宗教と人権ースペインから (4月12日一部改訂)

リスボン、ジェロニモ修道院の中庭

ポーランド出身の法王パウロⅡ世がなくなった。法王の数々の業績が今改めて語られている。また、エル・パイス紙はヴァチカンの後継者問題に関連した伏線だろうが、ヴァチカンに於ける重要なスペイン人を3人挙げているが、このうち2人はスペイン・カトリックフランコ時代からの,かつての翼賛カトリック会の重鎮であることを明らかにしている。このうちの1人マルティネス・ソモス枢機卿は、ヴァチカン内の実力者であり、最保守に位置する人物で当面教王を欠く期間、葬式から法王の選挙事務に到るまでを仕切る最も重要な位置を占める人物で、次のカトリック文化圏をどのような方向で統合することになるかに関わる重要な問題として、今後の法王人事に着目していかなければならない、と言うことを間接的に伝えている。
 その国の大多数が抱いてきた宗教文化の持つ意味は、簡単に批評を許すようなものではないが、それが政治的なイデオロギーとして自覚的に権力に関わっている側面が必ずあり、それについては国民の間に政治的な幾つかの立場がある限りは、当然国民間に評価が別れることになるだろう。そうした現状がどのようなものかを理解しておくことは、その国民の文化状況を理解するには不可欠に必要であろう。例えば、総選挙後暫く時間をおいて、スペインカトリック教会は、特に『性』や生殖についての道徳問題について、現在の社会主義政党の内閣に厳しい批判をくり返し行うようになった。また、このスペインカトリックの代表の説得により、ローマ法王が同性愛者の結婚を人権と認める事への反対声明を出して、カトリック信者への指針とした。そのことによって多くの人に一種の「混乱」状態を生み出しているように思える。(註)
現状に於いて、スペインのカトリック教会は政府に対抗して保守主義イデオロギーの中核たろうとしていることは明らかであるように思える。旧フランコ政治を担ってきた保守主義政党も、ラフォイという穏健派の党首を立て、イメージ転換を図りつつも、このカトリック教会を、重要なイデオロギー的核心にあるものとして共に歩んでいるように思われる。例えば、同性婚や人口統制の方法、避妊や特にエーズ感染防止のための性行動の方法などについての道徳的な立場と保守政策的措置の主張は、私には、一面において弊害を含んでいて、頑迷な保守主義が現在世界の動向を逆行させようと権力を動員している点と呼応しているようにさえ思われる。これに対して、、同性愛者の結婚を人権の問題とする社会主義党の認識と、同性愛による行動をそれ自体として一般的に許容できる道徳的行為であるかのように考える議論との区別は必ずしも明確になされていないままのように思われ、これも混乱の一因となっているように思えるのである。
同性婚や、中絶、人工的な他人の精子卵子によるなどの人工的な性に関する近代の性行動についての傾向は、『「人間的自然」に反する面をもつ故に、その特定の行動のタイプについては非道徳的な逸脱行動としなければならない』、という主張は重要である、と私も思う。そうした性交行動についての規範が何らかの形で明確に人々の深層に根深く存在しないと、人間の幸福や社会の親族・家族構造を拡散していくことは明らかであるからだ。今までの社会構造だからという保守の理由からだけの根拠において、そう主張したいわけではない。この深い議論はここでは私の守備範囲を超えているので、自信はないがそういう立場を選択している。しかし、それにもかかわらず、この道徳観の主張はそのままではいただけない問題を含んでいることも確かだろう。私は、大多数者の場合、同性間の性行動を何故非道徳だと考えるかといえば、通常な身体が性を放埒に享楽する仕方として、異性間のみならず、同性間においても性行動をすることを規範の範囲に許容すると、異性間の結婚、生殖、養育の社会制度の構造は混乱してくるからである。その一つの良い例が、同性婚を道徳的に同等なものとすれば、生殖できないカップルである同性愛者が子どもを養育する事を権利とし人権として保障しなければならないという考えが相伴って出てくるし、それが可能であるためには子どもの養育を生殖と切り離す事を「通常のこと」としなければならなくなるだろう。こうしたことを何処まで是認するかは、もはや基本的人権の問題を遙かに超えてくる。従って、同性婚を人権とするという場合でも、一定の世論の制限論が出てくるのは当然であり、道徳論としてはそこに制限的な議論があるのは当然だろうと思う。しかし、現在までは、このような同性間の性行動は少数の例外的な稀なケースと認識されている。 従って、また逆に通常のタイプから「逸脱的である」故に関心をひき、刺激的な極端な『ポルノ』という眼差しを可能にしている。同性愛をそういう性文化として商品化し、消費している。だから、近代においては、それを基盤にして、一方では「ポルノ」とラベルされるものは、誰でも関心を持ち、だれでもその情報を消費している日常的なものと受け取る意識を醸成していると同時に、他方で、逆に、一般に、同性愛を、極めて非道徳的なポルノ行為として定義し、差別する視点が成立しているのではないだろうか。そしてそうした産業の市場が存在し、そういう行動を個人が私的な領域で取る限りは司法的に規制することは出来ないということになると、道徳的にとやかく言うことの方が『自由』に反する事になるかのように見えてくる。しかし、『自由』は市場における至上価値であっても、あらゆる制度において常に『至上の価値』であるとは言えない。しかし、ポルノ的視座から意味づけられる行動を、個人が『自由』に選択すべき標準的規範的行動の範囲内とすることは人間の自然を破壊することに繋がりかねないだろう。こうした場合、「個人の自由」という価値は、より上位の至上価値としての『人間主義』に道を譲らなければならない。その意味で、同性愛を大多数の人間の性愛行動として道徳的に許容することは、人間主義的究極価値の視点から言って認めがたい、と私は思う。社会的に価値ある行動として合意されがたいし、合意すべきではないのではないか?ポルノ的意味合いを与えられている限りの同性愛性行動は道徳的には是認しがい行動であるとすべきであろう。
