日中関係の緊張

リスボン市内ケーブルカー

18日の日記になるはずのものですが、つい、ずぼらで文章書き直さなければと思いつつ、今日の日記となりました。新聞ならば、もうお蔵ということになるのでしょうね。日本についての政治記事、国際関係記事は、余り海外で取り扱われる機会はないのですが、このところテレビでも新聞でも日中関係の緊張について報道がなされています。
 Herald Tribune. Int. vers. April 18 の1面の記事に、中国人の日本に対する抗議デモに対する日本の謝罪要求に対して、中国政府は応じないことをつげたことが報じられています。アメリカの1新聞が、このことについてどのような報道=事実認識をしているかをお伝えしておきましょう。日本のジャーナリズムでは、こうした抗議デモが中国政府公認で、誘導的に行われているかのように推測し、安保委員会への日本の参加要求に対する反対と公海上の石油棚の利権問題について、日本に圧力をかけようとしているものという理解から、事態を報道している向きもあるようでした。いずれにしても、日本領事館や企業に対しての財産毀損など、中国政府が当然取るべき措置を執っていないとして、外交的に謝罪を求めるとする日本政府の態度を報じています。現地記者の見聞報告でも、届け出デモの参加者がどのような行動を取るかの公安当局の予測を遙かに超えて、これを武力的に取り締まることは不測の事態を起こしかねない事もあって、「愛国行動」に直接手を出さない配慮をせざるを得なかったのかもしれない、という報道もあったようです。いずれにしても、現地日本人としては、かなりの不安を感じざるを得ない大衆行動であったようでした。
Herald Tribuneは、こうした事態を報告した後、元中国外務大臣、・日本大使のタン・ジャクサン氏のコメントを伝えていますが、彼によると、中国政府は、究極的責任は中国政府にはない、最近の連続的に行われている中国民衆の日本に対する非難の責任は、日本側にある、とする態度を変えることはないだろうといっています。
かれはまた、安保理の日本の希望について、これを中国が支持する唯一の条件は、日本が1931年から1945年に到る残虐な支配について悔恨の情を示すことだ、その時のみ日本の安保理参加を支持するだろうとコメントしている、と伝えています。北京人民大学日中関係の専門家ファン・ダフイは、町村外務大臣の訪中は最近表面化した日中の裂け目を埋める役割を果たすことはないだろうとこの新聞の記者に述べています。 中国人が怒りを示していることは、日本が侵略し支配をしたことに、最近の日本政府が何らの悔悟の念をも示さないことであって、譬え中国政府がこの感情を表面化しないように抑えたところで、この感情がなくなることはない、と述べています。また、人民日報も、北京のデモンストレーションについて、重要なことは、「広範な大衆や学生などが、党と中国政府が、長期に見れば、基本的な国家と国民の利害を護り、中国・日本の関係を正しく調整していくだろうという信頼を持ってもらえることだ、国家の承認しがたいデモや社会的安定と首都のイメージを悪くするようなことに参加しないよう希望する」と述べている、と伝えています。また、中国警察は、internetによる計画された反日行動のmailをモニターすることを企業に要求している、といっています。中国政府にとって、この反日感情に火がつくことは、その権威に傷を付けること無しに日本との外交的妥協をすることを難しくしていくことになるので、決して望ましいことではない、と私も思います。しかし、香港科学技術大学のバリー・サウトマンは、「反日感情の強さは、反米感情の比ではない」、といっている,のも個人的体験からみて良く理解できます。それは「統制できる政治的感情の類ではない」「中国人の怒りは日本政府が戦争中の残虐に対して公的な悔恨の情を示す以外収まらない」ともいっています。 以上が今日のアメリカの1新聞の報道です。

