悪夢

11月末付けで, weblog hatenaの日記で、「日本人のアジア人としてのアイデンティティ」(つづき)を書きました。小泉氏に対する中国側の「靖国参拝」に関する発言、それに対する小泉氏の対応に端を発して、若干の議論をしたのですが、当地国際版1日の朝日新聞で、朝日で行った電話による全国世論調査の結果では、小泉氏の靖国参拝「続けた方がよい」が38%、「やめた方がよい」39%となっていて、「続ける」がやめるより多いのは70代と20代で、これら世代の回答者の4割を超えるということでした。70代以前の人は、多かれ少なかれ戦争に直接参加した体験者で、戦争への参加を、「お国のため」と確信し、それを究極的な人生の価値として、そのためにあらゆる事の意味づけをしてきた時期を持った人々ですから、お国のために死んだ人を祀るという趣旨に賛成である人がいることは「理解できる」感情だと思うのです。しかし、20代の半数近くが「首相の靖国参拝」に賛成であるというのはどんな趣旨から賛成しているのでしょうか?私にはその意識文脈が「理解」できません。その態度が好き嫌い感情からか、論理的推論によるのか、何らかの固定観念として受け継いできた習慣的な意識の流れからか、あるいは事実認知として、単純に「日本人はお国のために死んでいったのであって、」中国人の言うように「日本人は侵略のために中国等で多くの中国人を殺した」のではないと「事実認識している」のでしょうか? そうだとすると、やはり最近の歴史教育は修正されるべきだという中国の人々の深刻な国民感情も分かると言うべきでしょうか? こうした20代以下のこれからのこうした「事実認知」に基づく判断は、地球化と国際化の時期において、余りにも深刻な結果を持たなければよいがと、いささか深刻に心配になります。国際的な場の中で、時々特定の国々の方々とご一緒するときがありますが、その国の若い人たちが、世界の常識とことなった事実認知に基づいたアイデンティティからの発言や行動を多く見せることがあります。勿論、何が常識かは常に批判的に検討しなければなりませんが。それがその国の政治情勢と強く関連し、政府の見解が極めて特異なものであったり、国民の世論形成が画一的に政府見解によって水路づけられている性格の強いこととむすび付いている事が実感されることがあります。その国は、権威主義的政治の統制力が大きい国であったり、世界の情報に国民が疎くなっている国の場合もありますし、戦争などを現に行っているために、国民全体の判断が偏ってくる国民の場合もある、と思います。或いは、あまりに貧しく地球化の影響の外にある場合もあるでしょう。しかし、いずれにしても、国家の政治教育のあり方の影響の強さというのは、大きなものだと言うことを実感します。その影響はとりわけ若い人達に顕著に現れるでしょう。日本では、80~70才前後の「指導力」がとりわけ大きい分野は、政治と教育界であろうと思います。最後の戦争世代の踏ん張りは、ここに来て非常に目立っているようにも感じるのです。振り返ってみますと、日本が高度成長の段階に入った時期、「大きいこと」と「若いこと」は無条件に良いことで、1970年代〜80年代に、若い同僚が60前後の人に「白髪が増えましたネー」とか「年をとるとオシッコがなかなか出なくなるんですってネー」と言っていたときの何とも優越感に満ちあふれた顔を思い出しますが、90年代末頃からは、高齢者がすっかり元気になり、やがて人生100才時代に入る勢いで、今まで自分たちが作り上げてきた国民総年金制度時代を迎え、全員積み立ててきた年金を手にして「若さ」を誇ることになりました。今、70~80才代の人たちの息子・娘は、その高度成長期の栄華の絶頂に青春を生きて、親たちと高度消費を共にして消費階層としての生き方を競うことだけを学んできたことになったのかもしれません。90年代に40〜30才前後を迎え、まもなく権力の頂点に立つ世代は、その親世代である高齢者に対して、消費階層上の「ハイセンス」を誇り、漫画の分からない世代、カラオケで演歌や軍歌しか歌えない世代、たかだか「進駐軍ジャズ」や「宝塚シャンソン」しか分からない「オジン」の上司向けに、○○上司用の演歌レパートリーを用意して、秘かに後の同僚との2次会で盛り上がる、という優位を疑うことなく誇ってきました。しかし、やがて、90年代も後半に入り、この人達の親たちも企業を去る時期に入って、孫達もバブル以後の地球化の中の自由競争を戦う企業の働き手となるにいたって、再び階層分化は鋭くなり、多くの生活の厳しい人たちが生まれてくるに到りました。この現在という時期に、80~70代の人の孫達は、何と「靖国参拝」を40%もの比率で支持するに到ったのです。私は正直に言って背筋が寒くなっています。高齢者の1人である私が日本にいない間に、何か非常に、この数年で日本の政治的風土が変化したのでしょうか? 例えば、こんな夢をみました。
