初恋の頃

 最近、weblogというものに夢中になっている人が沢山いることを知りました。私も教えてもらって始めてみると大変興味を引かれ、時々ブロガーと称する人たちの文章を覗くようになっています。ブロッグの面白さは、不特定のヒトの日記をよませてもらって、通ずるものがあると「コメント」を書いたりして交歓することが出来るし、また交歓しないまでも、住所をメモに残して去るというような要領で、読んだしるしだけは相手に御挨拶しておくことが出来ます。心の丈を勝手に書いて、それ以上の義理もしがらみもないところは、今の若い人には大変快いことだろうと思います。老人の私にも、待ちかねていたつき合いの仕方、という感じでおります。
 交歓の関係はこんな風に始まったりします。ある時、自分の日記をZさんが訪問し、コメントを書いてくれました。返礼を書いて、その方の日記を覗いてみると、こんな孫が居たらいいな、というようなみずみずしい感性の少女でした。言葉の交歓は、今なおそれきりですが、それから、時々彼女の日記を見ています。すると、彼女は恋を捨て、心に傷跡を残している様子が、だんだんと分かってきました。私は何か声をかけてやりたいのですが、そこはブロッガーのエチケットだろうと確信しますが、何かを言えば、余計な個人領域への押し込みということになりそうで、いろいろと考えるにとどめています。そうでなければまた、楽しい私の中だけでの、この子との会話の楽しみが消えていくことは必定ですから。

 私の中だけの会話が、空想へと発展し、回想へと回帰していきます。それは事実でもあり、事実ではありません。丁度小説を構想するような楽しさです。それは楽しいひとときで、やはり、差し支えなければ文章に書いて彼女に、いや彼女だけでなく通ずる方々に読んでもらいたい、と思うのです。かくしてブロガーの書き手になって語ります。

数年前に、見知らぬ男性の方から、全く見知らぬ方の訃報が届いた。
 「佐東○○江は、ここ数年前より病を得て、闘病していたところでしたが、*月*日、この世を去りました。ここに謹んで生前のご厚誼を謝し、お知らせいたします。尚、葬儀の際には、―――――」
 佐東さんという名の知人は私に思い当たるフシがなく、私には全く記憶にないところで、何かの間違いだろうと思ったのだが、ふと、突然、知っている人の名前と旧姓がよみがえってきた。非常に明るい性格の女の子で、高校2年だったやせっぽちの私には肥りすぎという感じで、電車の中で、見上げて話しかけてくる笑顔一杯の丸い顔が鮮やかによみがえった。「そうだ、その人に違いない」と私は思った。高校時代の合唱団で週に一度一緒に歌っていたが、卒業以来一度も会ったことはなかった。勿論、結婚して出来た家族についても全く面識はなかった。どうして彼女の主人は私の住所を探し出し、訃報を呉れたのだろうか。そうだとしても、かなり不自然だが、私には思い当たることは一つしかなかった。卒業して30年ぐらいはたっていたと思う。或いはもっとたっていたかもしれない。高校同窓会の案内が来て、会合を呼びかけていた。みると、彼女が世話人で、その端書きに個人的なお誘いがあった。
「昔のことにはなりますが、懐かしい友達とどうしても会いたい想いが最近募っております。お待ちしておりますので、是非いらしてください。○○江」