しかし、そういう問題と、実際に同性間の性行動しかできない人間を社会的にどう認識し位置づけるかの問題は区別して考えなければならない。私は、多くの人によって道徳的に問題とされ、統制の対象となる同性愛行動は、ポルノ情報産業が生み出す「異常性愛」行動と「区別できないもの」となっているだろうと思う。そういう問題的状況があるのではないか、と思う。いいかえれば、ポルノとしての同性愛、が非道徳なのである。それが誤って同性愛者にまで一般化されると、問題は混乱してくるのではないか。ポルノとしての未成年者愛、近親愛などについては、あらゆる面から非道徳的であるから、また別な問題を議論しなければならないし、比較的疑問の余地はないだろう。ポルノ的視座から意味づけられた性愛観やその視座から性行動をもっぱら意味づけることこそ、非道徳的とする道徳的立場に立つとき、「同性愛者」という人間的種は、明確にポルノ主義者の同性愛と区別可能となり、初めて正当に認知可能となるだろう。(ここでは『同性愛者』を、同性愛を『人間的自然』とする人たち、と定義しておきたい。すなわち、身体的自然としてそれ以外にあり得ない人が存在しているという事実を指す。)同性婚の人権論はこうした道徳を基盤にして可能である、と私は考える。
社会の公民たる限り、普遍的に持つべき権利・義務を社会は人権として構造化すべきだという近代社会の構造的要素は、それ以前の社会と大きな構造的差異を創り出したことは周知のことであろう。ハンディキャップを持った人を異常な人間として奇異な目で見たり、見せ物にしたりした時代があった。また人種の差異を異常=非道徳(みんなと違うことは非道徳というタイプの道徳を規準として適用し、)または野蛮と見なした時代もあった。同性愛者の多くの人と異なった性行動の傾向は、独特な身体的差異に基づく場合が多い、ということは最近漸く明らかにされてきた事実で、従って、これを異常、非道徳と見るべきではなく、差異と認知すべきだという事は重要な最近の認識である。そうである限り、問題とすべきは同性愛者ではなく、同性愛者を非道徳な差別的なものとして取り扱う認識の方であろう。そして、そうした行為をポルノ化する情報産業等こそ非道徳的行為であるし、人権を無視する行為と考える。同時にくり返して言えば、こうしたポルノ的行為が差別的である由縁は、そうした眼差しが非道徳的であるからだ。ポルノ的眼差しは「人間的自然」に反する行為であり、『人間的自然に反する行為』を奇異な、猟奇的な眼差しで見ることによって享楽の対象とし、一般的にそれを商品化することによって、社会の基盤を崩す畏れがあるからだ。その意味で、その限りで、『異常な性行動』を享楽の対象とすることは非道徳的なことだとする倫理を堅持することは重要な問題なのではないだろうか。同性愛者の結婚、幸福な性愛生活の追求を人権の問題、公民たるものが認められる平等な権利・義務の問題とする見地と、同性愛を差別的に見てポルノ化する視点を非道徳とすることは共に両輪の関係にある、と私は考える。両者が同時に主張されてこそ、共に社会的に合意される認知となり得るのではないだろうか? 現代、自由主義は市場主義の責任問題に解答しなければならない危機におかれている。自由であることを価値とするためには、多かれ少なかれこの問題に解答しなければならない。性愛をポルノ産業化する一大産業部門をどう制度化するか、という問題は近代の社会構造に関わる重大問題の一つであろう。そして、新自由主義保守主義者のみならず、市場原理に基づきつつ、社会的な福祉価値を目的関数とする産業連関=制度間連関を追求する「社会主義者」もこの解答を用意しなければ、共にその立場は可能とならないのではないか。
宗教はその社会の人々に深い影響を与えることが出来、社会的合意に基づく社会統合に大きな機能を果たすし、様々な制度の深層からの維持に機能する。それ故に、現代、まさにますます宗教は多元的な関心から注目されてくるようになった。「個人の自由」は最も基本的な微妙な人権である。「ポルノ」的視座のような「思想」や「動機付け」、「感情性向」に関わる次元の問題は、「個人の自由」に関わり、出来るだけ「道徳的な」動機付けの次元の問題とすることが望ましく、教育や宗教などの領域に任せておきたい。例えば、経済界の倫理問題としたいものだ。この点は、目指す社会体制の如何にかかわらず、異なった社会諸勢力の共通の態度になってきている、と思う。スペインにおいても、カトリック文化について深い洞察と文化的「伝統の創造」無しに、この国のさらなる前進はないということは疑いもなく社会的な合意となっている。最近、東京で宗教に関する世界学会が開かれ、宗教は多面的な制度との関連から問題とされ、また、信仰を持つか否かにかかわらず、各宗教を深く理解して、その現実と世界の現状を不可分の関連にあるものとして問題にしたようである。時代・社会は着実にに変化しつつあることを喜びたい。また、その成果を学びたいものである。
 (註)正確には次の通り。3月31日付けのニュースでは、スペイン司教会議(CEE)はZapatero内閣に対して、じゅうらいAzunar内閣に認めていたembroyを科学研究に用いることに対する黙認の態度を変えて、これに反対する運動を展開することを表明した。これでこの種の表明は、社会主義政府になって3回目で、最初は安楽死問題、(スペインでは非合法)、第2は同性の結婚について、第3にこの卵子の実験使用となった。

 (写真は リスボンジェロニモ修道院の中庭です。)