日本人のアジア人としてのアイデンティティ

今日、11月23日付けの朝日新聞国際衛星版が配達されてきました。そのトップ記事は、「中国主席 靖国参拝 中止求める。首脳会談 首相は持論展開」という記事でした。是非一言、書いておきたいという気になりました。
 中国が急速に発展し、今までのように、無視して平気でいることが不安になってきた巨大な政治的存在になるにつれ、さすがに国際感覚の、ある意味で一面的な日本の首相も、中国との関係修復に乗り出さなければならない、と考え始めたのでしょうか? いや、日米「同盟」の力を誇示しつつ、アジアとさらに「密接な関係」を作って、地球化された巨大市場に有利な立場、世界政治で優位な立場を築こうとしているのでしょうか? いずれにしても、東アジアとのより密接な関係構築の必要を感じて首脳会談を持つということは、好ましい事態の動きであるように思えます。そこでまず、中国側は、障害は靖国参拝にあり、「歴史を鑑に未来に向かう精神で、適切に処理して欲しい」と求めた、とあります。この問題を異なった対抗的イデオロギーを持つものとのゲーム過程での発言として、無視して通っていくことがどの程度可能なのだろうか?ということを考えてみたくなります。日米「同盟」の力を持ってする国家間関係の方向付けは、今までと、これからの日本の国民の望むところとどんな関係にあるのでしょうか?
 ここでは、単に国家内の問題だけでなく、国際社会についても、その国際社会が社会的に統合されて成立するためには、そこに何らかの程度の共通の社会的アイデンティティが成立している事が必要であろうという点から限定して問題を考えてみたいと思います。東アジアが東アジア社会として、何らかのレベルで「一つの社会」を形成する方向に進むこと、例えば、「東アジア経済共同体」は必要であるのか? 可能であるのか?という問題の最も基礎的な現実問題の一つに、東アジア人のアイデンティティの問題があるだろうと思います。世界史的に見れば、その問題は東アジア宗教の問題と強い関連を持っているだろうと思いますし、こうした視点から「儒教文化圏」問題を、50-60年代アメリカに全盛を見た近代化論との関連で論ずる議論も、アメリカの社会学者などによって行われていたように記憶します。現在の私は、そうした議論の現段階を知りません。しかし、最近、下世話なところからの話で恐縮ですが、私たち日本人一般庶民も、中国―日本のサッカー国際試合のテレビ中継を通じて、同じ漢字文化、儒教文化を持ってきた人間としての親近性の感情は、必ずしも共有していると楽観できないことを知りました。その原因を、両政権のイデオロギーの違いとして認識できないことはないし、対抗を続けるかどうかは、両国民の選択の問題でもあるでしょうが、この現実が「アジア社会」の形成の障害となるだろう事は容易に想像できることではないでしょうか? そういう問題として、アイデンティティの一つの重大な構成要素である歴史的事実の認識について、一定の合意を持つ問題が、中国の側から提起されていると考えるのです。それに対する回答として、「靖国参拝は私の信念」という回答は、あまりに権威主義的で、お粗末、無内容ではないでしょうか?
 私は世界社会はいかにして可能か?という関心からみています。地球化が進行し、国際化が否応なく地球上のすべての国家や国民、諸民族の課題となっているという前提です。一つの事実として、ヨーロッパ共同体社会が形成されつつあります。少なくもこの共同体を形成しつつある諸民族は、ヨーロッパ内の諸国民・諸民族の異なった利害や価値観の問題を、武力を持って解決しようと言う戦争の危機から、少なからずその不安を解消することが出来ました。この事実は非常に重要です。みんなの幸福感は非常にこれによって高まったと言えるのではないでしょうか?国境を感じないで、ヨーロッパ人として若者達がスペインに出入りしている様子は本当に羨ましいものと思うのです。これは、平和憲法を守ることを願ってきた日本人国民の今後にとって、極めて示唆的な方向付けだろうと思うのです。単なる軍事協定、自由貿易協定などの力づくの関係ではなく、「国際社会」を形成していくという方向性の問題を、日本の国民ももう少し現実的な問題として日常的に議論をすべきではないでしょうか?
 話は一見飛躍するかのように思えるかもしれませんが、スペインと南米諸国の関係は、言うまでもなく切っても切れない関係が続いてきました。この諸国家の間の関係は、必ずしも友好的な幸福な関係を続けてきたのではなかったことは、言うまでもないでしょう。しかし、新大陸発見の時代からの長い関係を基盤にして、「一つの国際社会」に属するもののみが共有できる社会的アイデンティティをそれなりに形成してきた、というのも事実でしょう。それを現段階で確認する言語は「スペイン語文化圏」というものだろうと思います。南米自体が一つの「共同体」であるというアイデンティティを示す言語に、イベリオ・アメリカーナという言語がありますが、ポルトガル語を話すブラジルを含めて、「南米社会」人を示す言語です。南米について何も知らないに等しいのですが、この混乱に満ち、今なお独裁者を戴いていたり、その後遺症に悩んでいたり、その克服の過程を進んでいたりする点で共通性を持つこの国々は、イベリアの2国ととりわけ深い絆を持って今日まできたのだと思います。その深い絆の自覚は、「スペイン語文化圏」という認識を共有するところにも現れています。いや、もうそれしかないというような現実もあるのではないでしょうか?
 スペインは、第2次世界大戦後、ピレネーを超えて、アフリカであるよりはヨーロッパの一員であることを切に求めて、懸命の努力をして、今やヨーロッパ共同体の一員として国際社会に登場してきました。この国は、しかし、より深い関係を南米諸国と持ってきたわけですが、Zapatero路線に変換して、ヨーロッパ共同体で「第3の道」を目指す方向性を新たに追求できる立場に立った一員として、南米諸国との関係にも、新たな方向性が生まれていく可能性が見えてくるのかもしれません。スペインでの社会的亀裂は、共和制以来からの亀裂が意外と深く残っているようで、殆ど相半ばする支持者を持つ2大政党が、ヨーロッパ共同体参加については合意を持って進んできたようでした。この今後の進行は、同時に、或いは南米との共同社会の形成の方向性について、良い結果を生むのではないかという気もいたします。
さて、このほど、南米アルゼンティンで、第3回世界スペイン語会議が開かれました。そこでの問題は、まさに地球化の段階との関連で、スペイン語文化圏のアイデンティティを問題の焦点としていたように思います。
 (本日の時間切れ、後日に続く)