人権てなんだろう?

春になりました。スペインの川は花盛り

(この記事は、一度ここに公開したのですが、不満で抹消してしまいました。論文みたいな口調ですが、論文としては極めて要件を満たさないものでしかなかったから、消してしまったのでした。しかし、こうした日記は、私がどんな風に生きているのか、自分自身分析して、自分の生き方を明確にしたいから書いているのだ、といえます。私も、もう終わりに近づいた年齢ですので、正直に納得していきたいと願う気持ちが強くなりました。理論的論文でも、現実分析でもない雑文ですが、そういう意味で現在の私には書く必要があります。そこで、その意味であえて関心のある方に読んでいただきたいと思う次第です。)


かねてから世界世論によって日本の人権擁護の問題が指摘され、その圧力に応える形で、日本で人権擁護に関する法律が論議されていると、二ヵ月ぐらい前のNew York Timesに寄稿している日本人の方の記事が報道していました。この世界からの批判というのは、日本において近隣アジア諸国やコロンビアなどの貧困に悩む国からの売春を目的とした女性の人身貿易を放置しているという批判で、この法律はこの批判に応えるためだという趣旨であったと思います。会社ぐるみの中国での大量買春問題が中国人の反日感情をあおったことは周知の事実であるし、多くの婦人が売春を伏せられて日本に連れてこられ、借金に縛られて日本から帰れず、売春を強いられている事実は、これも周知のことではありました。この婦人たちは帰国を願っていても、帰るに帰れず、売春業者の手から逃れて、公的機関に駆け込んでも不法滞在者という犯罪扱いで、人権を犯された被害者としてなかなか取り扱ってもらえないという不満を持っているというのが、これも最近の日本の新聞に出ていたように記憶します。しかし、こういう報道があっても、なかなか世論は厳しく動かないと言うのはどうしたわけでしょう。こういう事実に直ちに反応できない鈍感さに、私たちがある種の国際的常識を欠いているのではないかと、私は自責の念をおぼえるのです。その後の報道によると、この問題についての日本政治システムの対応は、政府がフィリッピン政府に対して、これら人身売買・売春業者の人身輸入業務から手続料を取っていることに対して抗議した、という事にとどまっていて、世論のがわからの政府の人権擁護の動きのの手緩さに対する厳しい批判はないように思います。日本企業の買春行為や日本に於ける売春業者を厳しく追及すべきでありましょう。
ところで、今報道されている人権法の問題は、国会では、報道規制を盛り込むことは是か非か、さらには部落問題の補助金の法的期限切れをめぐっての議論を焦点にして、護るべき人権の中身についての議論はあまりニュースからは聞こえてこないのはどうしたことなのでしょうか。
 もうひとつ、聞こえてくるニュースに、改憲を目指し、その際行われなければならない国民投票に際して、報道規制を目的の法改正を計画しているというものがありました。これらの報道に接すると、本当に、日本の(ネオ?)コン権力者たちの、国民世論による公的意志の選択に不当な統制を加えようとする強引な手法のおぞましさを感じてしまうのは、私だけでしょうか?
 やや唐突と思われる方もいるかと思いますが、私は、こうした幾つかの現象に接して、「人権とはどんなことを指しているのだろうか?」を考えてみたくなります。私は法律家でも政治家でもありませんので、全くの素人談義となりますが、世論の担い手のほんの一つの星屑ながら、まさにそれ故に、自分の考えを持ちたいものと思うのです。その際、私は、私の最近の関心から、「国際社会」に於ける人権問題の意義を一つの焦点として設定してみたいと思います。
 国際社会を視野に入れて、国民の行動を考えてみるとき、一つの重要な問題は、諸国民や諸民族が行動を選択するとき、護るべき世界社会規範はどのようなものであるべきか、ということでありましょう。そうした国際社会規範無しには国際社会はあり得ないからです。他方で、国際社会は、その社会成員たる諸国民や諸民族の社会が持つ規範・信念に基づく行動を無視して、こうした国際社会規範を設定することは難しいでしょう。言い換えれば、諸国民のアイデンティティ、或いはナショナリズムの問題と国際社会規範はどのような関係にあるのかを考えてみなければならないでしょう。
一国において国民内部の集団的凝集性がどれほど高く、どれほど挙国一致の行動とみなされようとも、それが国際社会の合意の可能性からほど遠い規範に基づいているときは、国際社会に受け入れられる可能性はすくないだろう事は明らかです。 余りよい例ではないかもしれませんが、最近の国際サッカー試合での規範問題を取り上げてみましょう。国際試合で、ポルトガル出身のイングランドリーグを代表するチェルシーの監督が、きわどい場面の危険プレーについて審判の判定を現場において批判し、地元チェルシーの観衆の憤激を煽ったとして、不適切な行為として出場停止と罰金を科せられました。スペインでも、最近のサッカー試合で危険行為を常習的に行うチームがあり、地元ファンの熱狂的応援の元で審判に圧力を加えていると言うことが指摘されていたりしています。