再び、ゲバラ青春映画について お詫び

サンチャゴの静かな住宅街

Cheゲバラの青春の映画をみて、良い映画だ、という感想を書きました。この映画を見て、南米に行って現実を見てくるのも良いのではないか、と申しましたが、私は、読んでくださった方にその軽率をわび、この部分を取り消さしていただきます。本当を言うと、私はスペイン語のこの映画の台詞を聞き取れたわけではありません。映画の結末については、何かインチキ臭さを感じましたし、メロ的のように思え、最後の別れの演説的な長広舌が一体何を話したかが分からないまま、いつものハリウッド調でがっかりさせられるのかもしれないと不安に思いました。どうも最後は本当はくだらなかったようですね? 途中の私自身が通った幾つかの景色におもわず懐かしさを覚えたまま、ゲバラの見たものを見に行って、南アメリカの諸国民の多数者の実態にsympathyを体験してくるのも良いのではないか、と「若者」に呼びかけたわけでした。その後わざわざ映画を見に行ってくれた若者が居るとすると(いないことを願いますが)、多分、謝らなければならない羽目に陥っているかもしれないと、自分のいい加減さに忸怩たるものを感じています。何故、ゲバラは革命に命を差し出す決意をしたのかは、そこでは描かれていないのではないか、と想像します。私は革命家になるべきだと言いたいわけでもないし、革命を通してでなければ問題は解決できない現状だ、などと言うことを云いたいわけでもない。しかし、ゲバラのような人物を尊敬する多くの若者が南米には多くいるのだという現実も確かだし、その現実を理解しておきたいのです。あの映画ではなくて、自分が南米のあの映画に出てきた景色の場所を通ったときに感じたことをこそ、ここに描いておかなければならなかった、と私は申し訳ないような気になっています。しかし、それはそう簡単なことではありません。私も勉強不足です。
 ところで、もう一つ、酷く反省していることがあります。折しも、イラクのテロリストに日本のバックパッカーの若者が捕まって、首を切られて道路に捨てられた事が、世界中に報道されました。テロリストの行為を許す事は出来ないことは言うまでもないが、同時に、このニュースを聞いて、南米ペルーで体験したことを再び思い出さざるをえませんでした。 日本の若者が、そこに何があるのかを見に行きたいと思った。「日本の自衛隊は戦争に参加しようとしているのでなく、人道的な援助に行っているのであり、隊員が危険にさらされるようなことにはなっていない。」鉄のタンクに乗って、重火器に身を固め、周囲を睥睨しながら進んでいかないと街の大通りも歩けない、どこから「テロリスト」が攻撃してくるか分からない様な、日本の同盟国の国民とは違う。「民主化」や「復興への人道援助」を人民は望んで居て、それを支持しているのだから、街は基本的に自衛隊の支持者で満ちている」という説明がなされていて、そうした認識を持っているのだから、「そうか、何でも見てやろう、後は勇気の問題だ、」という「いつも人とはちょっと変わった」「若者」が出てきても必ずしもおかしいわけではなかっただろう、と思います。
実は「南米に見に行ってこい」という軽率な男がいて、そいつに唆されてついその気になっていってみたら「テロリスト」に捕まって、政治的な道具にされてしまった、ということになる可能性も、実は今なおあるかもしれないのです。私は、自分がひどく軽率なブロッガーであったことをこの点でもお詫びしなければなりません。
 私はペルーに旅をしたことがあります。丁度、フジモリ大統領が汚職などの嫌疑をかけられ、政治的亡命を余儀なくされて、野党が政権を執り、憲法改正を含めて、改革を宣言していた後の時期である。周知のようにフジモリ政権の時に、日本人の商社マンがテロリストに誘拐人質にされたり、大使館招待のパーティーが狙われ、大使館がテロリストの小集団によって占拠され、人質と共に立てこもられて、トンネル掘って、特攻隊が突っ込み、多くの人質の命を危険にさらしながら、勝利を収めたことは、或いは多くの人の記憶に尚生々しく残っていることでしょう。現在、日本大使館は、文字通り巨大なトーチカ、最前線の肉体相打つ肉弾戦の防衛壕のごとく、外部から内部は一切攻撃することも見ることも出来ないように要塞化されて再建されています。戦車のように動くトーチカではないが、静止している戦車といっても良いかもしれない。勿論、日本からの観光者が居ないわけではないし、暢気な若者も後を絶たないようですが、厳しくベテランの現地在住日本人ガイドによって護られ、指示に従わされて、旧市内歴史観光地区を見て回っています。現地ガイドがどれほど緊張しているかは、皆さんには分かっていないように見えました。それは、必ずしもテロリストに対してだけではなく、多くの貧しい人のせっぱ詰まった生活状態が犯罪に人々を追いやるということでもあります。現在は、かつてのような日本企業全盛時代を過ぎて、南米各地から日本人は殆ど姿を消しています。日本人は「テロリスト」の危険にたえずさらされてきました。今なお、家の前の通りも歩けない。警備員が見つめている公園で、子供を遊ばせることも出来ない、とされています。何故だろうか? その理由はたしかに単純なものではないでしょう。