カトリック、セマナ・サンタの合唱コンサート

Sbunaka2005-03-24

21日夜8時.30分から、Concierto Semana Santa 2005として、Coro Francisco Salinasの演奏会がありました。Director指揮者はVictoriano Garcia Piloさんでこの合唱団の創立者であり、指揮者です。曲目はすべて聖週間のために相応しい宗教曲で、スペインの大作曲家T.L. de Victoria を中心に、パレストリーナハイドンチャイコフスキーなどから構成されていました。
会場は、市の遠く離れた所からも、遙かに聳えて見えるサラマンカ大聖堂です。
大聖堂は二つの高い塔を持ちますが、一つはもう使えなくなった旧大聖堂カテドラル・ヴィエハであり、もう一つは現在日常的なミサなどにも使われている新大聖堂カテドラル・ヌエバです。旧大聖堂の中の中央祭壇のあるミサなどが行われる場所は、特別なコンサートの時などに会場として用いられています。コンサートはここで行われました。

正面祭壇の輝かしい極彩色の絵は、聖書の物語を描いているようです。この大聖堂の天井は、遠くから見える塔ですが、高い空洞を作っていて、音が非常に良く響きます。演奏中に美しい鳥のさえずりが、時々合唱と競うように聞こえるのは、この大聖堂の外部全体が様々な彫像や細かいレリーフで覆われ、小鳥たちの絶好の夜のねぐらになっていて、夕方、辺りが暗くなると、数千、或いはそれ以上かと思われるほどの小鳥の群が帰ってきて、細かい彫像やレリーフの中に入り込むからです。
以下、そのコンサートで歌われた歌の内容をかいつまんでご紹介しましょう。
キリストがオリーブの丘で、私はやがて信頼する友に裏切られて,捉えられ、死ぬことになるだろう、という事を予言する場面の歌、「私の心は悲しみで満ちている。死ぬほどの。弟子達よ、ここに共にいて、目を見開いてみていなさい。今やあなた方は群衆が私を取り巻いて集まるのを見るでしょう、そして貴方達は逃げるでしょう、-----、そして私は貴方達の生け贄となっていくでしょう。 その時間は近づいてきました。そして今や神の子は罪人の手に渡されるでしょう」という「私の心は悲しみに満ちている」という歌は、カトリック信者ならずとも、剣のように私たちの心に突き刺さってきます。刑場にひかれる前に、彼らはユダヤ人の「過ぎ越の祭り」の「最後の晩餐」に出かけます。そこでユダは「私が接吻するその人がキリストだ」と合図し、売り渡します。「彼は殺人を犯した。彼は本当に価値ある事の出来なかった不幸な人だ。そして最後に首を吊って自殺した」とうたう「私の友ユダよ」という歌。十字架を背負い刑場にひかれるキリストが、「私の慰めであった友が離れていってしまった悲しみ、その悲しみの涙で目が見えなくなってしまった」と歌うカリガヴェルント、そして道行く人々に「世の中の皆さん、私と同じ苦しみを感じているかどうか、良く注意して見てください」と訴える歌、「貴方達皆さんよ」、そして、「私の民、ユダヤの人よ、私は貴方達に何をしたというのでしょうか?聖なる全能の神よ、私を憐れんでください。」そして、磔の刑に処せられます。磔の時、キリストは叫びます。「神よ、私を見捨て給うたのか? 」そして再び叫ぶ、「父なる神よ、貴方の手に、私の魂をゆだねましょう。」そして頭をたれて、息絶えていった、と歌います「世は暗闇となった」。そして、「彼は本当に私達の悩み、苦しみを引き受けた。そして、それを担っていった。」「十字の木、手足に打ち込まれた釘はその重荷を支える。」と十字架を讃える「彼は我々の苦悩を本当に担っていった」という歌。十字架に架けられている間、苦悩に悩む「神の子の母」を悼む「苦悩する母が立っている」という歌。「慈愛に満ちたマリア様、主は貴方と共にあり、貴方を祝福している」と歌う「アヴェマリア」。