日本的集団主義について

私は今海外に住んでいて、日本の文献を読めません。ホームページからの情報は大変ありがたいものとなっています。
 野村一夫氏のホームページから、勉強になるインタビュー記事を読ませてもらいました。野村氏のこのホームページは、情報整理の方法などについて、今の私などには極めて参考になる方法を見せてもらったということと、いろいろ面白い情報がここに紹介されていましたが、たまたま、以下の「社会的ジレンマ」について著書を出されてきた社会学山岸俊男氏とのインタビュー(全5回)は、私の抱いてきた関心に大いに関わる理論的問題の提起となっているように思われ、その論理は私の問題の展開に理論側から一定の支持を与えることになるのかどうか、検討してみたい気にさせてもらいました。2000年のインタビュー記事で山岸氏としては、或いはもう古い議論でしょうが、 以下、その引用をしながら、私なりの学習整理をしてみました。

先ず「社会的ジレンマ」というのは、
社会的ジレンマとは、マイカー通勤による渋滞がそうであるように、こうすれば良いとわかっている協力行動(電車やバスでの通勤)を取ると本人にとって好ましくない結果が生まれてしまうために(遅刻や不快な思い)「わかっちゃいるけど、やめられない」状態になり、その結果、誰にとっても好ましくない状態(どうしようもない渋滞)になってしまうことをいう。社会問題論では代表的な基礎概念である。」とあります。
 「しかし著者は今回これをさらに展開して、一気に社会理論の域にまで高めた。ポイントは、行動を引き起こすものは心(動機)ではなく環境に内在する要因(インセンティブ)であること、だから社会的ジレンマを解決するためには、人びとが協力行動を取らざるを得ない環境を作って、みんなが協力するなら自分も協力するという「本当のかしこさ」を生かすことにある。」とこの理論の中心趣旨を野村氏は要約しています。論理的に先取りしていえば、要するに、日本的集団主義の中核制度、日本的経営様式といわれたインセンティブ体系に代わる新たな経営様式を作ることだ、という結論になるのでしょう。この点で、何か斬新な提案があるのだろうか?と期待がもたれます。
 私の批評する立場をも説明しながら、以下山岸氏の議論を学習してみます。
 行為連関として社会現象をとらえ、「何故そこに社会構造が再生産されたり、行為連関の結果が効率的・機能的にジレンマを解決したり、或いはその逆であったりするのだろうか?」という問いに対して解答しようとするところに、社会学となづけられる学問が成立している一つの基盤がある、と思います。私の関心からすると、社会システムを構成する社会的行為者を、多次元的な社会的位置の一定の多重的な位置の複合としてとらえられる、社会空間上の社会的階層的地位を占める一定の当該人口の中にある異なった階層の人たちとして定義するところから出発します。したがって、社会的行為者とは、そもそも異なった資源の不平等な配分を構造的に受けることになっているが、その結果として、各階層内部においても幾つかの異なった行為傾向を持つ人々があるとはいえ、社会階層構造という環境に対して、これらの人々がとる行動パターン(その枠組みとしての文化型)には、一定の傾向性が生じているに違いなく、これは、経済学がいう合理的選択によって行動が選択される結果というよりも、階層的環境からのインセンティブによって動機づけられている結果、ある環境適合的な文化型(文化資本)を身につけ、これに基づいて一定の動機を充足しようとして行動を選択しようとする環境適応行動の結果なのだ、と考えています。社会空間上の多次元的な多重的位置にある人人がとる行為連関において、諸個人は当然社会的ジレンマに陥るが、これを解決するために、何らかの社会的行為を選択しているということになるでしょう。その結果、選択された行為は意味充足的、動機充足的であったり、その逆であったりしています。私は、こうしたものとして社会過程を観察しています。
ここで社会空間上の多次元的な位置とは、希少な資源を巡る配分に関わるあらゆる関係上の位置を意味します。Gender、race、職業上の位置、企業規模、個人的ネットワーク、地域、学歴、等の社会空間上の位置の違いは、権力、情報、資本財、消費様式、文化資本、威信などの不平等な配分に関わりますが、1人の個人は、これらの地位の一定の多重的地位としての社会階層に配分されて属することとなっています。一般的にいって、これらの階層的地位の同一の地位に属する人は、環境適応的行動において一定のばらつきの範囲で異なった志向の行為を選択するとはいえ、その行動には一定の意識文脈のパターンを持っていることが観察され、そうした行為のパターンの人が、一定の比率で多数を構成している事が観察されます。マクロな社会体制レベルの社会的行為を理解するとは、こうした現実を解明することである、と私は考えています。 
社会学という理論枠のもう一つの特徴は、この問題解決の不可欠な一つの次元は、何らかの意味での社会的共同性を見いだし、それを制度化し、内面化し、動機づけて、諸個人のアイデンティティのレベルにまで深めることに成功したとき、そこに「社会」が成立すると仮定していることでしょう。そこに成立している行為の傾向性を正当化する文化的要素は伝統的であれ、感情的であれ、論理的であれ、等しく重要なものとして、どのように構築されているかを歴史的、地域的、階層的に観察するところに、科学の意味を見いだしている、と私はおもっています。そうした問題視角から、観察してみようという、一つの、しかし不可欠な科学の意義を私は信じているとでもいうべきでしょうか。勿論、こうした視角に閉じこもっていては、この視角がもつ意義を十分発揮し得ないから、諸科学との関連の中でこの視角を生かしていかなければなりません。しかし、私のような凡才がそんな野望を持つわけにはいかないので、逆に自分の観点をいつも相対化して、謙虚にならざるを得ないわけです。私は、戦後の1960年代に自分の視角を模索して定めていったのですが、誇大理論を述べる気恥ずかしさから、殆ど理論的なことについて発言したことがありませんが、現在、情報の科学的収集と分析には無縁で、老人の立場の気安さから、自分の発想だけから、いろいろとessay的な文章を書いて毎日を過ごしていますので、ここでちょっと私の妄想が繰り広げられる枠組みとなっている「理論」的立場をのべる必要もあるのではないか、と思う次第です。
 
