スペインの近郊農村を散歩して、

先日、50代ちょっと前かな?という年齢層のサラマンカのある友人夫婦が、「水の月曜日」にオルナソを食べに行こうと、彼らの田舎に誘ってくれました。(「水の月曜日」に田舎に出てオルナソを食べる習慣については、本ホームパージの「オルナソ4」を参照下さい。)田舎は、サラマンカ市から少しはずれたサラマンカ県の、人口200人前後の、何処にでもある小さな村でした。と、私は言いましたが、彼にとっては、勿論、そんな何処にでもあるものではありません。彼はその村に生まれ、そこの小学校で教育を受け、今はこの村から出て、サラマンカ市に住み、そこの大学で働いておられる、いわば生粋のサラマンカの知識人です。お父さんがその村の診療所で、たった1人のお医者さんをなさっていました。若くして亡くなられたそうですが、大変尊敬されたお医者さんだったそうで、何とその村の目抜き通りには、このお父さんの名前が付いていました。小学校に案内してくれましたが、彼はまるでこの小学校の卒業生の全員を覚えているかのようにこの小学校のことを話してくれました。もしかしたら、それは本当にそうかもしれません。幾世代も一緒に村の人は暮らしているからです。彼の小学校はあることでスペイン中に名を知られたことがある、というお話でした。それは、この小学校のバス旅行で、バスが事故に遭い、一瞬にして殆どすべての同世代の子ども達の命が、この村から奪われてしまったというお話でした。このお話は、その小学校の入り口の壁に今なお書かれていて、小さな村の1世代がかけてしまった悲劇を伝えていました。この村は今でこそ人口200に減ってしまいましたが、かつては500人ほどいて、様々な村の行事を楽しんだ活気のある村だった、と村を案内してくれながら懐かしんでおられました。スペインの伝統的集落は、都市でも農村でも必ず教会と広場を持ち、行政村と教区が密接な関連を持っています。{丁度、鈴木栄太郎が日本の伝統的集落=「自然村」と彼が名づけたものについて、「神社のない村はない」といったように、です。}勿論、集落の大きさや豊かさと、この広場の大きさや教会の立派さは正比例していると言って良いでしょう。この村にはお城はありませんでしたが、教会が村の一番高いところにありましたし、村一番ないし2番のの立派な建築物でした。ミサには、おそらく村人全員が入れることでしょう。しかし、それはやはり、他の村と比較すると、小さな部類にはいることでしょう。それは物量的規模においての話であって、そこで行われていることやその持つ意味においては、その集落の人たちにとって決して優劣はなかったのではないかと思います。例えば、私の育った田舎の小学校の校庭の半分もないと思われるこのplaza mayor中央広場で、闘牛が毎年行われ、村人総出で見物した、というのです。バスケットコートよりちょっと広いだけという円形の広場がとれるだけのこの中央広場でどうして闘牛が可能なのでしょう。サラマンカ市の立派な闘牛場を知っている私としては、信じがたかったので何回か念を押したのですが、闘牛が登場するところから最後のとどめに到るまで、すべて行い、しかも3頭やった、というのです。 彼の少年の頃は、何処の村にも、ドサ廻りの闘牛士一座がやってきて、 この広場に、村の牛車を総動員して、グルッと円形のにわか仕立ての劇場ならぬ闘牛場を作るのだそうです。 そして、いつもどの方向の路地から牛が登場するか決まっていて、そこには闘牛を入れておく牛舎があらかじめ造ってあったのだそうです。そこから、鼻息荒く牛が土を蹴って突進、登場してきます。 勿論、本当の第一級闘牛などは、やはり連れてこられなかったそうですが、闘牛は闘牛だそうです。 闘牛を放し飼いで飼っている広大な荒野の牧場に、誤って景色を見に入ったりしようものなら、命は保証できない、といわれています。飼い主さえ馬から下りて牛のいるところに行くことはしないそうです。 というわけで、村の闘牛は沸きに沸きます。ドサ廻りのスターは、赤いマントを派手に操り、刀剣を突き立てて見得を切ります。子ども達も、何年もこの試合を語りぐさにして、村人とバーで夜を過ごします。戦った牛は最後に血を流して命を奪われるのですが、その武勇は忘れられない記憶となって生き続けているようです。