しかし、アメリカ人が、戦車に乗らないと街を歩けないと言うことと、日本人は雇い運転手のマイカーでなくては街の中を移動出来ない、というのは、外見の見かけの違いほど違ってはいないのではないか、と私は思ってしまいます。 かつて、日本の政府と企業は、その国の政府の政策を知悉し、その政策に、「人道主義的な援助の意味を持った開発資金」を援助し、助成して、非常に有利な条件でその国の国策に投資し、無償であるかのような返済条件を付していました。開発援助機構が、例えば発電所開発政策に基づくペルー政府の投資計画に対して資金援助し、ペルー政府は日本政府の開発援助基金から借款する基金に財政からの資金を加えて、日本の開発企業に発注し、支払いをする。自国に国内民族資本を持たない国は、外国企業の投資を呼び込むことを考えるのは、どこの国も同じです。外国の企業が自発的に投資してこない場合は、外国政府や銀行から国家が政策的に、国債を発行したり援助を受ける以外にないでしょう。国家間の保障があるのなら、多少のリスクがあっても、企業は当然この開発に参加してくるでしょう。仮に諸般の事情が思惑通りにいったら、この方式はその国への援助方式として理想的に機能したはずだ、と理論的には言えるのではないでしょうか?しかし、この政権はどれほど独裁的か、或いは、これらの計画に投資された外国資本を、政治家や資本家達がどう私的に利用するかの現状、例えば、賄賂の横行、計画途上での政変による事業の中途放棄、そういうことがこの思惑を大きく狂わせる可能性があります。しかし、こうしたことが仮に予想されても、こうした援助方式の開発投資は、企業としては、譬え、中途で企画が挫折しても、それほどの損失を心配することはない。援助の基金+その国の税金が支払われ続けられる限りは問題がない、といえるかもしれません。先方の官僚、政治家もまたしかりです。日本側としては、先ず国益、企業利益をどう護るか、が外務省、日本企業の目標であり、このような当面の政府への密接な協力こそが、いうまでもなく、最も現実適合的であると考えられ、日本国民には有利な、国家政策として決めたこのような企業の投資行動を行うことは、道徳的にも推賞されるべき行動である、ということになるでしょう。 こうして日本企業は日本丸の護衛船団に乗って、無敵艦隊のように南米でも繁栄した時期があったと想像されます。南米各地の歴代政府に協力的であることは、その国民に協力的で、従って、南米人に感謝されるべき筈だ、と押し進んでいった時期があったと思います。それは時期的には各国の軍国主義的な圧制者が政権を強権的に維持していた時期と重なっていて、日本企業は腐敗した政府と癒着している、日本企業は反国民的な企業である、という理解を一部に生むことになったとしても不思議ではありません。私の同窓には、こうした諸外国で、相手企業としのぎを削って、注文を取り、大規模なシステムをそこに開発し、その維持と遂行のアフターケアーまでやってきた人がいます。その努力は並大抵ではなく、それによって、まさに日本の経済は発展していったという時期があったのであり、私どもはそれをずっと支持してきましたので、こうしたかつての日本のサラリーマンの人の真意を批判したり、疑ったりする気は毛頭ありません。これらの人が各国企業家や政治家集団と如何に競争し、交渉し、努力してきたか、をいささか聴いているだけに、この人達を尊敬することがあっても、その癒着や腐敗の事実によって、その個人を責めようとは思いません。
 しかし、残念であるのも確かです。日本の国家や企業や個人の行動が、何時になったら当然と考え、合理的行動だと確信するこの目先だけの視角から、もう少し広い視野を持つことができるのでしょうか?そんな想いもいたします。
 こうしたことを見ている南米の一部の人たちが、こうした「日本政府と自国政府や政治家との密着ぶり」を見て、もはや革命対象でしかないと考える自国の国家・政府と癒着した日本を、自国の敵と考え、日本人を人質に取って腐敗政治をやめさせようと考えたとしても、この国では不思議なことではないかもしれません。勿論、テロは許されません。しかし、何もないところにこうしたテロ行動が向けられているわけではないことも事実です。こちらの理由が何であれ、武力侵略して占領するという行動がなければ、戦車に乗ってでなければ街を歩けないと云う状況は生じない。事実として、日本人は戦車に乗って街を睥睨する軍隊のペルー政府によって護られて、始めて街を歩けるという事態になったとすれば、もはやそこでは「平和的交渉・競争・平和的闘い」である経済は成り立ちえなくなり、日本マネーはそこから退去することになり、沢山の製造業の日本企業社員も、その生活基盤を支える事業の日本企業・社員もそこから退去していく以外はなくなるでしょう。こうして、今、一握りの日本人以外には、滞在する日本人の居ない南米があるのではないでしょうか?勿論、別な見方から別な表現も正しいでしょう。すなわち、そこには投資を決定できる条件がかけている。投資のうまみはもはやそこにはない、と。ペルーの場合は、例えば、今なおフジモリ元大統領の人気は一部に高く、それは貧困層だ、という事情もあります。それは彼の就任初期の頃、実際に貧困層住区に毎週1つの勢いで小学校を作るなどの実績を積んだからです。話はややこしことです。
 