 そこで、戦後日本という歴史的地域的階層的空間で、社会的ジレンマの解決の社会的共同的あり方は「日本的集団論」とか「日本的経営様式論」でいわれてきたような諸制度の社会的システムとして説明されるものであり、この様式が「中流社会」を結果することで、60年代に多数者によってしっかりと支持され、定着し、70年代以後、この維持を期待して90年代に到ったのですが、この間の世界規模化等の大きな環境の展開の結果、今や、これを「構造的に変動」させていく社会過程が進行し、日本的集団主義的行為原理では、社会的ジレンマは解決できない、という事態に到った、と表現しても良い現状を迎えている、と理解しても大きな誤りはないでしょう。だから、「日本社会論」の今日的な課題は、どう行動したら社会的ジレンマを解決できるかの行動原理がどのように展開しつつあるかを理解してみるということであろうし、どう行動したらいいかがまだ全く見えないという現状であるということであれば、ではどのように文化提言できるかということにもなるでしょう。
 山岸氏のもっともな論点は、日本的集団論を「社会的ジレンマ」の解決方法なんだと理解している、ところにある、と思います。そして、次のような問題の建て方をしている点に興味を惹かれます。
 
山岸 それは多分、人類がこれまで進化の過程で培ってきた「社会的ジレンマ」の解決の方法なんです。現代の社会の問題はそのままでは解決できる範囲を超えてしまった、と。
―― だから問題になっているわけですよね。
山岸 ええ、そうなんですよ。-----
―― 「みんなが原理」というのは非常に説得的なんですけど。社会問題でいうと、談合というのがありますね。談合というのは協力した方が業界の内部での利益になるという判断で、今回の受注はわざと高くしてやるよという構造にしているわけです。それは一つの「みんなが原理」がうまく作動しているわけですが、それは一つの業界の中で留まってるわけです。それをさらに大きなシステムの中で考えると、それが問題だということですね。