血についての感覚は、子ども達にとってはやはり良い感じのものではないようですが、血を見ることの感覚は私達とは大いに異なります。マタンサ(屠殺)の日というのがありまして、村の生活の暦の中で欠くことの出来ない重要な一日となっています。家族によって正確に同じ日に行われるわけではありませんが、丁度、日本の村でのお餅つきのように、大体似た一定の時期に行われ、あちらの家でも、こちらの家でも豚の首に刃物を入れ、死ぬまでの苦しみにもがき泣く豚を見るのは、堪らないものがあったといいます。ドングリを食べてたっぷり肥った時期に行われるのですが、冷凍庫などないので、伝統的に手早く、豚のあらゆる部分を食べるように加工します。腸だけは一晩処理してから、翌日に腸詰めの材料にします。食べられない部分は一つもないといって良いのではないかと思います。血や脂肪は塩付け等にして保存して食べますし、そのための独自な料理がいろいろとあります。(その内の幾つかはすでにスペインの伝統料理として紹介していますのでご覧になって下さい。)日本では、現在殆ど精肉されたものの輸入に頼っていますから、内臓やひずめ、耳、血などを食物と考えていない向きがあると思いますが、スペインのような農業をしている地域では、こういうものを食物として利用しないと、1年は無事に過ごせないことになったでしょう。特に土地を持たない貧しい農業労働者、昔の人口の多くの部分は、豚のこうした部分の配分に預かり、肉屋のフィレなどとは縁がなかっただろう事は想像に難くありません。伝統料理にはこうしたものの料理が多くあり、今日でも立派な料理として知られています。マタンサの日には、当然殺したての肉があるわけですから、その日のお裾分けに集まる親族一同は、マタンサを手伝って、作りたての血の香りのする保存食のハムや腸詰めを分けてもらうのですが、この習慣は今日まで行われています。この日はだから子ども達にとっても、普段会えない親族に会えて、特別に楽しい日なのです。言い忘れましたが、現在は、彼の子ども時代のように家庭では豚を殺せなくなったそうです。家畜の診療所の検査を受けて、電気ショックで一瞬のうちに殺してもらい、家に持って帰ってくるのだそうです。しかし、マタンサの慣行は今なお健在です。
私は日本にいるときは小さな家庭菜園を耕して暮らしています。こちらでも、やはり私と同年輩の人たちは家庭菜園を趣味にしている人も多いように思います。言うまでもなく、日本の常識的な家庭菜園ですと、都会の場合はプランターのようですが、私の住んでいるような田舎ですと、小さな土地にトマト、キュウリ、ナスの類や、玉葱、ネギ各種、レタス、白菜、青梗菜、ホーレンソウ、大根、人参、ゴボウ、じゃがいも、サツマイモ、里芋、それにアスパラガスというようなものを少しずつ作っています。つまり、日本人の食生活は主として草食動物のそれで、私達の毎日は野菜抜きでは考えられないわけです。調味料、薬味、伝統的保存食、すべてが全く異なった食文化があります。
 しかし、こちらの家庭菜園というのはどんなものかご紹介すると、きっと多くの人が興味を持たれることでしょう。私のある知り合いの方は、専門の職業の勤務が終わると、毎日必ず家庭菜園に通っています。もう今月は夏時間となって、日本の5時にあたる時間は夏時間で2時間遅らされ、7時になります。だから、この人の場合、勤務が6時頃に終わりますので、つまり日本の4時にあたる時間に終わりますので、それから2時間農業をやってもまだ明るい8時、つまり日本で言う6時頃に終わることが出来ます。だから、彼は「夏が大好きだ」、といっています。ところで、彼の小さな(但し私の菜園の20倍以上)家庭菜園での農作業とは、主として家畜の餌やりと畜舎の掃除です。彼が飼っている動物は、鶏、七面鳥ホロホロチョウ、ウズラ、兎と山羊数頭だけです。さすがに、素人の家庭菜園では、大きな動物は飼えないようです。彼の家族の趣味は乗馬ですが、馬を飼育することは無理で、乗馬は週末に馬の飼育農家の経営する牧場で乗るのだそうです。作秋のこと、明日は10匹の兎の収穫をするといわれますので、聞いてみますと、首をチョンと切るのだと美味しそうに話すのです。「今年のトマトはできが良かった」と自慢するときの私の顔そっくりでした。「野菜は作らないの?」と聞くと、「そんなもの馬鹿らしくて作れないよ。作っている野菜は、高い香料だけ。」という話でした。大体、野菜料理は伝統的にはあまりありません。標準的な家庭での食料の生産の感覚が或いはおわかりになっていただけたでしょうか? だから毎日の料理も保存食の肉だけを毎日毎食食べているわけです。朝は牛乳とトーストだけ。11時頃、コーヒーとビスケット(ビスケットは豚の脂肪のかたまりの中に小麦やトウモロコシ、アーモンド等の粉を入れて練っていくカロリーの高いものです。)2時に塩豚のステーキとか、腸詰めの薄切りとか、ハムの薄ぎりとチーズとか、或いは内臓塩漬けのチャンファイナとかと野菜スープ、或いはポテトのフライ、等という食事をワインを飲みながらします。これはカロリーが非常に高いですから、こんなものを1日に2食食べるようなことはしないと思います。夕方、8時頃、散歩に出たり、バールでビールコップ一杯という感じでつまみをとり、夜10時にちょっとしたパンなどの軽い食事を取る、というのが食事の通常の平均的な仕方だろうと思います。毎日毎日、同じハム、同じ腸詰め、同じパンだけで良く飽きないものだと思うくらい同じ物をくり返し食べています。日本も農村ではかなり戦後までそうでした。