もうかなり疎遠になった、顔も思い出せない高校時代の友人の集まりに、はるばると他県まで会いに行くことは私には考えられず、勿論、仕事もあったが、「欠席」とし、次のように端書きしておいた。
 「突然のご案内、懐かしく拝見いたしました。○○江さんには、御元気でご活躍の様子で何よりです。私にとって○○江さんと、いつもご一緒の==子さんのお二人は、最初に親しくしていただいた、女性というものについて最初に観察の機会を与えてくださった懐かしい大事な方々です。お会いしたいとは思うのですが、残念ながら---」
というようなことを書いたと思う。それがどんな反応を彼女や、その家族に起こさせたかは知るよしもない。何の問題もなかったはずだ。
しかし、この端書きで彼女がどう思うかは、私と彼女だけのある種の感慨を読みとったはず、とは思っている。私たちはある街の合唱団に参加していたのだが、終わると、私たちは同じ街に帰る合唱団の仲間と、がやがやとしゃべりながら、夜遅く同じ電車で帰るのが常だった。このとき、彼女はいつも一緒の女友達と私と3人で話したのだが、寂れたはずれの家のない海岸沿いの同じ駅で、私と彼女だけがおり、私が家まで送ってから、自宅に帰ることがいつの間にか習慣になってしまった。二人だけで帰るときは、さすがに彼女の小太りの胸の弾みなどが気になったりしたが、他愛もない話ばかりで何事もあるはずもなかった。ある時、彼女は、一度家の前まで送って別れると、暗い砂の道を息せき切って追いかけてきて、
「お母さんがこれを、って」
といってリンゴを手渡して来たことがあった。私たちは偶然、指とリンゴを一緒に握って、その時はさすがにひどく愛おしい気持ちになったことがあった。
その後、長い夏休みの間、一緒に合唱をすることもなく、学校も休みで、そろそろ翌年3年生になってからの将来に備えての勉強や進学のことを考えねばならず、悶々として、やたらと乱読して閉じこもる不健康な日々を送ることとなっていた。何も決まっていない私の将来の選択について、また、安月給のサラリーマンの子が進学すると決意するとすれば起こってくる経済問題の重圧など、悩みは多かった。とりわけ進学して何をやればよいのか,やりたいことはそれなりにあったのだけれど、
「それでどんな職業に就くの?」
とおきまりの文句が呪文のように聞こえてきて、結局否定しなければならない気持ちになり、行きたい大学の情報などについても全く無知で、「良い大学」といわれる大学が、どうして良い大学なのかも、結局、誰も説明してくれなかったので、わからなかった。こうして、周辺をおろおろしている母親が疎ましく、説明不可能なまま閉じこもり状態が続いていたと思う。そんなところへ、どの様にして探し出したか知らないが、例の2人の女子高生が自転車に乗って訪ねてきた。嬉しげに母親が、
「お友達がいらしたわよ」
という。説明するのも面倒なので、自転車の尻に○○江をのせて、3人で海岸に出た。何を話したのか、今ではさっぱり思い出せない。突然現れたこともあり、不健康な汗くさい体をしていたままなので、後ろに乗った彼女がどう思うだろうかと言うことばかり気にしていたことを思い出す。
つまり、それだけで、私としてはお終いの話なのである。明るく無邪気で、家まで来てくれた彼女達とは、それ以上のものではなかった。しかし、思い起こすと、高校生の時代には、どの女生徒も輝いて見え、どの子にも恋心を抱いていたのではないか、とさえ思うこともある。だから、彼女にはどう見えていたのだろうか?
