日本映画「誰も知らない」

*日本映画「誰も知らない」を観ました。個人的な感想を書きたくなる大変良い映画でした。
 育ててくれる親が居なくなった兄弟姉妹の話ですが、わたくしも4年間ほど生活の面倒を見てくれる「父親を失った」経験があり、学校にもいけないで残飯と燃料になる廃材を探し、日銭を稼ぐ機会を求めて町を彷徨た経験がありますので、大変身につまされるお話でした。私と映画の場合とは、「親を失う」事情がまるで違いますから、一見すると関係のない話のように聞こえるかもしれません。時代や社会によって、どんな事情により子供が「親を失う」ケースが多いかは異なっているでしょうが、「親を失った」子供たちの経験は非常に似ているように思われました。近代になると、多数の私たちの生活は先祖伝来の農業・漁業で自営するのでなく、返るべき故郷もなくなり、「家」と呼ばれる親族システムも核家族規模になり、やがて大多数の人がそれらから「自由な」サラリーマンとして、職業を持ち雇用されて暮らすのですから、労災であれ、「合理化」であれ、職業を失ったり、家族を養うに足りない労働しかできない事情に置かれると、家族は簡単に解体危機状態に置かれます。この映画の時代背景と私の時代は非常に違っていますが、この点では何らかわりはないでしょう。 この映画の場合については見てください。 私の場合は、「親を失なった」事情は戦争です。 父親が戦争に行き、しばらくの間、僅かな金銭が政府から支払われていたようですが、戦争末期には生活物資そのものがなくなり、やがて敗戦となると、インフレと廃墟のなかで、稼ぎ手となる「家族を失った」多くの人が餓死寸前に追い込まれて、食べ物を求めて町を彷徨いました。この映画と同じ年頃の姉弟4人の命をかろうじて支えた長男の私と母親の4年間の生活を思い出しました。幸いに私には母が居ましたが、当時の女性は、男に100%依拠すべき「良妻・賢母」という教育・躾を受けていました。いいかえれば、世間に出て働き自立する能力を全く持たない専業主婦が理想でしたので、働き手を失ったサラリーマンの大半の妻は、12歳の男の子でも、それの稼ぎに頼る他なかったのです。現代日本社会のなかにも、事情は異なれ、夫を失い、自立して働く力を持たない女性である場合、幼い長男の力に頼り、何とか生き抜こうとする時、こうした映画のような家族の危機に陥ることは、数は少ないかもしれないが、大いにあり得るだろうと思います。しかし、私の時代は軍国主義教育と戦争と敗戦の時代でした。父の居ない私のような子供は大都市の中で多く見かけたものでした。若い方にはピントがはずれた感想のように思えるかもしれませんが、敗戦記念日の週でもあり、「有事法制関連法案」の成立、自衛隊イラク派遣、自衛隊文民統制の枠をはずす試み、「改憲」に向けての2大政党の多数意見の動向、など「戦争の出来る国」「戦争に参画する国」の準備が着々と進むこの頃、こうした映画は、私には「戦争体験」を思い起こさせ、何の役にも立たないかもしれないが、こうした感想を特に若い方々に対して寄せたくなるものでした。
しかし、勿論、この映画の親子の事情の方が、若い世代の人にとって、より差し迫ったリアルな時代環境を反映したものだと思います。「成果主義」とかいわれる職業活動の評価原則に沿って、多くの人が「一時雇用、時間雇用」を強いられ、暮らせるだけの「仕事の時間」を求めて町を彷徨う姿が、多くの人に見られるようになった現在、間違っても「強い日本」を求めて、「戦争の出来る国」になろうなどと思わないようにしてください。もう十分に世界の中で、「強い国」は憎まれ孤立しているのですから.

(追記) 上記の日記を書いた後、朝日新聞に映画「誰も知らない」の感想文がのっているのを読みましたましたので、コメントを書いておくことにいたします。著者は森岡正博大阪府立大教授(生命学)とあります。
 「良い映画は私たちが今まで人生の中で経験してきたいろいろな感情や、胸のときめきや、辛かった出来事をありありと思い出させ、そればかりでなく、してこなかった経験までも---、「思い出させてくれる。」」といって感想を書いている。全く同感だ。森岡氏は「子供たちを此処まで追いつめて行った大人の姿----子を捨てた不在の父親こそが、」責任ある大人に他ならないし、私たち自身の姿なのだ、といっている。私の感想も全く同様な趣旨であるが、この映画で子を捨てた父とはどのようなものかとさらに問うとき、そこに現れるのは、もしかしたら「貧窮でなく暮らせる」と自己認知していた人口中90%の「中流層」の崩壊であり、今や階層として形成されて来始めたのではないかと思われる「下」層の人たち、その層の男性かもしれない。その原因は、生活の日銭を求め、働く機会を求めて彷徨う一群の人たちの出現に見なければならないのかもしれない。ますます「自由な」労働市場の展開、資本の国際的な「自由な」移動という戦後の一つの理念型、アングロサクソン型の方向への方向付け、「公正」の実現のもとで、家族解体のある類型としてこのドラマに共感し、将来に不安を感ずる人は多いかもしれない、と私は思う。「弱い人が層として構造化していく状況に、「強い日本」を誇示しなければならないといきりたつのでなく、ひずみを負わせることになっている「弱い」ものにこそ、自らの責任をとって解決していこうとすることこそが、「勝ち残っている」ものたちの責任でもあろう。この点も森岡さんの思いに同感である。