日本人のアジア人としてのアイデンティティ(つづき)

もともと、スペイン語は地域のアイデンティティ問題と関連してnormalizacion、ないしnormativizacion問題を持っている、とされていることは良く知られている事実です。ここではこれを詳細に考えることが目的ではありませんが、一つの国家内に、異なった言語を発達させること、拡大することを計画することは、そうした問題を持たない単一言語、単一民族の国民の理解しがたいことです。100キロ行けば、異なった言語の民族が居ると言われるヨーロッパ社会が、固有の言語という最も基盤的なシステム的な文化のみならず、その上に発達する固有の民族文化を持ち、民族のアイデンティティを維持してきた諸民族を内に含みながら、多様な民族文化を統合していけなければ、一つの国民国家という単位であれ、それ以上のヨーロッパ共同体であればなおさらのこと、一つの社会として存続できるものではないでしょう。長い歴史の中で、異なった文化を持った民族が多重的に侵略し、征服し、国家の境界を複雑に変化してきたヨーロッパ諸国には、一国家内にいろいろな民族文化が内包され、闘いあってきました。こうした歴史の経過のなかで、近代の国民国家へと変遷していく過程は、それぞれの文化によって人格の尊厳とアイデンティティを維持してきたものの間での社会統合の智恵として、実は基本的人権思想を発達させてきたと理解できるのではないでしょうか。大枠のヨーロッパの共有思想、科学と呼ばれるもの、キリスト教ギリシャ・ローマ思想、こうしたものの中にある「普遍的」文化要素を確認しながら、多様な異なった宗教・宗派・思想・信条の自由、寛容の思想を発達させることによって、ヒューマニズムという近代思想と基本的人権思想という共同文化を創造し、それを共有し、それを各民族に拡大、普遍化、基準化する方向を見いだして成功してきたのが近代思想の成功の由縁であった、と私は思います。こうした近代は、しかし、均等にヨーロッパの各地域に発達したわけではなかったでしょう。例えば、スペインでは1930年代共和制の時期に、強権的な国家統一ではなく、異なった民族文化とアイデンティティを持った自治州の連邦的な統合を理念に掲げるに到りましたが、Francoは強権的にスペイン語=castillano とし、他のminority言語を根絶しようとする言語政策をとって、国家の強権的統一を図って、この「近代化」の方向を挫折させた、といえるように思います。この時代に生きた自分の母語を禁止された人々の苦痛は、今日多くの周辺の人から直接聞くことが出来ます。これは私が今住んでいるカスティリヤ イ レオンの外部に旅をしますと、近過去の生活体験として一層日常的に耳にすることが出来ることです。最近の選挙による政権交代は、こうした経験をした人たちのアイデンティティ回復の問題として、非常に重要な問題を含んでいたと思われます。
 この独裁者の強権的国家統合政策は、言語を根絶するどころか、地域の反スペイン的・反カスティ−リャ的亀裂を生み出し、民族言語運動と自治体自立運動をむしろ正当化することになりました。どの言語にも優劣など存在しない。「スペイン」語はカスティリアの方言でなければならない、ということは正当化できないし、国家の公共的な言語はカスティリア語でなければならないという議論は、民族の誇り、その尊厳の意識を踏みにじるものである、という議論になって、スペインという国民社会の枠組みを疑うものはもはや極めて少ないとしても、さらにそれが統一的な国民であり国民文化を持ち、統一言語を持つという事が国民的合意に到る歴史的経過は、非常に遅れてしまった、といえないことはない現実を生み出しているわけです。
旧植民地の独立国家ないし国民社会に対し、かつて植民地を持った国が「宗主国」意識を持ち続け、或いはその旧植民地の中のある民族がその帝国に対するroyalistであり続け、そうしたものとして主権を握ろうとして、その他の民族とヘゲモニーを争っている実情があるところでは、政治経済上の格差、亀裂の構造と、文化や民族的アイデンティティの葛藤の構造をも持ち、人権思想のような制度も発達できないまま、国民社会としての秩序も難しく、場合によって、テロ活動と国家暴力の血なまぐさい戦場になるという現実を、私たちは知っています。南アメリカの歴史の中にも、その教訓の事例を見ることが出来るのではないでしょうか?スペイン語とラテン・アメリカ語の関係についても、スペイン語「本国」に於けるカスティーリアとバルセロナバスク、ガルシア、その他の幾つかの自治州との関係と、一見相似的な議論があるようですし、共同のアイデンティティと固有のアイデンティティの形成の歴史が、今新たな段階に到達したかのような期待にみちた議論がなされたようでした。スペイン語文化圏の共同体としてのアイデンティティが可能であれば、地球化と国際化の進行する世界、或いは一国の覇権のもとで苦労している事を意識している諸国として、南米共同体という21世紀の方向性を模索する選択肢がうまれる事に希望を持つことは大いにあり得ることでしょう。
 遅れて植民地を持ち、それを拡大しようと試み、侵略に一時成功したかにみえながらも、結局、それに失敗した国の歴代の首相が、その事実を認めようとしない事実があります。なぜ、このような相手の国から見て当然の事実認知を認知しようとしないのか? 生ませた男が誰かを、女は疑いようもなく事実として認知しているが、何故その男はそれを事実として認知しないというようことが、罷り通れるのか?という問題とこの論争はよく似ている様に、私には見えます。このためのかつての戦争は、盗った、盗られた、返したよというような事で決着する問題でなく、人格の尊厳、国民・国家としてのアイデンティティの問題、また国家の威信の問題にも関わって問題解決しなければ、こじれる一方の、そうした種類の問題を作ったのではないでしょうか。この問題は、近代以前の世界では、場合によっては報復の戦争の理由とさえなり得る重大問題なのではないでしょうか?