しかし、山岸氏に対して、ちょっとさしあたっては留保しておきたいのは、「みんなが原理」の解決法の一つのあり方である日本的集団主義を進化の過程で培ってきた解決の方法とし、「進化過程という基礎理論」を持とうとしている点である。この方向性は私には余り生産的だとは思えないことをお断りしておきたい、と思います。
山岸氏のもう一つの賛成しがたい議論は、集団主義を普遍的に適用できるスタンダードであるかのように考えていることです。日本的な集団主義と「集団主義」一般を区別しているのかどうか分からないが、共同社会の形成には幾つかの異なった文化タイプがあることは、現実の民族社会の多様性から見ても明らかでしょう。戦後の特定の段階に発生した「ニホン社会」主義が、日本集団主義の「普遍性」を強調しようとした議論を引きずっているかのようにも見えます。それはともかくとして、従来の集団主義はうまく機能しなくなった。 山岸氏はそれを次のように説明しているようにも思います。
集団主義は集団内部で談合して事を決定していく。そうすることによって、あるものを集団外部にあるものとして境界を設定し、境界外にあるものを排除することにより、潜在的な母集団内のコンフリクトを回避し、うまく集団内で利益配分を行う原理だ。帰属集団内部の「集団内の満場一致主義」、「全員平等主義」と、より上位の母集団に於ける「帰属集団外成員」の差別主義と虐めが並行するという意味では、母集団としての社会システム全体の視点から見ると、もともとこの社会的コンフリクトの解決方式は「不公正」社会といえる、と述べているようです。こうした集団主義に同調することによって利益配分に預かることの方が動機充足的であり、集団の外で自由に振る舞うことよりも利益が多く、コストが少ないという状況が生じているかぎり、社会的行為の社会過程はニホン的社会を構造化し維持することになろう。しかし、そうではなく、集団主義的行為原理による適応行動をとるとき、動機不充足的になる可能性が高い状況が生じてくると、そのような新たな状況により有利に適応できる人たち、{恵まれた立場}の人から集団主義を離脱して行くことになる。例えば、「業績主義原理」をとり、「個人主義」原理を主張し、或いはそれに同調して、集団主義的ジレンマ解決に批判的に行動することになる。ひとたび集団から出ていくと、より広い社会での標準となる原理、「公正」に振る舞わざるを得ない---。
  「集団の外に出たときには、公正に振舞わざるを得ないわけですね。集団主義の社会では公正は意味のない道徳なんです。集団主義というのはそもそも集団の中と外を区別する原理ですから不公正なんです。不公正であるからうまくいく。ところが集団から出て成功しようとするとどうしても公正に振舞わざるを得ない。そうしないと他の人が寄って来ないわけですよね。談合をやってある集団の中ではうまくいった。だけどそういう行動形態をみんなが取ることでだんだん不利になっていく状況というのができつつある。談合をやるような商売をするよりも、もっとフェアに競争したほうが本当はうまくいくかもしれない、利益が得られるかもしれない。そういう人たちがたくさんいて、そうした人たちの声が強くなっていく。今、規制緩和というのはそういうことだと思うんですけれども、我々は集団主義的な社会で集団主義的な心の在り方を持ってコントロールしてきた。しかしそうじゃない社会をどうコントロールしていっていいのかわからない。それが今の日本の一番大きな問題です。どうやって社会を自分たちでコントロールしていくかという原理がわからない。我々の知ってる原理は「みんなが原理」しかないという・・。そこで発想の転換が必要になってきます」


 山岸氏は、それなりに「構造改革」を日本的集団主義原理から、個別行為者の競争、新たな「市民社会」の「公正」原理という未知の構造への転換が模索されざるを得ない状況を生み出している、ととらえているようです。その限りで、私はこの議論に注目しておきたい、と思います。日本的集団主義者の議論の転換のこころみ、と理解しては失礼でしょうか。 ともかく集団主義ではうまくコストの安い形で正当化される「共同性」を社会過程は創造できなくなっている、という理解には、その限りで賛成です。