大根のシーズンになると、いろいろな野菜はありませんから、大根のみそ汁、大根の煮付け、大根のぬか漬けで3食を食べていたように思います。最近は、日本同様、スペインも昔の食生活が変わってきて、3食何か替わったもの、インスタント加工食品などを多く食べる人も出てきて、栄養過多の不健康が大変問題にされるようになっています。因みに、こうした異国の食文化を輸入して食べる人が増えましたが、異国の食物は当然高価になります。スペインでは大根は非常に高価な食べ物です。しかし、肉は非常に安く、私たちもキロ単位で買っています。イベリア豚のハムは最も日常的な食品の一つで、突然やってきた人に出す食事は、大体この生ハムとチョリッソという腸詰めとチーズ、パンでしょう。普段来ない客が来ようものなら、これを出してきれいに平らげるまで帰してくれない、というのがこのスペインの習慣のように感じています。葡萄酒は断ることが出来ますが、そのご家庭の生ハムやチョリッソを断ることは難しいでしょう。食事をして、ちょっと挨拶によって来たときに、ちょっと辛い経験だったことも正直に言ってありました。
さてこのように豚飼育の肉食農業で暮らしてきたここの経済生活は、豚の生殖、飼育、屠殺をし、豚のあらゆる部分の保存食を食べ、その皮を加工し、もう一つの農村製造業を営んできたといってもよいでしょう。そうした豚放牧の農業を営む社会的な地域生活が伝統的な村の生活を作ってきたのです。水稲と野菜を作って生活している私たちとの日常生活全体の違いを実感していただけたらと思います。スペインのこうした近郊農村の生活は、勿論、50年前と比較すると「都市化」して、この友達夫婦のように、都市部に移動しそこで働いている人が多くなったばかりではなく、農業を営んでいる農業家族さえも、この村には住まなくなり、サラマンカ市に住んで、元の自分の家に通って農業をする人が増えています。伝統的な農業労働者も、当然、都市的職業に移動し、「中流化」しています。現在のスペイン社会は、幸せな人たちで一杯のようにみえます。しかし、同時に、低賃金労働を大量に季節的に必要とする「労働力不足」の農漁村では、事実上、次世代に亘って定着しつつある、大量の市民権を持たない移民が非合法に働いていて、今回の社民党政権の、これら非合法移民の社会的認知の政策となったわけでした。社会生活も、ラティフンデューム型の大土地所有の伝統的支配を一つの特徴としてきたカスティリアの旧社会構造も、もはや基本的に変貌して、復古することはないと考えてよいように思います。そうした旧支配層の基盤を引き継ぐ政党なども、今度は変貌する社会システムに適応して、「修正」し続けていくことでしょう。
 この村を一巡して広場に戻ってきたとき、私の目に、奇妙な徽章のようなマークが目に入りました。それは広場にある市役所の額の部分といって良いところに付いていて、聞くと、フランコのマークだと、さりげなく教えてくれました。また、ここにはフランコの大きな銅像が建っていたと指さされたところには、台座だけが残っていました。それは丁度、私の子どもの頃には、すべての小学校に活き神様の天皇を祀る小さな神社があり、毎朝、全校生徒が拝む儀式をしていたこと、また、台座の上には二宮尊徳という人物の子ども時代という像が飾られていたことを瞬時に思い出させるものでした。それは当時の日本と日本人そのものを端的に象徴するものでした。その日本のシンボルは退屈きわまりないものだったが、それに逆らうと必ず厳しい国家暴力や、町内会など大政翼賛組織の村八分を覚悟しなければならなかった存在でした。(今日でも、こうした旧社会を復古させようとする一部の自治体権力に対して、卒業式で君が代を歌わない教員の勇気は、非常に尊敬すべきものがあると、私は思います。)暗い想いが私の顔を思わずよぎったことでしょう。それについては、私達はそれ以上何も言いませんでした。
 フランコの像に象徴される近過去のテロ的な国家暴力時代については、始終、新聞に論説などが出ています。こうした暴力的国家統合に反対したナショナリストの一部の、今日まで続けているテロ行為は、新たな社会変動に適応・「修正」できなかった人たちの行動だとも言えそうに思え、70年代末まで続いた国家暴力の時代の政治社会病理の連続だという側面が大きいように想像しています。社会や時代は常に変わります。イデオロギーなどを硬直的に理解し、軍事的・暴力的に自己主張する場合、国家の場合であれ、党派の場合であれ、変動する時が来て、時代や社会そのものから、やがて支持されていたかのような梯子をはずされ、非常に事後処理に困惑して、生き残りを賭けた絶望的な暴力を続けて破滅することになる、というのは一つの歴史的教訓であるように思います。 今日は、小さな、しかし、典型的な今日的近郊農村の村の風景について、ご紹介しました。連れて行ってくれた、わが友達夫婦に感謝いたします。一緒に行って下さった、このご主人のお母さんにも感謝したいと思います。ありがとう御座いました。