こうした生け贄となったイエスの苦しみを想い、「貴方を崇拝します、十字架に架けられ、苦汁を飲まされた貴方を。私の魂の癒しとなりますように。」「私を哀れみ給え、貴方は私の希望です。私を憐れんでください」と歌う「オーイエスクリスト」。「主なるイエス」。「我らの父よ、貴方の意志が天国と同じようにこの地上に実現しますように。そして我らの貴方への負い目を許し給え。私達の犯した過ちを許し給え」と歌う「我らが父よ」。そして「ウビ・カリタス」すなわち、「愛のあるところに神がある。キリストの愛は我々を一つにしてくれる。キリストの愛を一緒に喜び、心から手を取り合って誠実に愛し合いましょう」とうたいます。そして、カトリック儀礼である「聖なるパンとヴィノの形で来られるキリストを迎える」歌が歌われ、「ハレルヤ」で終わります。
これらの宗教曲はラテン語で歌われます。合唱団の皆さんは、特に高齢者はラテン語を勉強したことがなくても、歌の文句を諳んじることが出来るようです。会衆の方達も、若い人を含めて、少なくもその歌詞の中身はよくご存じのようです。それは、今の高齢者が若者であった時代の頃まで、お祈りはラテン語でしていたから、その言葉を諳んじて言える人は多いのだそうです。カトリック信者は、丁度コーランを信ずる人たちがアラビア語をそれぞれの国の発音で読み、一つのイスラム宗教文化圏に生きているように、カトリック宗教文化圏を生きていたからのようです。現在はスペイン語訳でお祈りをしているそうですが、実は、いろいろな国のいろいろな作曲家がいろいろ違った曲を書いていますが、例えば、「アベ・マリア」は基本的に全部同じ歌詞ですから、誰でもその詞を理解して歌えるようです。
私はこの詞の意味を知るために、非常に苦労しました。結局、ラテン語ギリシャ語、日本語に堪能なスペインの言語学者の方に、教えていただき、意味を理解することが出来ました。しかし、日本語訳もあって、日本のカトリック信者の方は皆よくご存じなのだそうです。歌のおおよその訳を教えていただいて、実は初めて私もこれらの歌を歌い覚えることが可能となりました。
 ミサという儀式は、この歌が示しているような「教え」を、繰り返し思いだし、お祈りをすることを定型化した儀式で行っているもののようです。私達は罪を犯し、キリストは生け贄となって死んでいったのだと言うことを毎日日常的に思い起こす事を中心的な信仰上の儀礼としている宗教を信仰することは、いかにも悲痛で苦しいもののように私には思われ、日本の宗教文化のもとで生まれ育った人たちの気楽さにホッとしたりしますが、1年で最も重要な祭りの一つの「行列」が何をやっているかは、以上のコンサートで歌われた歌の文句で、もはや明らかだろうと思います。
宗教都市サラマンカには、歴史上重要な大教会や大僧院、教会を持つ大学があり、それぞれの教会から,日をちがえて、毎日幾つかの行列がでます。いずれもそれぞれの教会にある車のない山車の上に、キリストやマリアの像が飾られ、20人ほどの屈強の人たちが、裸足で、肩の上に担って時間をかけて旧市内を一巡します。テレビの映像に紹介されていましたが、勿論、肩の皮膚は破れ、血が流れます。山車の上には十字架を担って刑場にひかれていくキリスト、或いは十字架上で息絶えたキリスト、その前で涙を流すマリア、膝の上に抱くピエタの像などがあり、顔を覆った人々は列をなしてこれに続き、先程の歌の詞の光景が再現されます。
 聖週間は、開けて「復活の祝い」が来るまで、禁欲に満ちた、罪あるものがキリストの担っていった重荷を想い、苦しみを共にする「暗い」祭りの日々なのでしょう。子ども達も、この物語を畏れを持って信じ、この行列の苦しみに誇りを持って参加しているのだろうと思います。この週は、スペインすべての各地でこうしたキリスト受難の儀礼が執り行われています。