私には、しかし、ある意味ではお目当てが居た。殆どまともなことで話をした記憶がないけれども、ピアノを弾く女の子が輝いて見えたのである。下級生に二人居て、1人は何か金持ちのお嬢さんみたいで、ちょっと話すとき鼻が上を向いていて、私とは無縁の世界の子のような気がした。もう1人は、時々トチったりするのだけれど、「エリーゼのために」位は、終いまで上手に弾けたし、歌の伴奏は上手にとちることはなかった。私は高校生の時、クラシックという音楽があるんだ、ということを発見し、夢中でいろいろと聴きまくったりしていたので、秘かに、「ピアノの弾ける人と、将来結婚したい」と心に決めるところがあったのである。しかし、高校時代、この2人とは口をきいたこともなかった。
大学に入って2年生の時、私は東京駅の周辺で偶然この「エリーゼのために」の彼女に出逢った。
「イヤー、今どこにいるの?」
「この近くの国鉄で働いているわ」
という話で、いつの間にか、本人同士も意外なことに、二人は私の学校の近くで会うことになった。隣の県の彼女の住所から私の学校まで、2時間はかかったところである。二人は高校時代の友達だ。懐かしく、すぐ親しくなり、当然のように下宿にやってくるようになって、4回、5回と重なった。そして、ある日、
「あら、あなた、ずいぶん大胆なのね--」
と、言われて思わず、我に帰る始末となった。高校時代の友達は,記号としての身体から入っていく友達関係で、その他の時代の友達よりも一入親しさの深い関係になりえると思う。しかし、ふと、我に帰るとき、何かが違うことに気づくことになるかもしれない。私は、その時点で我に帰ったとしても、ここ3/4年で二人の歩きたい道は大きく分かれ、相互に理解不可能になるだろうという予感が雲のように湧いてくるというだけで、ひかれる気持ちは強かった、要するに未練たらたらの気持ちを何年か引きずったことも事実ではあった。
こうして、わたしの場合、---、この関係はお終いとなった。鼻持ちならない手紙を書いて。
私には、大学に入り親元を去るに及んで、母から一つ手酷い忠告を与えられていた。
「女性は、男に好きだといわれたら、それが入れ墨みたいに心に染みついて一生離れないものなんだよ。だから、本当に好きで結婚したいと思わなかったら、決して好きだなどといってはいけないよ」
とすると、それは一回きりしか言えないことになる。
私には、そうだとすると、我に帰った時点に来れば、何かが違うと言うことに気づいたときは、たとえ恋をしたのだとしても、「切らなければならない」。
だけれども、当時、私は、同時に例えば、川端康生みたいな奴が大嫌いなのではあった。大学生は人間でも、伊豆の踊子は人間ではないのか? 雪国の女は、人格を持った人生を生きていないとでも言うのか? 森鴎外の大学生も、結局同じではないか? 私自身、「将来のため、勉強するためには、君は邪魔なんだよ」といって、平然とするわけに行かないのではないか? 
 彼女は黙って、もう来ることはなかった。切れていない糸がどこか繋がっているような気がしながら、私たちはもう会わなかった。
3年後には、私の道はもう変更不能になっていた。俺って何をする奴だろう、ということを鏡に向かって絶えず尋ねたり、人の反応を見たりして、過去の自分の物語を作り、自分はこんな風に育ったのですと作り直して、自分のイメージを探すことはもはや許されなくなっていた。通常の健全な職業生活にはもう戻れない道に入り込んだのだ、と思った。こうして、4年間ぐらいのブランクの後に彼女と会いに出かけたとき、彼女が同じ職場で恋人も無しにずっと働き続けていたことを知った。しかし、
「もう来ない」
といって本当に、見えない糸を切って、別れたのである。酷い話である。
この酷い話しをどう償えられるのかは、私には分からなかった。ただ、あの選択は彼女にも正しかったはずだと思わないわけには行かなかった。結婚していたら、不実な俺が居て、酷い地獄になっただろう。しかし、ただ、女性の優しさには、もしかしたら滑稽なくらい尊敬の念を抱くようになったことは確かである。
○○江さんに、余計なことを書いて送ったのも、或いはこうした想いがそうさせたのかもしれない。
 (言わずとしれた、1950年代初め頃の話である。でも、通底するところは現代も、どうなんだろう-----。)
 (本日は1行目から全くの事実無根のfictionでした。小説書きでない奴のfictionですので、誤解する方が居るかもしれません。念のため。個人生活に興味は大いにあるのですが、私は自分自身や特定の方の生活の記述に余り興味が持てません。「私生活」領域について記述したくなるときは、大体、自分にとって興味が持てるfictionを構想できたときです。文学という領域の本格的な小説をそのうちにちゃんと勉強したいと思いながら、まだしたことがありません。私のこれからの楽しみにとってある領域といっても良いでしょう。しかし、間に合うかなーーー。)