 それでは何故、それほどまでに、知らぬ存ぜぬ、あるいは「もう2度とかつてのような戦争をしないという反戦の誓いのために靖国に参るのです」と強弁するのでしょうか? 反戦の誓いなら靖国に拘ることは全くないことは世界周知のことであるにもかかわらず、です。私には次のこと以外に思いつくことは出来ません。つまり、「戦争へと国民を動員し、絶望的な闘いのなかで多くの国民を死なせてきた責任を感ずるものとして、侵略の野望のための戦争と認めるわけには行かない。国民のための必要、東和解放のための戦争という大義名分のためにあなた方は死んだのです、と言い続ける責任がある」と思いこんでの上のことなのではないでしょうか?
 戦後と戦前には政界に人的な連続性があることは、総理について言えば、幾つかの例外はあっても、基本的には今なお変わっていません。もし、上記のことがその理由であるならば、こうした「責任感」はもう無用にしてもらいたい、と思います。
 21世紀は、国家という枠組みが超えられていくだろうと予想されることから見ても、歴史の流れは近代を超えつつあることは明らかなように思われます。地球化という否応ない事実の進行のなかで、国際化、さらには国際社会形成による問題解決を模索し、場合によって、世界の人間は、近代世界のヘゲモニーと葛藤を起こさざるを得ない事態に今日さしかかっていると思います。その現在の一つの焦点はイスラエル・中東問題であり、地球環境問題でしょう。日本はこの歴史のなかで、今どこに向かってあるこうというのでしょうか? 日米共同社会も勿論視野のなかにいれて今後も進まなければならない道でしょう。しかし、同時に、何時までもそれだけで済むとは思えません。今年ほど、その綻びが見えた年はないでしょう。アジア人である自覚の再形成も非常に緊急性を持ってきているのではないでしょうか? そうしたアジア人としてのアイデンティティの再形成と、その人格の尊厳性の尊重の上に立って、アジア国際社会の一員としての行動を真剣に考えていくべきではないでしょうか? その方向での第一歩は、「戦争責任者」であることの「良心」など国民の良心ではない事を国内的には悟ると同時に、アジア人として、共同社会の責任を負う一員として、お互いにその人格を信頼してもらえるよう、中国その他のアジア諸国に侵略したことの「国際社会的事実認知」を受け入れるべきだと思うのです。国家の代表責任者の「靖国参拝」問題とは、私たち日本の国民にとっても、そうした問題なのではないでしょうか?
そうすると、近代を超克し、世界社会への歴史経過にあるアジア人としてのアイデンティティとはどのようなものであるのか?という問いがでて参ります。それは漢文教育や儒教道徳をカリキュラム化するとか、「社会奉仕」という科目を必修化するとか、そういった日本人の中のアジア的なるものを保守する議論を意味するのでしょうか? 例えば、アジア共同体などというとき、ではアジア社会での共用言語は何にすべきなのだろうか?などという問題も具体的には避けられないでしょう。ヨーロッパ共同体は、自ずと戦後の経過のなかで、皮肉なことに英語が共用言語になりつつあるように思います。若い世代は、英語を自由に操ることに、大きな喜びを感じて、旧国境を越えて不自由なくコミュニケーションをとりつつあるかのように思えます。それは一時的な反ブッシュ意識の高まりなどでは消えることのない流れのように思います。アジアでも、若い世代では、そのうちに英語がもっと重要視されていくのではないかと、私は想像していますが、どうでしょう。或いは、韓国語、中国語が、日本語と共に重要視されて学ばれていくことになるのでしょうか。それは大いに喜ばしい事のように私には思えますが、現状では私にはちょっとよく分かりません。こうした各論は日本でもこれからでしょう。これから大いに現実的な問題になっていくはずですし、またそうでなければならないだろう、と夢想しています。