さて、個人的には、私は、いろいろな外国で中国人の若者と話す機会をしばしば持ちました。中国の人々のこの感情の強さは、ちょっとしたことを切っ掛けにすぐ表面化するほど強いものであることを何回も経験しています。中国のみならず、一見礼儀正しく隠されているこの感情は、オーストラリアでも、ウェールズでも経験しています。しかし、侵略を認めて歴史に対する悔恨の情を心から個人的には持っていること知ると、一転して交友関係は進むことも経験しています。特に中国人との間ではこの変化は著しいものがあるように思え、潜在的には相互交流に付いて、強い関心を持っているようにも思えたものです。    
現在、重要な貿易の関係を持ち、日本に好意的感情を強く示してくれているオーストラリアですが、過去、日本軍が侵攻してこの国の国内で戦争を戦い、オーストラリア兵に犠牲者が出たことについては、オーストラリア人なら誰でも知っています。そうした犠牲者のメモリアルデーには、日本と戦った部隊の老兵達も行進します。日本人のオーストラリアへの留学生は、さすがに知らない人はないでしょうが、何も知らない日本人の若者観光者が行進を追ってパチパチと写真を撮っているのを見ると心が痛みます。一体この無知から来る無礼の責任は誰が負うべきなのかと思ったものです。
ウェールズの片田舎を徒歩旅行したときに、真っ黒な土の広大な美しい風景、その中にたまたま通りかかった小さな集落の賑やかな日曜日のパブで、見知らぬ旅人を大歓迎してくれた人々、そうしたものにすっかり感激して歩いていたときに、1人の老婆に出会い、人なつっこく話しかけられ、気軽に応じているうちに、突然、老婆に杖を振り上げられ、「何故、日本人がここにいるのだ!」といわれて酷く驚いたことがあります。ウェールズの首都カーディフの軍事博物館だったか、そうしたところでウェールズの大隊が日本軍と戦ったのだということを知りましたが、戦争で傷ついた個人、地域社会、国民の記憶は、簡単に癒されるものでなく、つらい経験を個々人に強いることになっているのだ、ということを知るべきだと思いました。
日本は近代化の過程で、数々の戦争をしてきましたが、日本の土地に侵略してきた敵と戦った経験はありません。侵略した土地で力つきて戦争が終わったのです。戦争の実態の一面については、そうした敵地で闘い、植民地経営に参画したものは、それなりに実態を見てしっています。「大東亜戦争」は、相手の国の人の命や財産を奪い、中国や朝鮮の場合特に、そこに日本人が入植して、反逆するものを武力的に許さなかったのであって、それが残虐性を持たなかったと言える人は、本当のところひとりも居ないはずだ、と思います。武力を持って占領する者が掲げる大義名分の違いはあれ、客観的現実はイスラエルパレスチナの関係にみるものと、それは全く変わりません。日本は戦争後、「戦争を放棄」しました。そのことによって得たメリットは計り知れないほど大きかった、といえましょう。これは何よりも、事実として大きな「悔恨の情」の証拠であるという主張が出来たと思いますし、旧植民地の戦後再出発の遅れを後目に、これを免罪符に国際関係に復帰できたし、軍事的負担無しに経済関係に集中できた、というメリットを持ったのでした。今、何の手当も無しに、この戦後の財産を捨て去ろうとしているようにもみえます。
侵略の歴史を教えることを否定、拒否し、戦犯を合祀する神社をことさら国家意志の代表者が参拝して、戦犯の戦争責任を免罪する象徴的な行動を誇示してみせることは、いかなる国家利益の追求なのでしょうか?誰にこれを誇示して見せたいのでしょうか?私には、その「合理的」根拠はなかなか「理解」できません。それは、まさか、中国や韓国の人々に対して誇示して見せ、挑発して見せたいのではないでしょう。相手を絶えず怒らせながら、利害関係を有利に持とうとしているのは非合理なことだからです。 偶々中国との石油発掘権という国益を力で争うためのナショナリズム高揚とでもいうのでしょうか? そんなことを財界は望んでいない事は、明らかです。力づくで発掘して資源を一方的に利用することなど不可能ですし、そんなリスクの大きい投資など誰がしたいものでしょうか? 企業に支持されるはずがない。従ってまた、それに気づいた国民に支持されるはずがない。だから、それを誇示してみせる相手は、中国人や朝鮮人ではないでしょう。そうした行動を取る「合理性」は多分、国内的な党内事情によるのではないでしょうか? 大きな派閥に頼れない状況の下で、権力の基盤を持たない人物がポピュリストとして行動し、そうした視点から、自己の権力の最大の足場として何を彼は持っているのでしょう? 存在しているのかどうか、我々の前には決して物証を持って見えてこない、報道されない裏政治の極右連合に足場を求めていると言うこと以外に、本当の理由はないのではないか?と、そんな当てずっぽうをいってみたくなるくらい、それは理解不可能な行動です。 しかし、そうしたかれの「政治的信念」は、現実の前でどう貫かれていくのでしょうか? あるいは、その「信念」が自分の首をやがて絞めることになるのではないのでしょうか? 或いはその前に「信念」を曲げることになるのでしょうか? いずれにしても、私は彼に何も望むことはありません。事の経過からして、中国に侵略して植民地経営をした事実について、これを認め、遺憾の意を表するということを近いうちにどこかで、できれば多分国外でこっそりと、首相がしないわけにはいいかないでしょう。これ以外には事を「未来志向で」一応決着する道はないはずですから。この点について、うっかり「ナショナリスト」や「愛国者」になって、事を悪化させることに同調する方が増えないことを望むのみです。日本の若者が戦争の経験を素直に受け継ぐことが出来なかったのと同様に、中国の若者も経験の継承が具体性を持たなくなってきていることでしょう。共に戦争経験について教育を通して観念的に受け止めることになっていて、一定の歪みをもって来ているはずです。そうした歪みをもった方向に向けた「ナショナリズム」や「愛国主義」には冷静になることが、お互いに必要でしょう。
 東アジア人がお互いに仲良くなる事によって、国民にとってマイナスになることは何も思いつくことが出来ません。そのためには何といってもお互いを尊敬し合うことが前提でしょう。それはそんなに難しいことではないはずです。
(写真はリスボン市内のケーブルカーです。)