「自分たちが考えてきた集団という概念が一般的なグローバル化とかの中で見えなくなってきた、かなり拡散してきた。どこに線引きしていいかわからないという戸惑いなんでしょうか。
山岸 いや、それは多分そうじゃないと思うんですね。集団の境界を作って、境界の中と外を区別するような行動がワリに合わなくなってきている。そのことによって皆がそういう行動を取らなくなりますから、境界がぼやけてくる。
典型的な例が就職です。今まで終身雇用というのは日本的な集団主義的な心が強いからだと言われてきたんですが、それは違いますよね。社員は転職しないほうが得な状況が作られていたわけです。終身雇用制が一般的な状況で辞めたら損をします。だから辞めない。企業の側からすれば、終身雇用制は年功序列制を維持していくために必要な制度ですね。若い時に安く使って、年を取ってからお金を払う。そういう形で従業員を納得させるためには終身雇用制があった。従業員の側からすれば、「先延ばし」にされた給料を後から受け取れるという保証、つまり雇用が保障されないと納得しないですね。高度成長期が終身雇用制を一番確立した時期ですが、その時は労働人口が完全にピラミッド型だった。企業もどんどん若い人を採る。だからそのときには年功序列制の賃金形態は企業にとってものすごく安くつく雇用形態なんですね。
 今、何が起ってるかというと、年功序列制が崩れているわけです。すると、いつまでも会社にいたってしょうがない。今もっといい機会があったら転職しよう。こういった変化を、アメリカ的な文化が入って来たんだと考えるのは間違いですね。人口構成と経済成長の機会が生まれて、それぞれの人間にとって有利な行動形態を変えてしまった。」
 私も、ここ20年ばかりの中で、終身雇用、年功序列、年金給与というようなインセンティヴが廃棄されて、「柔軟な労働力」に置き換えていく過程で、集団主義の構造の陳腐化、バブル経済破綻の尻ぬぐいに追われて新たなインセンティブ体系を構築できないまま、集団主義廃棄に突き進んで行かざるを得なかった、といっても良いかもしれない、という趣旨の感想をもってきました。
野村氏は、この変化を
―「― 環境とか社会構造の中にインセンティブが出来上がった。転職しやすいインセンティブができたと考えたほうがいいわけですね。それが実際に人を動かす力になっている。」と理解して良いか、と聞いていますが、
山岸氏はそうした理解はさすがにしていません。新たなインセンティブ構造が出来上がっていったので、そうした環境に合理的に対応する形で共同社会の秩序が出来る過程が進行している、ということはさすがに考えられてないようです。資本主義的企業が先ず行動を秩序に誘導できるインセンティブ環境を作り、自由な個人の合理的志向が新たな段階の構造を生み出す、等ということはさすがに安易に考られないのでしょう。議論はここでとまっています。現実はまだ予測不可の不安な状態にありますから、当然でしょう。
個人の社会的行動がどのようにして、新たな構造を生み出すことになるのか?山岸氏は進化論等というとてつもない議論をここに持ってくることになっています。私は、世界規模化に適応する行動の結果としての世界社会の動向という中に、新たな構造変動の方向性を希望的に予測しているものですが、どうでしょうか?
 現在の私はしかし、もう調査をする等という立場にはありません。この視点から、しかるべき情報と思えるものを、山勘で探し、科学的議論というよりもessayとして書きつづり、若い人の仕事に期待する他ありません。
「山岸 「社会的ジレンマ」との関係でも、これまでは賢く考えることが「社会的ジレンマ」の解決につながるとしたけれど、今度は「合理的」に考えないで考えないことが解決する方法につながる可能性はないか、ということですね。
―― 一見、愚かな感情のもつ賢さ、ジレンマ回避能力、というものですね。
山岸 ええ。それは人間の脳に組み込まれていると思います。おそらく脳のアーキテクチャーに組み込まれていると思うんです。今はそういうようなことを調べる実験をしています。
―― さらなる発展を楽しみにしています。本日は長時間ありがとうございました。」とこのインタビューは終わっていました。

(聞き手 野村一夫、テープ編集 森田恵子、構成 原口佳典、2000年7月14日、PHP研究所にて)
以上、野村一夫氏のホームページからの引用。urlは、
http://www.socius.jp/works.html