チリにいったとき、こうした時期の日本企業全盛時代当時、このサンチャゴの高級ピソに住んでいた日本人の夫婦にお話を伺いました。当時、チリの日本企業に対する治安は安定し、日本社員はチリ政府に優遇されて、政府間融資、民間企業の投資が期待されていました。その人はこの時のチリは素晴らしかった、といいます。時の大統領はピノチェト。アジェンデを倒して軍事政権を樹立したことで有名です。日本企業にとってはこの時期が黄金時期で秩序だった社会は素晴らしかった、といいます。テロの恐怖など感じることはなかった。
 国民の側から見ると、この時期はチリの最悪の暗黒時代でした。彼らの多くにとっては、軍事政権は国民の自由を奪い、人権を無視し、発達を阻害した時代として、世界にその専制政治からの解放への支持を訴えた時期でした。こうした視点からすると、最も好ましくない企業、悪徳政権と癒着した企業、日本企業はそうしたものの一つと見られたかもしれません。
 軍事政権崩壊後は、しかし、軍事政権のなごりが強く、今なお国民は秩序に従う従順さを獲得できたのだ、だから南米ではチリだけが安全な国になったのだ、と彼氏は云うのです。ピノチェトと緊密な親近性を持ちえた事を誇らかに語るのでした。長い歴史の中で、チリからは、アンデスの人々は殆ど居なくなった、といわれています。今のチリには褐色のインディオ系の顔立ちの人は非常に少ないのに驚きます。ここは様々な人種の混合した白人社会です。この時代を懐かしむ彼は、インディオの人たちを土人土人といっていました。こんな人はさすがに今日日本人の中には少ないのではないかと思います。しかし、この人は一体どこからこんな意識を植え込んだのでしょうか?
 この方は今の日本にいるよりはこちらにいた方がずっと住み良い、といってこちらの企業に現地採用として就職しています。しかし、日本企業ではなく、地元企業にチリ人として働くので、非常に少ない賃金で働くことになり、日本人としての生活枠を護ろうとすれば、全く暮らすことは出来ないことになってしまう、といいます。奥さんの方は日本に帰りたいといいます。夫の実家の農村での生活の方がずっと暮らしやすいし、地域の人との村のつき合いが大好きだが、夫はサンチャゴが好きで、お金がなくてもここで出来るだけ過ごしたい、といっているとのことでした。しかし、彼も、まもなく帰らざるをえないだろう、と寂しげです。

要するに、日本人は、現在でも、犯罪に出逢う確率はかなり高いと言えます。現在は、国際状況が、かつてとはかなり変化してきましたし、日本も慎重になっていると思います。もうテロという形でおそわれる危険度は、国によってですが、チリやペルーではかつてのような事はないようにもおもいますが、犯罪に巻き込まれることは大いにあり得るでしょう。それは場合によっては、危機状況が高まったときに、テロということに再び繋がるかもしれません。世界の各国ともに、その内部に様々な下位集団や、下位文化が存在し、いろいろな文脈の意識と行動が交差しています。そうした多様なまなざしの中で、日本や日本人は、我々が知らされているよりは、遙かに複雑で多様な反応を受けているでしょう。
 こうしたことをとりあえず伝えて、ゲバラの青春映画についての記述を一部取り消さしていただきたいと思います。申し訳ありませんでした。

最初の写真は、チリの首都サンチャゴの静かなアパート街です。下の写真は、ペルーの首都の町並みを丘の上から写したものです。砂漠のような自然の中に作られた、かつてのスペイン植民地全体の首都でもあったところです。3枚目は、リマの中心部の町並みです。全ての商店、学校、住宅は鉄柵で囲まれています。