国際的な社会移動 国際社会学的観察

ある留学生クラスのパーティ

*{日本の大卒男性若者の外国滞在者が増えました。}私には、つい目がそこにこびりついてしまうように気になる社会現象がいくつかあります。その内の一つが{社会移動}の現象です。ここでいう社会移動とは{社会的地位の移動}といってもよいのですが、自分の生まれ育った家族や自分自身が作った現在の職業階層や収入・教養・企業規模・身分などの社会的地位を上昇・下降移動することや、豊かさ・安全・快適さ・機会などの環境的要因の異なる地域を移動することなどのことをさします。外国に行ってみますと、自分も含めて、{国際移動}といってよい、いわゆる求職・就業のための{移民}や{留学}などの外国人と出会う機会が多くあります。そうゆう人がそこの国の人と「競争」して求職・就業しようとしているわけですが、例えば20年前には、ヨーロッパでは、現地長期滞在の日本人男性といえば、特定の恵まれた大企業の現地職員や、研究・研修に派遣されている特別専門的な定職を持った人だけで、大卒で定職・ないし予定された職業的地位のない日本人の若い男性たちは殆どみなかったといっても良かったでしょう。最近非常に目に付くようになったのは何故だろう、という疑問を持つのですが、国内での「製造業の空洞化」といわれる状況とか、グローバリゼイションとかいわれていることと大いに関係があるように思われます。現在、ヨーロッパで勉強し、その国の外国語を一定程度勉強して話せるようになり、良い給料で安定的な就職を探そうとしても、これらのいろいろな国からの移動者たちにとって必ずしも容易なことではないようです。スペインの場合でいうと、日本やドイツなどの企業が今大量に東欧に工場移転して、出張して住んでいる長期滞在型の日本人が急速にいなくなっています。日本の新聞を読んでみても、それは容易に目に付くようになっている変化に気づきます。

以下、今日のわたしの日記から。
8月20日 朝日新聞 『低賃金の限界? 中国・広東省珠江デルタ地域) 農村からの出稼ぎ敬遠』。「民工」と呼ばれる農村出身出稼ぎ若年低賃金労働力(多くの女性を含む。)が、経済発展によって、上海周辺の長江デルタ地帯などの新たな工業地帯が急成長し、内陸農村からの過剰人口部分が、そちらの地域にも大量に移動するようになっている。また大量の民工の供給地域である内陸の湖南省などの内部に企業を作る動向も現れ始めている。この結果、これまでの労働移動・地域移動のパターンが変動しはじめている。中国高度成長の基盤となっていた低賃金・1日12-14時間の珠江の長時間労働は、移動の選択肢が増えると敬遠されるようになった。つまり賃金上昇、労働時間短縮の動向が見え始めた。また農村部人口抑制施策の効果も出て来始め、若年労働力不足が現象し始めたという。こうして民工の労働条件の改善、生産地の内陸部への進出、国内の内陸部の商品需要拡大=商品市場拡大という高度成長の好循環の次のレベルへと着実に中国は進みつつあるようだ。
 同様にヨーロッパの場合、中東欧諸国のEU加盟に伴い、低賃金の中東欧への工場移転が進みつつあるが、生産大手が工場移転の抑制と交換に、賃金据え置きのままでの労働時間の延長(週35時間から週40時間へ)を労組との間に協定して居ると報道している。同様にフランスも法定労働時間を週35時間の現行を40時間に改正しようという動向が現れている。因みに中東欧の賃金は独仏の1/5だという。中東欧諸国のこの度の加盟で、経営側は労働側に一気に攻勢をかけ始めている。
 経営の戦略から生じるこの同じ事情は、日本については、同じように朝日新聞トヨタ 世界戦略始動」という記事に見ることが出来る。トヨタ自動車は東南アジアと南米、南アフリカを拠点に、新興市場向けの多目的車IMFを生産し、世界に輸出するプロジェクトを本格的に始動するということを報道している。日本に原型となる車のない戦略車を5種類開発し、それを全くすべて上記の海外生産拠点だけで生産する、というもの。部品工場は異なった各拠点国に役割分業し、組み立てはさしあたって、東南アジア市場向けはインドネシア中南米向けはアルゼンティン、欧州・アフリカ向けは南アとして、このプロジェクトを始動するとしている。ヨーロッパ大企業やトヨタのこれらの巨大プロジェクトの進行は、旧来の意味でのそれら企業の母国の雇用を減少しても、母国内に雇用創出するということはないことは明らかであろう。

それでは日本の若者が海外の拠点国にいって就職できるか?例えば、スペイン語を学んだ学生がアルゼンティンにいって就職できるか?もし、アルゼンティンの現地採用給与で生活するのであれば、それは可能かもしれない。しかし、多分、それなら日本で低賃金の職場を探そう、ということになるかもしれない。南米の国の給与水準の低さは、日本の若者の想像を遙かに超えていることについては、いつか他の機会に伝えたいものだ。