「9条の会」に賛同します。

今日初めて「9条の会」というものがあることを知りました。私同様、うっかりと未だ知らなかった人がいれば、ホームページ「9条の会オフィシャルサイト」があるので、詳しくはそれを参照してください。検索しにくかったら、呼びかけ人の「大江健三郎」や「加藤周一」を検索して見ると辿り着くことが出来ます。私がこのホームページで拙い文章を書いてきた意図の一つには、今、日本が、かつてない本当の危機に陥っているという想いがあり、早く多くの人に気がついてもらいたい、そして個人として極めて微力であっても、同じ思いを周辺の人と語りあいたいという願いがあってのことでもあるのです。しかし、正直に言って、私の内部にどこか絶望的な想いも漂っていて、筆も湿りがちであったことも確かです。今、日本に、我々国民の平和な生活を護る思想と行動をまとめ上げ、結集力を持つ政治勢力、そうした立場を代表する政党はあるのだろうか? 私には残念ながら思いつくことは出来ません。例えば、現在の民主党は、自民党と交替しても、この危機を押し進めはすれ、国際社会の中で日本の国民の立場を護る明確な志向をもたないし、知恵も持たないように私にはみえます。 人を感動させる文章も、確信させる確証を手際よく要約する文章も書ける才はありませんが、止むに止まない気持ちは強いということだけで、幾つかの文章をここに書いてきました。しかし、もしかすると、私の議論は、日本の多くの人には例外的な少数者の、国籍不明な根無し草の議論でしかあり得ないように見えているのかもしれない、と弱気になったりします。このまま日本は「大国」に依存して方針を持ち得ないまま「2番目」の位置にあるという錯覚にしがみつき翻弄され、憲法を改正し、中東戦争に参加し、大国の東アジア防衛戦の最前衛の役割をとり、その過程の中で「国際社会に於ける戦争責任」を放棄して右翼化する日本は、国際的孤立を深化していくのかもしれません。やがて、依存する大国が、東アジアにおける自国の権益を優先する方針を立て直すに連れ、大国の観点からして東アジアのトラブルメイカーになると判断して、「梯子」をはずす時期が必ずくる、少なくも、ブッシュ政権の方針を変更する可能性は、アメリカ社会の制度の中に未だ残されているだろう、その時、日本は世界の中の自己の位置を見失っていたことに漸く気づくのではないか? こんな絶望観をどこかに感ぜざるを得ない気持ちが、私の中に克服しにくい形で発生しています。 
 しかし、最近私は、そうした想いを少なくも共通にしている人たちが居ることが「9条の会」の立ち上げによって起こった現象から知ることが出来ました。 「9条の会」が立ち上げられると、各地で待っていましたと呼応する声、この立ち上げ人に感謝する声が相次いでいることを知りました。今のところ知識人だけの賛同者が目立ちますが、知識人だけに終わらせず、多くの若者や生活者が参加していければ、目に見えないが、支持できる政党がないと長いこといわれてきた現状において、多少ともそれに替わるものとして機能するものをもてるのではないかと期待がふくらみます。私のような右翼化を阻止したい人たちの声をも代表し、国際社会の一員として、様々な提案をくみ上げて「骨太」の国民生活の福祉を目的関数にする政策体系を方向付けるように機能する社会的コミュニケーションシステムを復活させることが可能なのではないかと、大きな期待を持ちたくなります。
 ご存じのように、今世界で流行しているものの一つに「腕輪」があります。スペインでもアッという間の燎原の火のように、子ども達や若者の手首に、価格的には100円もしない色つきのヒモのようなものが巻かれるようになりました。たとえば、「世界から貧困をなくそう」という趣旨に賛同することを示す白い輪を多くの人がつけていることは、情報に素早い日本の若者は誰でも知って居るに違いない、と私は想像しています。「9条の会」に賛同し「世界から戦争をなくそう」、そうした世界世論の8割が示している想いを、戦争を起こす「大国」や、「地域戦争」をしている関係各国に国際社会機構を通して強制し、統制していく方向に参加しようという意志を、例えば、「9条の会」の運動として、日本の色、「紺」の細い布を巻いて、示してみたらどうでしょう。日本中の国民がこの「紺」の腕輪を巻いて歩く風景というのは、想像しただけでも楽しいことではないでしょうか?「9条の会に賛同します。」という意志を示すことは非常に大きな政治的効果を期待できます。「戦争をなくそう」「戦後憲法を守ろう」という運動は、今日、かつてのような、単に日本の自民党の保守政治に対する社会党共産党などの「革新」政治の対抗というような運動の意味を超えてしまって、もっと日本の社会体制全般の将来を構想していく問題になっていると私は思っています。いつの間にか質的に全く新しい状況の中にある国際社会の中で、日本はどう生きていくのかを構想し、ニホン社会体制の政策体系を立て直していかなければならない、そうした問題の核心の一つに、現代、戦争を独善的に行う戦争大国の利害行為をどう統制するか、文字通り国家・国民の存亡を賭けて争う現状に於かれている地域、民族間の紛争という「戦争」の問題に、日本がどのような立場をとっていくかがある、といえると思います。「9条を護る」という問題は、戦後の日本の革新政治を護るというような、それ自体が「つまらない」政治問題だ、と考えてはならない。簡単に、また「戦後革新派の残党の世迷い言」「蒸し返し」などと反応してはならないでしょう。共産主義か資本主義かというような問題があって、自由主義・民主主義を護り、権威主義共産主義テロリズムを武力や警察力を持ってでも打倒しなければならないなどと現代の問題の焦点を設定する人もいるでしょうが、あたかもそうした問題の図柄が根本的だと思っているのは、現代では、ある種の極右政治家の幻想を共有する方だとわたくしはおもいます。少なくもそうした「分かり易い」単純な問題の建て方を私は共有するものではありません。
 「9条の会」の提案者の意図も、私には同じような危機感からのもののように思えます。グローバリゼーションという新たな世界環境のなかで、現代日本の社会システムが、長い戦後の経過の中で改善を怠ってきた結果、経済・教育・外交・社会福祉の構造的腐敗と機能連関障害を起し、システムの全体的危機にあるにもかかわらず、社会の諸社会層が、問題解決のディスカッションを熾烈に行い、建設的で効果的な社会的合意に到り、それを執行していくという政治システムが崩壊してしまったということこそが、今の日本の危機なのではないでしょうか?
 「9条の会」の趣旨は、健全な社会的コミュニケーション過程をみんなで再建しようよ、と呼びかけているものだと思います。私はこの「はてな」の日記を、「勝手に」この会に賛同するものという立場から続けていくことを宣言したいと思います。
 次の文章を改めて見てください。現代世界で、これほど新鮮で、多くの世界の人々に共感と感動を呼ぶ新鮮な文章はないのではないでしょうか? これを日本国憲法だけではなく、世界議会が採択する「世界憲法」の「9条」にできるまで、人間の歴史はきっと頑張り続けることになるでしょう。

日本国憲法

第二章 戦争の放棄

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」