 私たちの先輩である74-5才以上の人は、戦争に行って銃を持ち戦った経験を持っていましたし、「お国のために=天皇陛下のために」戦うこと、お国のために働くこと以外に、生きる意味というものはなかった時期でした。それは誰に聞いても判を押したようにそう答えたものです。自分の人生のために働く等とか、自分の人生の意味は自分らしくあろうとすることだとか言う様な回答をまともだと思う人はなかったし、そうしたことを口にすると、「国賊」扱い、「非国民」ということになって、生きていくことが難しくなったものでした。東アジアのある地域では、今なおその当時の日本をそっくり思い出させるような国がある事は、若い人たちには分からないかもしれません。人はこの時代、皆「近所」の人を秘かに「最も危険な人たち」、「自分の人生を陥れることの出来る人たち」と懼れていたものでした。しかし、他方で、「お国のために生きることこそ、働きがい、生き甲斐」であることを疑う人はほとんどなかったのではないでしょうか。しかし、1945年以後の数年という年は、この幻想を一挙に崩壊させ、幻想から人々を目覚めさせた年でした。それから10~20年、30年間というものは、「お国のために私は働くのだ」「人は皆、お国のために働くべきだ」などという人を見いだすことは殆ど不可能だったでしょう。そういうことを考える人が仮にあったとしても、特に政治家の中にはいたでしょうが、それを公言することは、最近の少数の例外を除いて、大いにはばかられたことだった、と思います。
 ところが----、私は夢を見たと言いましたが、それはこんな夢です。
 以下のようなことを今まで一言も聞いたことのない昔の友人が、ある日、この異国を尋ねて来ました。この国やその他の国に旅をしたこと、自分は総合商社で若い頃に、高度成長期の日本経済のために、さまざまな後進国との貿易に携わってきたこと、今は非常に早い退社をして、第2の貿易人生を小さな会社で過ごし、先頃定年を迎えたと回想をひとしきりきかせてくれました。そして、振り返ってみると、「俺の人生は何の意味があったか、明らかに俺はお国ために戦ってきたのだ、お国のためでなかったら貿易会社なんかで何時までも働いていなかっただろう----」と仰有るのです。私は思わず咄嗟の対応に戸惑いました。そして暫く経って、「アー、振り返って、この今、人生をこんな風に意味づけることができる日本になったのか----」と私はおもったものでした。寝汗がびっしょりの夢でした。私の小学生時代の風景が次々によみがえりました。教室の端から端まで小学4年生の子供をならべておいて、次々と往復びんたを張っていく先生の顔を思い出します。そして、この男子の軍国主義の熱血先生に熱い眼を送る母親達の参観日の風景を思い出します。やがて、この母親達も、町内会長からの命令伝達を受けて、本土防衛で竹槍を持って海岸に送られ、親が帰ってこない留守番を子供達だけで何日も続けたことを思い出します。何日も海岸で塹壕を掘っていたのだという話でした。そして、「玉音」の聞こえる日が来ます。小学校の庭に集まった大人達は皆泣いています。-----「天皇陛下のために、お国のために、指導者を信じてみんな死んでいったのだ、それが一切を失って負けるなんて事があったのか?----」
 本当に、日本人は変わってしまって、そんな夢を見なければならない現実の日が来たのでしょうか? 主権者たる日本人が平和主義や人間主義を忘れていくなどということは、悪夢以外ではあり得ないことと思いたいところです。それが単に悪夢であったというのなら、つい1970年代半ばまで、軍国主義日本とよく似た社会だったスペインにいるからそんな幻想を抱いたのでしょうか? それとも内に潜んでいたマッカーシズム的狂気が目覚め、不足する石油資源を巡って、或いは中東の一民族による占領と、宗教の大儀をかざす御旗のもとでの戦争を巡って、一大覇権国が宗教的保守主義の復活のエネルギーで走りだし、そうしたアメリカと対抗的地位に立たざるを得ぬ、ヨーロッパの不安を感じているからでしょうか? 私には、こんな悪夢を再び見る日がくるとは思えませんのでしたが----。世界が私が好きになれないもう一つの選択肢の方向性に、一方の足を踏み出したという不安が私を襲います。怖くても、不安でも、異なったもう一つの選択肢を選択したいと私は告白しなければなりません。かつての軍国主義などになるはずもない、と若い皆さんはどれほど思っているのでしょうか?私もかつてのような軍国主義や嫁や姑の社会に戻るはずはないと思います。しかし、正義の名においてであれ、民主主義の名においてであれ、戦争に協力し出すと、国民はどれほど愚かになれるかは、恐ろしいくらい間違いのないことだろうと私は確信しています。平和を守りいかなる戦争にも参加しないのが日本人だという、ここ半世紀に作り上げてきた日本人のアイデンティティを先ず揺るぎなく私も主張したいと思います。