日本は今「新聞週間」だそうですね。それででしょうか、10月3,4、日に「英国新聞経営事情」という連載記事がありました。以下その要旨です。

サラマンカ大学グラウンド

 3日。新聞jarnalismの激戦地イギリスで、「タブロイドショック」、新聞サイズを半分のタブロイドに変える試みをしている。Independentが最初。面白くないと私も思っていたが、販売数が減少したので、その対策としてタブロイド化したが、見事に成功し、急速に挽回することが出来た。理由は店頭販売が多く、通勤時に買う人が殆どなので、通勤で読みやすく、1面記事は減り、写真数も増え、項目数は維持しても記事も短くした方が売れるという。活字離れの若者と女性をターゲットにしたので、暮らしと娯楽記事が大判より増え、政治などが減った。タイムズが追随し、ガーディアンもベルリン版にサイズ変更した。結果的には働き盛りを中心に読者の6割はタブロイドに乗り換えた。
 4日 「メトロ」旋風追う各社。「無料紙の成長」ロンドン地下鉄駅に積み上げられたタブロイド紙「メトロ」は無料紙で、発行部数100万部に5年で急成長した。サンガ337万部、全新聞合計1226万部だから大きな成長。記事は短く、少なく、本数も少ないし、政治、外交は冷遇。20分で読めるのが好評。読者層の平均年齢31才、44歳以下が77%、スタッフの多くは20歳代。若年層を中心に新聞を読む人が35%イギリスでは減ったと言うが、既成紙を読まない人でも無料なので読む。この会社の親会社はdaily mailを傘下に持つassociated News. 広告収入が目的で、十分黒字となっている。一般紙の広告収入は減ってるが、広告依存度が高まると経営優先になったり、契機の影響受けやすいと慎重だが、無料紙を出すことを検討して居るとも言われている。無料紙の方向に進まざるをえない市場万能主義のこの時代では、無料紙もジャーナリズムの重要な一環だという位置づけをする必要があるだろうし、その質の高度化に責任を持って望むべきでしょう。
 昨日、Salamanca市にも無料紙があることを述べました。この記事を読んで、テレビにもよく似た事情があることに気が付きます。日本にはNHKという半官半民の、民間テレビと比較して、研究所や固有の論説委員や外国派遣の報道スタッフなどがかなり充実して居ると思われる放送機関を持っています。下請け別組織の外部委託という形を取っている放送番組もかなりあるようですし、外国放送番組を購入して放映している番組もかなりあるようですが、受信料徴収による豊富な資金をもとに高価な報道番組も購入しているように思われます。これに対して広告料に依存している無料放送機関の番組は、ニュースや報道番組自体、余りコストのかからない方式によるものが多く、新聞社と結合関係を持ってニュースを放送しているかに思えます。テレビ機関としては、「聴取者量」を競い合い、広告収入を効率よく上げることをさしあたっての直接目的にするという現実があって、先の無料紙と同様な傾向を持ってきたと思われます。民間テレビはその発足時から、テレビでなければ生まれなかっただろう独特のエンターテイナーを産出してきました。そのハシリは大橋巨泉で、その該博な知識がすべて遊び化されている人間の存在に私なども驚きを持って受け止めました。そうした知識や道徳や感情の娯楽化の専門家たちは、しかしそれほど多くでてきませんで、現在は、そうした「大衆化された文化」の一消費者でしかないタレントなる人たちを数多くならべる番組が殆どのように思われます。つまり、無料広告媒体として大半のテレビが設置され今日に及んでいます。日本のテレビは、NHKを維持しているため、広告料だけで維持しているテレビ以外ない他の国々の一部と比較すると、イギリスその他のように、報道番組や文化番組に良質のものを提供することが可能になっているように思います。最近はNHKの上層部に不祥事が度重なったりしていることもあり、一般庶民層に貧困層が増大しつつある事も関連していると想像しますが、聴取料不払いの人が増えて来つつあるようですが、ジャーナリズムとしての優れたテレビ組織を我々は失ってはならないと思います。そのため、聴取者をも交えた各関係者のこの問題への慎重な行動を必要とするように思います。
 もっと現実の正確な認知が必要な情報の産出と流通の世界があることにも気づきます。Weblogのような世界です。そこでは、丁度モビルが普及していっているように、これから殆どすべての人が参加して「情報」を交換し合うことになるでしょう。モビルは当初さしあたっては電話機能が主で、特定個人のネットワークに限った個人情報産出と交換の個人的ネットワークですが、weblogはそれを一般不特定多数に対して行うもので、お互いにテーマを共通にしたり、趣味や社会的性格の似たもの同士がコミュニケーションの集団を形成し、ジャーナリズムとの関わりを媒介してのみでは、相互に見えない社会的相互作用が、バーチュアルになってきて、社会的「下位文化」を形成する明確な場となってきているように思われます。自殺を希望するものが集まって集団自殺するという事が可能になった具体例は、恐ろしいが事実です。一つの新しいタイプのジャーナリズムに国民各人が参加するというユートピアが語られたりしますが、それもそうでしょうが、さしあたってそこで交換されている人々の産出する「情報」の圧倒的部分は、娯楽性、流行性の基本枠で生産されたもので、如何に「面白いか」の一点だけに焦点を置いたものか、良い商品を探すという情報を求めるものだけで、「下位文化」はそういう方向で「多様化」しているように思われます。注目して行かなければなりませんし、若い人たちにこうした現実の分析の目を持ってもらい、人間の幸福につながる情報の生産者=職業人として、新たに進出してもらいたいものと願うものです。