もともとサッカー試合のような場合、際どいところで接触プレーや、意図的または意図しない違反行為が行われるわけだから、譬えその場でやむを得ない誤審があっても、審判の裁量は絶対とするというのが合意されている規範でしょう。これを地元ファンの圧倒的支持が得られるからといって、覆えそうとすることは規範に反する行為だとしなければなりません。ある国の国際サッカー試合で、地元試合で、球場側のマイクの指導の元で、ブーイングまで観客が一致団結して行うということがあり、やはり審判の判定をめぐっての抗議を切っ掛けにして、審判や相手チームに対する暴動まがいの行動があったと報道されています。どれほどナショナリズムによって高揚され、国民的に正当化されようとも、こうした国民的アイデンティティに基づく行動は国際的に孤立を招くことになるだけでしょう。それは明らかに国際的世論によって合意されているサッカーゲームの規範に反しているからです。このスポーツのルールは、自分らにとってどんなに政治的に敵対的な、何処の国のチームとの試合であれ、どんな人種や階級や、貧富の違いや職業の違う人が含まれようとも、平等に適用されなければならないと合意されていることは言うまでもありません。
このルールが擁護するものは選手によって代表される国家や民族の威信や、国民の「アイデンティティ」や利害ではなく、選手の安全であり、スポーツに関わる諸個人の基本的人権であるといってもよいでしょう。人権とはこうした普遍的に個人が人間として平等に認められる権利・義務を指すものと考えて良いでしょう。それぞれの民族や国家の多様性を尊重しましょうと言うことと、人権はそれらを超えたところの普遍的に優先されるべき共通規範を指すと考えることが出来るでしょう。これらは比較的に理解しやすい例だと思います。自分の地域や、国内だけに目を向けていては、こうした不法行為を犯していることは自覚できない場合が多々ありました。
覇権国家といえども、自国において正当化されているからといって、国際的に受け入れられない規範を国際社会の規範にしようとしても、容易に許されることではないことは、最近のネオコンナショナリズムの行動によって例証されているのではないでしょうか。同時に一国の政治家は、しばしば、「伝統的文化」にもとづく「民族的アイデンティティ」を定義して、それを政治的に動員する「ナショナリズム」に訴えようとすることがあります。実質的にあらゆる事が国際社会の協定の元に処理されなければならなくなった現代に於いて、こうしたナショナリズムを動員しようとする国内政治のあり方は、孤立を生むことに通ずる畏れを孕んでいると思います。一般的に、社会関係を形成しうる合意される規範は、関係の双方を構成する社会成員である個別行為者のアイデンティティに基づく行動を平等に尊敬しうるものでなければならず、同時に、関係の平和的安定的相互互恵的関係を満たさなければならない、という基本があるでしょう。私たちは、一社会の中の個々の行為者が、その関心を満たすために相互に関わり、それぞれの持てる資源を交換したり再配分したりして必要を満たそうと関わりコミュニケーションを持ち合う中で、こうした性質を持つ社会規範が成立してくる、と楽観的に、ないしは希望的に前提しています。行為者の権利義務を定め、違反を統制するようなものとして成立してくる、我々はそう仮定していると言っても良いのではないでしょうか。私は、こうした段階が、近代社会の成熟の中で歴史的に形成されてきたと考えていますし、 こうした希望の元で、革命やクーデターや侵略や帝国主義的戦争などを、もはや原理的には必要としないはずだという段階に到達しようとしていると思っています。国際社会の中で、戦争や侵略などがなくなるためには、戦争や暴力ではなく、国際社会のコミュニケーション過程の中で、基本的人権が国際社会的に合意される状態にならなければならないでしょうし、国際社会の成員がこの規範を守ることが出来る責任を負える状態になっていなければならないでしょう。こうした秩序維持の点で、各国家は国際社会に責任をとれなければなりません。他国が強制するのでなく、諸国家が自己責任をとれると言うことになって、初めてこうした国際秩序が可能となるからです。
 それでは、国際社会にしろ、国民社会にしろ、護るべき基本的社会規範、その法的規範はどのようなものというべきなのでしょうか。現在、基本的に常識化したと思われる考えでは、それは特定の地域の民族文化や国民文化をモデルとするというようなものではなく、Citizenshipの規範であろう、と思います。その意味で、今や時代はすでに新しい段階に入った事は明らかです。
