルガンや教会つき合唱団が歌う代わりを勤めているのだということが、聞いて行くうちに分かりました。(ミサ)神父さんもお説教を早めに切り上げて、再び笛と太鼓のこの人を先頭に、今度は賑やかな伝統的な地付きの民謡と踊りの曲を演奏しながら各家々を順に回っていきます。その家の人は、家の玄関前に皿に盛った料理を運び、葡萄酒、コーラ、ジュース、等を運んで振る舞います。元の住居に帰ってきて掃除し、料理をつくる家もあるようですし、村に未だ住んでいる親族と共同で作ったものを、分けてもらって同じ物を自分の家に回ってきた人々に振る舞う家もあるようでした。魚屋さんは商売柄、豪勢な魚料理をたくさん用意していて、親族の若い夫婦は自分の家の前でこの同じ魚料理、例えば、ガリシア風オリーブ油をタップリ使った蛸のジャガイモ料理などを分けてもらって振る舞ったりしていました。親族の子ども達はこの共通の親族のいずれの家でもお客さんのサービスのお手伝いしていましたので、どれが親族関係かは大体分かりました。
どの家の人も、縁もゆかりもない私たちに対して全く既知の地域の人間であるかのように挨拶してくれ、振る舞ってくれました。ややあって踊りが始まり、2/3曲がすむと、それが合図であるかのように次の家に回ります。こうして18軒回るのですから、振る舞いは3時間近く続き、酔う人も出てきますし、みんなご機嫌になって、最後の家のケーキとコーヒーの振る舞いが終わると、今は閉鎖になった村の小学校にパブの用意がしてあって、そこで解散、好きなだけ歓談しなさいとなりました。遠くから来た勤め人はここでみんなとお別れの挨拶をしあい、帰っていきました。教会のない村はないと同時にパブのない村はない、といってもよいのですが、生憎と過疎でパブの店はありません。週末になると、廃校になった小学校を再利用して、臨時にこのパブが開かれ、残った村人が自前でこのパブを運営して集まるのだそうです。因みに、この祭りを組織する人は、各家持ち回りなのかと聞いてみましたら、そんなことはない、ボランティアでやるのだと言うことでした。ここでも日本の村との違いを感じます。ボランティアと事実上有力者が重なっていることを感じますが、合唱団などのアソシエーションなども完全ボランティア主義というか、毎週出ていかなければならないいろいろな教会で依頼されるミサの合唱など、そのための練習と拘束時間など大変ですが、合唱団員であることと、こうした義務は何の関係もないし、何の見返りもないということは驚くことの一つです。同時にこうした市民活動が行われるための必要不可欠な経費が、地元貯蓄銀行や市役所によって支えられていることも、日本の我々が発想できる範囲を超えていることでした。
こうした各戸を回る祭りの仕方をしている村は、カスティーリャ・イ・レオンでは珍しいそうです。どこでも同じ形式の祭りをやっているわけではないようですが、しかし、スペインの人は自分の民族的性格を村人の共同社会の人間を原形にしたようなものと考えているらしいことは明らかで、親族と村の関係をしくじっては生活が出来なかった戦前の日本の「村落社会」と非常に似たところがあると思いました。それぞれの社会は結局みんなで支え合って行く仕組みとその道徳を核に成り立っていると思いますが、現代化の状況の中で、それに適合的な社会と・文化を絶えず私たちは創造していかなければならないと思います。伝統はその時重要な要素として作り替えられていくでしょう。変にナショナリストになったり、頑固に保守になったり、無政府的主義的になったり、消費市場主義的、快楽主義的になったりしないで、思いやりの深い社会と道徳を維持したいものと思うのです。これは誰かに任せておけるほど容易なことではないですね。