Citizenshipの思想そのものは決して目新しいものではありません。一九四〇年代後半からの戦後に、この思想は明確な形を与えられ、福祉国家として国内的には実ったものであるといっても良いと思います。やや新しいと言えば、globalizationとともに、このラインに沿った国際問題解決の試み、国際協定が蓄積されていったという事実であり、この蓄積無しに国際関係の平和的秩序の構築は考えられなくなっていると言えるでしょう。 Citizenshipとは、一つの社会において、その構成員・公民のすべては権利・義務において平等に扱われるべきだという考えであり、それを超える何物をも想定しない、という社会の制度構造を意味するのではないでしょうか。そうしたものとしての権利・義務とは何かが、構築されるべき制度、社会を可能にする社会規範に他ならない、と思います。国際社会の一員であろうとするならば、例外なく護らなければならない国際的規範が設定され、それを守ることを国家が責任を持って可能でなければなりません。
このcitizenshipの中身の核心は、人権に他なりません。何が人権かは、社会的に合意され、歴史的に構築されてきたものだと思います。今、現代に於いてとわれる「人権」とはどのようなものでしょうか。 それは、例えば、具体的に、すべての公民に保証されるべき最低賃金、最大労働時間、健康維持に不可欠な窒素含有最低量、オゾン量、思想・信仰の自由、教育の水準、必要最低カロリー量、或いは福祉指標といわれる数値によって測定される項目の最低レベルの指定、などなど、明確に定義されて、法制化されてきましたし、また法制化を目標にし、各国がこの国際社会に参加するように国際社会集団、国際世論の圧力を加えてきました。これらの規範は国際協定されたり、それにとどまらず、国際的に合意した諸国はこれを国内的に批准し、法制化するなどの義務を担ってきました。こうした過程を経て世界社会を目指すべきだという考え方は、あながち夢想だとは言えない状況に達したと思います。
 これらによって私のいいたいことは、ある社会システムが基本的に制度化されるためには、それを構成する行為者、いいかえれば公民権・市民権を持つものには「人権」を優先すべきで、個人の欲望充足や個人の固有性とか地域の完全独立とか、民族文化の固有性というような固有なるものを、人権に優先させることはできない、ということを主張したいこと。いいかえれば、個別行為者がシステムを制度化し社会的に合意を与えるところの、すべての個人に保証しなければならず、且つすべての人が責任を持つべき義務となる社会規範は基本的人権とよばれるが、個人はそこで、例えば、基本的人権の故に、必要であれば、社会に対して資源の一定の「平等な」再配分を権利として要求できるし、個人はそうした資源再配分に応じなければならない義務がある。 こうしたことが社会的合意として保証されなければならないが、この再配分を要求出来るためには、その義務、システムを維持する義務行為が行われるような装置が構造化されなければならない。これは強権力によって強制されるようなものでは原理的にあり得ない。
そういうことが国内社会についても、国際社会についても同様にそのシステムの成立要件として論じられなければならない。この先の議論は私の手に余ります。少なくも、上記のようなユートピア的な社会過程が存在すれば、社会が可能となるといえることを望んでいる、といっても良いかもしれません。戦争や侵略や、競争相手を打倒することによって、ゼロサム的な自分の関心利害の充足は原理的にあり得ないとし、そうした敵対的な利害追求の「努力の成果」を基本的権利とし、その保障を公的に秩序付けようとする制度構造を、ここで私は社会とは考えない、と私はいっていることになるかもしれません。そういう私には、基本的人権を設定し保証していくことを核として最終的法が規定されるのか、或いは戦争、侵略、競争等による「私的所有」を核として憲法を定めるか、という事の二者択一問題は、今日本で、やがて国民に選択を迫るべき質問として検討されつつあると見えます。この私のものの考え方は、国家社会主義的な経済を望むというようなものではありません。ですから、形式的には現行の民主主義という制度や資本主義市場経済を原理的に否定する議論ではありません。人間主義に基づいて社会のあり方をたえずfeedback出来る社会にしたい、という希望を述べているに過ぎないのかもしれません。それはあまりに無力な、現代の典型的な悲観論者と共通の思想に過ぎない、といわれるかもしれません。「いつまで批判ばかりしていても事は始まらないよ」と、ある若者に言われたことを思い出します。しかし、現在の私は、事実としてそれを楽観して積極的に世論の担い手たろうとし、そこに賭けようと思って毎日裏町の隠居を生きています。私の最後の人生ステージの意味にしたいと思っています。そこで、私個人としては、「人間主義」と私がここでいいたいことをいづれ、説明してみなければならないと思います。それが価値の源泉となるはずですから。そして、その思想を信仰するものとして、私はヒューマニストだと、自分をよぶことにしているのですから。日本の神学も西欧の神学も中東の神学も、その作った「伝統的な世界創造と歴史についての」お話も、私は信仰しないけれども、それらは「人間主義」についての共通の価値観を育ててきた部分を持っていると私は直感的に「理解できる」ものを探しています。

(最新の画像:スペインの春を告げる風景の一つです。野原の川の水草が雪のような花をつけて満開になります。)